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不細工な泣き顔

 腹の子が取り上げられた時、箍を切ったように泣く産声にすら反応はなく、天嘉の手は握り返されることもなかった。  青藍もツルバミも、屋敷中の妖かしや、駆けつけた甚雨も、処置を終えた後の天嘉の目覚めをずっと待っていた。  蘇芳は、ただ目を大きく開いたまま、生まれたばかりの息子を青藍に預けて、ずっと天嘉の側から離れなかった。 「蘇芳殿、」 「止めておけ、今は声をかけるな。」  ツルバミが悔しそうな顔で俯いた。青藍は確かにやってのけた。ただ、取り上げたときに悟ったのは、天嘉の腹はもう子を孕めないということだ。つまり、それだけ内側への負担は大きかった。  今は、獄卒が天嘉を連れ帰ってくるのを待っている。先程駆け込んできた馬頭が、黄泉路で見つけたと一報を持ってきたのだ。その知らせは、屋敷の住人に動揺を広げるには充分過ぎた。  黄泉路とは、つまりあの世のことだ。幸い三途の川手前で狢と牛頭が見つけたらしい。迎え火を焚いて誘導してきたというが、後は天嘉の体力が肝心だと言われて、青藍は口を噤んだ。  現世の天嘉の腹を捌いて産ませたのだ、体力なんてあるはずがない。蘇芳は馬頭からのその話を淡々と聞いたあと、天嘉の軽くなった体を奥座敷に移動させて、誰も通すなと言って引きこもってしまった。  大きな妖気が部屋の中で膨らんで、蘇芳が姿を変えたのだということはわかった。きっと、人型でいられなかったのだろう。それ程までに、蘇芳は余裕が無くなっているようだった。 「はやく天嘉の口から、名前読んでやんなよ。」  青藍は産まれたばかりの小さな赤子をあやす様に宥める。産まれたばかりの赤子はむずがるような表情であった。黒髪は蘇芳で、目鼻立ちは天嘉に似た、可愛らしい男の子であった。青藍は、目の裏が熱くなるほど涙を堪えながら、己が先に抱いたことを詫びるように、そう呟いた。  じくん、という痛みが、腹に張り付いて取れない。  目を開けたいのに、その瞼を開くという行為さえも億劫に感じるほど、天嘉の体力は消耗していた。  細くゆっくりとした呼吸を繰り返し、次は起きなきゃ、そうおもっても中々意識は覚醒をしなかった。  天嘉の周りにはいい香りのする煙が舞っていて、その煙が道筋を作るように意識の出口へと誘うのに、その一歩がなかなか踏み出せない。  腹が痛いのだ、痛くて、ちょっと歩けそうにない。  これが夢の中だとしたらあんまりだ。見るならもっと楽しい夢を見せてくれよとも思う。  気づけば腕に抱いていた琥珀は見当たらず、そのことも天嘉の心を留める原因となっていた。 「琥珀、どこ…いっつつ、」  明かりに向かって、一歩踏み出す。引き連れたような痛みに小さく呻く。  額から汗が滲んで、今まで経験したことのないような腹の痛みに息が切れる。ああ、行かなきゃいけないのに。  なにかに凭れたくても、身を預けるものがない。痛い、痛いなあ。なんだか、ちょっと泣きそうなくらいだ。そんなことを思っていたら、ぽつりと頬に何かが当たった。 「っ、なんだ?」  ぴた、と頬に手を添える。拭う様にして触れたそれを確かめるように見つめると、どうやら水滴のようだった。  真っ暗で、煙が示す道しるべ以外は不可視の空間だ。上を見上げても、なにも見えない。  不思議な現象に、天嘉は痛みに意識を支配されながらも、何となくそれが気になった。  一度では終わらない。今度は手のひらにポタポタと、また数滴ほどの水滴が落ちてきた。  なんだろう。そう思って顔を上げれば、今度は唇にぽたりと落ちてきた。 「…しょっぺ、うん?」  なんだか少しだけしょっぱいそれが、どういうものかはわからない。だけど、それを拭ってしまうのはなんだかもったいない気がして、天嘉はその水滴をぺしょりと舐めてみた。  馴染みのある妖力だ。これは、蘇芳の味がする。 天嘉の目がゆっくりと大きくなる。ああ、これはきっと、涙だ。  大変だ、俺の蘇芳が泣いている。耳にずっと残っていた蘇芳の声が、じんわりと身の中に染み込んでくる。  じくんと腹が痛みを増した。それなのに、天嘉はあれだけ動けないと思っていた足が、軽くなった気がした。腹は、以前として痛いままだ。それなのに、まるで気にしないといった顔で、一歩、また一歩と足を踏み出す。  不思議な煙が天嘉の身体の周りに漂って、こっちに向かえと先導する。その先は、小さくて狭い出口であった。腹の痛みをこらえながら、天嘉はゆっくりと意識を浮上させた。 「ふ、…んん……」  白檀の香りがする。天嘉は薄く目を開いたが、まだ薄ぼんやりとした視界のままであった。暗くて、天井の模様も見えない。