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◇06

 憂鬱な予定を前にすると、ほんの少し、身体のどこかが重くなる。  足だったり腕だったり頭だったり、とにかく怠くて悲しくなるから。なるべくなら楽しい事しかしたくない。そうは思うものの、日本で社会人として生きていく以上、やりたくない仕事やこなしたくない予定は避けて通れないものだ。  そうやってみんな生きている。ユーチューバーもVチューバーも配信者も、遊んでいるだけでお金が入るというわけではない。  だから伊都もこうして、絶対に楽しくないと分かりきっている某テレビ局の飲み会に嫌々ながらも参加しているわけだ。  足が重い、腕も重い、気分もずっしりと湿った砂のようにただ、ただ重い。それでも『これは仕事』と言い聞かせて氷で薄まった烏龍茶をひたすら舐める。 「はぁ〜……帰りたい…………」  どうにか喉の奥くらいに留めている本音がぺろりと口からこぼれるくらいは許してほしいが、となりに座った年下女子は耳聡く聴き逃してくれなかった。 「イト先生〜〜〜出てますぅ、お口からよろしくない本音出てます〜」 「そらペロリもしますわ、ええやろ誰もおれのだっるーい愚痴なんぞ聞いてへんわカラオケにお熱やわ。飯がうまけりゃまだマシやのに、なんやのこのべちゃっとした唐揚げ、舐めてんのか……」 「お顔からも帰りたいビームがダダ漏れてます……っ」 「バレてへんわ。おれの表情筋の些事な機微に気づくプロなんてゆずちゃんくらいのもんやわぁ。そもそもこの会のお題目はなんやねんな……六月やでいま。祝日すらない月やで」 「なんでも毎月やってる定例飲み会だそうですよ。先生にお声がかかった理由はよくわからないですけど、先月出演した時の評判がよかったから、とか? あとほら、出版社の方もいらっしゃいますしー……」 「まぁ、本の売り込みも兼ねてやろうけどなぁ。花見と忘年会新年会以外で声かけんでほしいわ……花見と忘年会新年会も声かけんでほしいけどな……」  別に、殊更イベント事が嫌いなわけではない。仲間がわいわい騒いで楽しそうにしている様子を眺めるのは、割合楽しいと思う。ただ今は眺めるべき仲間が極端に少なくてシンプルに悲しいし、気を使うだけの他人の集まりに飛び込んでいけるほど伊都のコミュニケーション能力は高くない。  そもそも伊都は、酒が飲めない。  強そう、と何故か勘違いされるが、本当に一滴でも飲めばすぐにぐだぐだに酔ってしまうほど弱いのだ。  具合が悪くなるタイプではないものの、ほとんど他人で構成された部屋のど真ん中で酔っ払いたくはない。  飲み会の席で酒を断るのは勇気が必要だ。昨今はやっと『飲めない人間もいる、断っていい』という雰囲気ができてきたが、それでも俺の酒が飲めないのかと昭和のテンションで怒鳴られることもある。昼ドラか、と笑ってしまいそうになるのだが、本当にそういう人種は存在するのだ。  いままでは、酒の強いスタッフが同席し、伊都が強要される度に笑顔で代わりに飲み干してくれていた。清水は『伊都さんの肝臓はオレが守ります!』と豪語する明るい青年だった。まさか彼が人妻と泥沼不倫をしていただなんて……しかも慰謝料で揉めて大変な騒ぎになっていただなんて――。 (……いやアカン……余計悲しくなってきたわ……)  薄くなった烏龍茶を飲む。結露で濡れた手をおしぼりで拭く。ついでに汚れた皿を寄せて、テーブルも拭いてからせめて気持ちを切り替えようと努力する。  清水の代わりを買って出た柚葉は、特別アルコールに強いわけではないようだ。  先程から面倒な会話を積極的に引き受けてくれているものの、彼女も騒がしい席は苦手らしい。なにより、コンビニバイトを終えると同時に駆けつけてくれた柚葉は、伊都よりも確実に疲れている筈だ。  帰りたい。帰って、生クリーム作って食いたい。冷凍庫にぶっこんであるシャーベットにのっけて、柚葉のためにパフェを作ってやるのもいい。ダイエットしてるんです、などと言いながらも、伊都のつくるおやつはしっかり平らげる柚葉可愛い。  久しぶりにストレス発散用の過程を所望しはじめた伊都はふと、そういや最近生クリーム食ってへんな、という事実に気がついた。  仕事は相変わらずカツカツだ。けれどふとした拍子に仲間の喪失を思い出すことは少なくなった、と思う。  おそらく、最近頻繁に出入りしている年下の青年のおかけだろう。  環柊也はとにかく誠実な青年だった。伊都さんはいい人ですよね、などと言う彼の方がよっぽど『良い人』だ。  とはいえ、見えているものが全てではないだろう。清水が泥沼不倫をしていたように、環にも伊都の知らない顔があるのかもしれない。ころっと信用してはいけない。懐に入れてはいけない。なにより環は友人でも家族でもなく、お互いに仕事の関係上必要だから顔を合わせているだけなのだ。  そう言い聞かせて踏ん張るものの、会えば会うだけ『いや、ええ子やん!』