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第20話

瞼の向こう側に明るい日差しを感じる。 (あー、よく寝たぁ…。というか寝すぎて頭が重いくらいだな) 植物園での出来事から数日間、ひたすら寝て休息したおかげで体力は回復することができた。 首元にあったらしい痣や各所の擦り傷なども、魔物が治療魔術を使って回復を早めたため、見た目はすっかり元に戻っていた。   とりあえず顔を洗おうと、僕は寝ぼけまなこのまま洗面所へ向かった。 蛇口をひねり、手で掬いあげた水で顔を洗う。 それでも脳みそはまだ半分寝たままのような状態で、顔拭きタオルを探すのに手こずってしまった。 もそもそしていたせいで、水滴が首筋まで垂れた。 「…、ッ!!」 粘液をまとった細い蔓が、体を這う―― ただ、無害な水が伝っただけの感触。 日常のなんてこともない感覚が、温室で降りかかった出来事をフラッシュバックさせた。   「っ”!…ッう”ぅ、あ、ぁああ”ぁ……!!…」 突然噴出した記憶の濁流。 その轟轟とした流れに、足元までも押し崩されていくような錯覚に陥った。 立っていられなくなり、その場にうずくまる。 そんな俯いた視界に辛うじて入ったのは、洗面所の白い床だった。 (、そうだ、ここは違う。もう安全な場所で…) 意識して呼吸を深め、なんとか記憶から離れようと試みた。 「ッ、…ッハ、ッハァ…ッ、ハァッ、」 落ち着け 、怖い、もう大丈夫だ、嫌だもういやだ、ここはあそこじゃない、ゆるして、あれはもう終わった、こわいたすけて… 「ッぅう、ハッ…あぁ…ッハァ、ッ、ハァッ」 それでも体は小刻みに震えて止まらない。 僕は恐怖の波に浚われそうな瀬戸際で、情けなくしゃがみこんだまま怯えることしか出来なかった。 ぎゅっ… 「こら、何かあったら私を呼べと言っただろう?」 手を握るひんやりした体温と、森に訪れた風を思わせる声。 突如現れたその存在は記憶の波に風穴を開けたと同時に、意識の脇へ追いやってしまった。 僕は恐怖から解放されたが急転した状況に追いつけず、ぼんやりと白い顔を見上げた。 すると、タオルでごしごし顔を拭かれることになった。 その咎めるような手付きに、何か怒られたことを思い出す。 そこで魔物の発言を思い返してみたのだが、なぜ怒られたのか見当がつかない。 なので、恐る恐る申し上げてみた。 「…あ、あの…、何も、ありませんでしたが…?」 そんな僕を見てため息をついた魔物は、小さい子供に言い聞かせるように話し出した。 「そんな風に怯えるのが、お前の日常ではないだろう。  いいか、体調がおかしかったり気分が悪くなったり、精神が不安定になっても私を呼べ。」 (えっ…そのくらいで人を呼出しても、いいのか…?) 相手がいくら魔物といえども、本人がいいと言っても。 渋る僕を見かねてか、魔物は落ち着いた声で諭すように言葉を紡いだ。 「…人間は、容易く壊れてしまうのだろう。肉体も精神も。  お前が大丈夫かどうかは、管理者である私が判断する。  …今度1人で勝手に怯えていたら、常に私の側に置くからな」 最後に釘を刺すかのごとく、ギラリと若草色の目を光らせた魔物は「それに、」と続けた。 「人間は経験や感情を他者と共有・共感して、不安や心の傷を癒すのだろう?」 確認するように尋ねられた内容に、どう答えるべきか迷った。 なんとなく魔物の様子を伺うと、その瞳には好奇心というか探究心が浮かんでいるような気がした。 (なんか、自分が魔界の生物に思い馳せる時と似ているような…) だとすれば、ここは正確に答えた方が良いか… 「あー、一般的にはそうですけど人間は個体差のある生き物でして…」 それから参考までに、僕の個体情報も付け加えさせてもらった。 自分はむしろ人と話したりするのが苦手で、物理的にも心理的にも距離を保ちたいと思う個体だということを。 「!っな、っで、では…っ!  先日からの夜のあれは、不快だったのか…!?」 僕の申告に思いのほか驚いた魔物は、少しおろおろとしながら尋ねてきた。 「りょ、領主様が不快なんてそんな…」 咄嗟にそう答えたが魔物が疑うようにジト目を向けてきたので、僕は慌てて率直な言葉で返答を改めた。   「ほ、本当ですよ!  その、え、L様は森?の香りがして落ち着くし、もう色々とお世話頂いているせいか触れられても抵抗感ないし、むしろなぜか安心します……」 「!!…っそ、そうか…!!  ま、まあ、私のリラックス効果が人間風情に劣るわけがないか…!」  僕の返答を聞いた自称・領主様は、フフン…っと鼻高々に嬉しそうにされた。 (ふっ、なんでその”人間風情”をライバル視してるんだよ…) おかしくなり思わず笑ってしまった。 耳もいいらしい領主様は、その小さな笑い声に切れ長の目を丸くされる。 (や、ヤバい…不敬だって怒られ…) 春の暖かい日差しをうけて、 木蓮の真っ白な蕾がふんわりと綻んだ―― 白面に浮かび出たのは、そんな微笑みだった。 気づけば、自分の息は止まっていた。 (……、…な、な、なななんで…) なんとか呼吸を再開させた胸の内側は驚きと感嘆と疑問で混沌となっている。 口もパクパクと開け閉めするだけしかできなくなった。 そんな僕を置いてけぼりにして、領主様は機嫌良さげに方向性をお決めになられた。 「では、話すのが苦手なお前の代わりに、私が話をしてやるか。  魔界の環境や気候、魔界の過去の出来事、白緑湿原に生息する魔物について…何がいい?」

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