もしかしたら、まだ自分はあの暗い中に囚われてしまっているのだろうか。  体が驚くほど動かない。腹はじくじくと痛みが続き、それが辛くて小さくうめき声を上げたときだった。 「っ、っぅ…」  ざわり、まるで羽を擦り合わせるかのような不思議な音がして、目の前の暗闇がゆっくりと動いた。徐々に光が指してきて、その暗い壁だと思っていたものが金色の光沢を放つ羽毛だったということを理解した。  ああ、すごく滑らかで綺麗な羽だ。金色なのに、少し乳白色のような、そんな優しい天嘉の好きな色だ。  羽弁の一筋一筋までわかるような大きな翼が、ゆっくりと綻ぶ様に畳まれていく。視界を明瞭にしたくて、数度瞬きをした。霞んだ目で最初に捉えた輪郭は、横になる天嘉を羽で閉じ込めていた蘇芳であった。 「………、」 「っ、」  猛禽の顔のままの蘇芳が、その鋭い瞳孔をくるりと光らせた。声をかけてやりたいのに、天嘉はそんな気力がなくて、ゆっくりとした瞬きで蘇芳を見つめた。  猛禽の、鋭い瞳がゆっくりと瞬きをした。黄昏色を覆うように水膜が瞳を覆うと、重力に負けてぼたりと垂れた水滴が天嘉の頬に当たる。  ああ、あのしょっぱいのはやっぱり蘇芳の涙だったのだとわかって、天嘉は慰めてやりたくなった。  可哀想、俺の大切が泣いている。大丈夫かな、どこかいたいのかな。そんな心配事がぐるぐると巡る。それでも、天嘉は心情を声に載せられなくて、蘇芳の繋がりと呼応して締め付けられるような胸の痛みが神経を巡る。  大きな鳶がはらはら泣くのを慰めてやりたいのに、天嘉の眦からもぽろりと涙が零れ出る。  俺が泣いてどうするのだ。蘇芳に優しくしてやりたいのに、力の入らない体が身じろぎ一つ許さない。天嘉はそんな己が情けなくて、、一粒、また二粒と目から涙が溢れていく。  小さく息を呑んだ蘇芳が、ふわりとした風を纏う。羽が風に流されるようにして元の人の姿に戻ると、まるで崩れ落ちるかのように天嘉の枕元で跪いて、畳に額を擦り付けるように突っ伏した。   「っ…ぁ、あ…あぁ、あ…!」  奥座敷に、天嘉の聞いたことのない声で泣く蘇芳の声が響いた。聞いているこっちのほうが、胸を締め付けられて死んでしまうかもしれないと思うほど、それはとても悲痛なものに聞こえる。  天嘉は声が出なかった、だけど、泣いている蘇芳に声をかけてやりたくて、はくりと唇を震わせた。  腹に力が入らないと、声も出ないのだと初めて知った。天嘉の横隔膜は仕事を放棄して、まるで吐息のような声しか出ない。それも、蘇芳の泣き声で消されてしまう程の細やかなものだ。 「っぐ、ぅ、あ、ぁあ、あっ、あ、あぁ、あっ…」 「……、ぉ、」 「す、すま、ぁ…っ、あぁ、あっ…す、すま、な…っ…、すま、なぃ、いっ…!」  何時もの低く甘い声ではない、情けないくらいの濁声で、何度も何度も済まないと言う。  天嘉は謝らないで欲しかった。だって、蘇芳はなにも悪いことをしていない。声をかけてやれない事が悔しくて、天嘉もぽろぽろと涙を溢した。  天嘉の枕元で土下座をする様に噎び泣く、そんな蘇芳の泣き声がよほど響いたらしい。ドタドタと忙しない足音が響いたかと思うと、奥座敷の障子が鋭い音を立てて開かれた。 「な、っ…」  その犯人は、青藍であった。後ろに続いた甚雨は琥珀を抱いたまま、呆然とした顔で大泣きする蘇芳を見つめる。  二人がどんな顔をしているのか測りかねるが、その慌ただしい足音に心配をかけたのだと言うことがわかる。  天嘉は、一体どんな顔をして皆に謝ればいいのかわからなくて、静かに泣きながら大人しくする他はなかった。 「…、おかえり。」  静かに近付いた青藍が、天嘉の横に膝をつく。琥珀を青藍に抱かせた甚雨は、肩を震わして泣く蘇芳の横に跪き、そっと慰めるようにその背を撫でた。 「口を濡らそうか、このままじゃ喋れやしないだろう。」  天嘉の目元をそっと拭うと、吸い飲みにいれた茶をそっと含ませてくれた。  小さく喉を動かして飲み込んだ姿にホッとした顔をすると、蘇芳がようやく顔をあげた。目元を大きな手のひらで隠し、鼻を啜る。まだ頬を伝う涙は止めどなく、甚雨が唇を震わして泣く蘇芳を見て、痛そうな顔をしていた。 「まったく、人間にしておくのはもったいない男だよ、お前は。」 「ん、…」 「まだ体が痛いだろ、落ち着いてからでいいからね。今はゆっくりと体を癒やしな。」  そういうと、青藍は天嘉の枕元にそっと琥珀を寝かせた。ゆるゆると首を動かして、隣で眠る姿を見る。夢の中であった姿と何も変わらない、蘇芳によく似た小さな赤子がそこにいた。

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