81 / 84

呼ばれた気がした。

 ツルバミに呼ばれ、甚雨に跨って大慌てで駆けつけた青藍は、その光景に目を丸くした。  板の間でぐったりと身を投げ出した天嘉の顔色は白く染まり、膨れた腹は逆に熱く、母体は明らかに危険な状態であったのだ。触れた腹は奥の方で脈を打つ、子がうまく産道を開けずにいるようであった。   「いつからだ!」 「四半刻程前から意識を失った、腹に子の妖力が停滞している。まずい、どうしたらいい!」 「悪いけどちょっと失礼させてもらうよ、」    そういうと、青藍は身を投げ出していた天嘉の足を開いて下肢の確認をする。ツルバミによって下半身に薄布を被せられていた為、青藍の表情は見えない。しかし難しい表情で顔を上げた青藍の様子に、蘇芳は小さく息をつめた。   「俺たちは男でも孕む。だから自然と産めるように産道は開くんだ。だけど、天嘉は人間だ。本来は産める体じゃない。」 「なら、一体どうすれば…、」 「腹を切るしかないよ。そうしなきゃ子供も天嘉も危ない。」 「腹を、切るだと…!」    ツルバミも、蘇芳も、そして、ただならぬ様子に駆けつけた屋敷の者たちまでもが顔色を悪くした。天嘉の腹を切る、それも麻酔なんてありはしない。青藍はやるなら気絶している今が一番負担が少ないというが、蘇芳は真っ青な顔をして言葉を失っていた。   「旦那、あんたが孕ましたんだ。覚悟をお決め。」 「死なせたくない、」 「死なせないためにやるんだよ!」    ツルバミも、青藍も、目の前の山の総大将である蘇芳の見たこともない葛藤混じりの怯えた様子に、少なからず驚きを隠せなかった。まるで行き場を失って取り残された幼子のような、そんな空漠たる不安が隠せぬ表情であった。   「お、俺は…、」 「天嘉なら大丈夫だ。だって、あんたの嫁だろう!」    蘇芳の瞳が揺れた。そうだ、天嘉は自分で決めてくれた。総大将の嫁として強くなければならぬと、口にはせずともその立ち振る舞いで示してくれてきた。蘇芳は唇を強く噛み締める。この場でしてやれることが、青藍の提案に頷くことしかできないと言うのがもどかしい。しかし、可能性を信じるのであれば、蘇芳は頷く他はなかった。   「天嘉を、子を頼む…、」 「あいよ。ツルバミ、万が一に備えな。黄泉路に迷い込まないように、先んじて獄卒に事の運びを伝えてきな。」 「う、承りました!備えあればと言うやつですな!」    青藍は襷で着物の袖をまくると、深呼吸をした。人の腹なんて切ったことはない。幸い仕事柄道具はもちろん、そういった医学書だって読んできた。しかし、念のため読んでおいた人の体に関する書物がここにきて役に立つとは思わなかった。  やらなければ何も始まらない。青藍は、蘇芳に目を逸らすなとだけ伝えると、影法師に命じて必要な道具を煮沸してもらう。  蘇芳は言われるがままに天嘉の体を仰向けにして押さえると、深く深く深呼吸をした。覚悟をお決め、青藍の言葉が鉛のような重さを纏って蘇芳の内側に染み渡る。    膨れた腹に、消毒液がかけられる。鈍色の切先が、蘇芳の目の前でゆっくりと天嘉の腹に沈み込んでいった。              瞬きを繰り返す。そこは見知らぬ場所であった。爽やかな風が吹き、天嘉の立つ足元からふわりと白い花びらが舞うように散らされて、とても綺麗だ。風情とかそう言うのはよくわからないが、これはきっと、花嵐というのだろう。    足取りが軽い。今なら、なんでもできそうな気さえした。素足で踏み締める草地の感覚が心地よい。澄み渡った空気が広がるこの場所は見覚え何てない筈なのに、どこか懐かしい気さえした。   「あったけえ、…ああ、いーい天気だなあ。」    天嘉はなんだか気分がよくて、その晴れ渡る空をゆっくりと眺めたくなった。腹を気にするように、ゆっくりと腰を下ろす。いつもなら膨らんだ腹で苦しくなるせいで、仰向けに寝るようなことはしない。だけど、今日はなんだかいける気がした。   「……、」    お腹が暖かい。天嘉はゆったりと流れていく雲を見上げながら、のんびりとしていた。  時折、風に散らされた花々が視界を横切る。抜けるような青空に心地の良い風。これで横に蘇芳が入れば、文句はないのに。そんなことを思って、はたと気がついた。    なんで自分はここにいるのだろう。もしかして、夢を見ている?ツルバミに明太子入りのだし巻き卵をねだられて、そんでどうしたんだっけ。  少しだけ引っ掛かりを感じて考え込む。妊娠してから、悩む時は決まって腹を撫でるのが癖になってしまっていた。だから、天嘉はいつもの癖でそっと腹に触れる。   「…、ん?」    ふにゅ、と見知らぬ声が聞こえた気がする。なんだろうと、ゆっくりと手のひらでもう一度しっかりと触れてみる。暖かい人肌だ。滑らかな触り心地と、ふくりとした柔らかさ。天嘉はいよいよ訳が分からなくなって、恐る恐る腹の上を見た。   「…はぇ…?」    なんとも間抜けな声が出てしまった。天嘉の目線の先には、腹の膨らみの代わりに柔らかな体をした小さな赤子が丸くなって寝息を立てていたのである。   「え、何。どこの子…。」    手のひらで、その小さな体を支えるようにしてゆっくりと起き上がる。ふわふわの黒髪に、うすらと開いた瞳は不思議な色合いをいていた。  裸の幼児がなんとなく寒そうで、天嘉は着物の袂を開くと包むように抱きしめる。頭では疑問符が忙しなく散っている。しかし、なんとなくだが、もしかして。という気持ちは浮かび上がってきてはいた。   「甘い、」    鼻先を近づける。ふくふくとした赤子からは、甘くいい香りがする。天嘉の胸元に柔らかな頬を押し付けて、ムニリと押し出されたおちょぼ口がかわいい。赤子の背を宥めるように優しく撫でながら、少しだけドキドキしてきた。だって、なんだかこの子は蘇芳に似ているのだ。    膨らんだ腹の代わりに、天嘉の上には赤ん坊。愛おしい重さである。その命の体温を確かめるように、そっと小さな頭に顔を寄せると、その額にそっと唇を寄せた。   「琥珀?」 「ぅ、」 「ふは、」    小さくよった眉間の皺は、きっと愚図る手前だったのだろう。へニョンと下がった眉が可愛くて、泣かないでとあやして入れば、何だか蘇芳の声が聞こえたような気がした。   「ん、何…」    遠くで名前を呼ばれている。囁くような声に、耳がくすぐったい。ふわりと風が吹いて、花のひとひらが踊るように舞って、それに誘われるように視線を向ける。    せせらぎのような小川が流れていた。草原に一本、それが緩やかなうねりを見せながら、その先へと案内するように続いている。  琥珀を抱いたまま、起き上がる。天嘉の足は自然と柔らかな草を踏み締めながら落ちらに向いた。近くで見れば、本当にささやかなものであった。そっと覗き込めば白く小さな小石が重なり合い、その上を滑るようにして水が流れていく。澄み切った水は冷たくて気持ちがよさそうで、透明度の高い小川に誘われるように、そっと手で触れてみようとした時だった。   「触るんじゃねえ!」 「え、」    急に鋭く声をかけられて、思わず天嘉の動きが止まった。  声の主は急いできたようで、ゼエハアと息切れをしているようだった。天嘉は恐る恐る振り向くと、見慣れた牛骨を頭に被った牛頭が、手に行灯を持ちながら、膝に手をついて息を整えていた。   「だめだ、こんなとこまできやがって…、はあ、狢、こっちにいたぞ!」 「天嘉殿…!」    呆気に取られている天嘉を見た牛頭は、疲れたような顔をして牛骨をかぶり直す。呼ばれて駆けつけた狢は、顔を真っ青にして駆け寄ってきた。   「ああ、まだ渡ってなかったでありんすか、ようござんした…!」 「なんで、狢まで。」 「ここら一帯は俺らの管轄だからな。はああ…んとに、肝を冷やさせんなっての…。」    大きな溜息を吐きながらしゃがみ込んだ牛頭に、天嘉は首を傾げる。一体なんだというのだとポカンとしていると、狢が苦笑いをする。   「こんなところで迷子になるとは、天嘉殿は面白いお方でありんすなあ。」 「ここどこ?」 「駄目でありんすよ天嘉殿、今の天嘉殿にはあちきらも触れることはご法度。何も聞かず、ただ真っ直ぐ前を向いてついてきておくんなまし。」    武左の蘇芳殿が大泣きをしていんす、どうか帰ってきておくんなまし。そう言われて、天嘉は面食らった。   「なんで蘇芳泣いてんの?」 「さあ、今は何も聞きなんすな。腕の中の赤子とお二人で、どうか帰ってきてくんなまし。」    狢はそっと琥珀に目配せをすると、天嘉が不思議そうな顔をしながらも、こくりと頷いたのを見て、少しだけホッとしたような顔をした。   「道案内は狢がする。俺は後ろからついてくからよ。後ろを振り向くな、前だけを見ろ。お前がここに来るには早すぎる。」    そういって、牛頭が手に持った行灯に火を灯す。ふわりと薄紫の煙が天嘉の身を包むようにまとわりついたが、不思議と煙たくはなかった。牛頭と狢に言われるがままに、一歩踏み出す。琥珀をしっかりと抱きながら、歩むたびにとろめくような睡魔がじんわりと身に染み込んでくる。  ああ、まずい。琥珀を抱いているのに、足元がおぼつかない。まるで波の上を歩いているような感覚はどんどんと強まり、それに呼応するかのように、耳元からは泣いているような声が聞こえてくる。    なんだ、これ。体が酷く重くなって、熱い。その声がする方向へ耳をすませば、それに合わせて体もどんどんと辛くなってくる。いやだなあ、何だかジクジクと腹まで痛くなってきた。ああ、起きたくないなあ。でも、帰らないといけない。蘇芳が呼んでる気がするのだ。 天嘉の身は暗い闇の中にとらわれていくような心地なのに、不思議とその声だけは耳に残った。  

ともだちにシェアしよう!