という気持ちが強くなる。  なんでも食べる環は、伊都の試食係としても優秀だ。  パフェ作ったらマキちゃんも食うかなぁ、と妄想したところで、今日は環のレッスンはないことを思い出す。  嫌やけど飲み会やから嫌やけど出てくるわ嫌やけど、と顔を歪めながら料理教室休止を伝えた伊都に、顔から嫌が出てますよと笑った笑顔が妙に脳裏にこびりついていた。  彼は辛いものが好きらしい。好きな食べ物はナスの揚げ浸し。変わり種の豚汁を出したらバケツいっぱいいける、と興奮していたので豚汁も好きなのかもしれない。酒は飲むのだろうか。弱くてもかわええなと思うし、強くてもかっこええと思う。  今度の本が無事発売されたら、みんなで打ち上げと称してなにか催そうか。飲み会は苦手だが、内輪だけの食事会なら楽しそうだと思う。そこまで考えてから、『あれ、そういえばマキちゃんていつまでおるんやろ?』という疑問がやっと湧いてきた。  環は友達ではない。スタッフでもない。彼が仕事合間に編集作業を手伝ってくれているのは、あくまで環に料理を教えることの交換条件だからだ。  どうしても撮影のために料理を作らなくてはならない。そう訴える彼の切実さは正直伊都にはよくわからないのだが、料理を覚えたいという意気込みは本物らしい。  実際教えてみれば、環は良い生徒だ。素直だし、頭も良い。少々不器用なところとできるだけ過程を省略しようとするところはあるものの、基本的にはそれなりのものを完成させている。  このままでは、さっさと料理をマスターしてしまうのではないか。伊都はお払い箱になるのではないか。一体環にとってのゴールがどこなのか全くわからないが、そうなってしまえば環にとって伊都は『たまにお裾分けをくれる同じアパートの知人』程度になってしまうだろう。  それは、少し寂しい。 (いやいやいや、あかん、またおれ悲しい事考えとるやんけ!)  せめてなにか、うかれるようなことを頭に思い浮かべて時間を潰すべきだ。  とはいえ伊都はそれほどポジティブな人間ではない自覚がある。楽しいことといっても、パッと思い浮かばない。 「……ゆずちゃん、なんか楽しい話してくれへんか。鬱鬱としてもうてあかんわ。おのれのネガティブコミュ障っぷりに悲しみが止まらへんわ」 「え!? えええ、そんな、急に無茶振りされても……あ、そういえば昨日環さんがー」 「あかん。マキちゃんの話以外でたのむ」 「なんで環さんはNGワードなんです!? 喧嘩でもしたんですか!? 昨日仲良くよだれ豆腐作ってたのに!」 「あー、あれやっぱよだれしゃぶしゃぶの方が見た目も派手だったかなぁておもてんのよなー。せやけどよだれしゃぶしゃぶってなんやこう、字面がセクハラっぽいやん。あかんかなぁて思てしもたんやなぁ……どう考えてもエロいやん、よだれしゃぶしゃぶ」 「ちょーっと、辻丸くん! やっだ、そんな隅っこで若い子相手にエッチな話!? セクハラだよぉ!?」  ぐわん、と頭が揺れるような声と共に突然背中をたたかれ、思わず全力で飛び上がってしまった。  ばくばくとうるさい心臓に手を当て、慌てて後退る。  振り返った先でグラス片手に笑っていたのは、ばっちり化粧をした中年女性だった。たしか彼女は、そこそこ偉い地位にいるプロデューサーかなにかだった筈だ。  やばい、と思う。どう見ても伊都が苦手とするタイプだ。しかし身体と口が動く前に、彼女は伊都の隣に陣取ってしまった。  これだから座敷は嫌いだ。せめて椅子とテーブルなら、こんな無法地帯にはならなかった筈なのに。 「ちょっとー飲んでないじゃないの! ダメだよ〜酒の席でシラフなんて、周りが気ぃつかっちゃうんだから! ほらほら、飲まないと!」 「いやぁ、気ぃつこてもろてえらい申し訳ないんですけど、おれホンマ飲めへんので〜……」 「うそぉ、今ドキ!? 若いのに根性ないのねぇ。そうやって何事もチャレンジしないのはオバサン感心しないわ〜」  いやホンマ飲めへんのや人の話聞けや根性と体質は関係ないやろ、とは言わない。言わないと言うか、言えない。勢いが強すぎる。  せめて柚葉は守ろう、と思い逃げずにその場に留まったものの、うっすらと笑顔を貼り付けているだけでも疲れる。  ただし、伊都は感情が表情に出にくい。それは良くも悪くも、という枕詞がついてしまう特徴だった。  嫌だと思っても顔に出ない。勘弁してほしいと思っても顔に出ない。苦笑いをしても、大概は伝わない。背中に隠した柚葉だけは、伊都を労わるように肩に手をかけてくれるが、最悪な事に今この場面では逆効果だった。 「え〜ちょっとぉ、なになに、二人でいい空気になっちゃって! そういえばエコーブックの珠緒ちゃんから聞いてるよぉ辻丸くん〜最近ずーっとその子入り浸りなんだって? 辻丸くん三十でしょ? えー……たしかにかわいいけど、ちょーっと若すぎない?」 「……柚葉くんは、アシスタントであってそういう関係ではないので、ちょっと、そういう言い方は――」 「辻丸くんがそう思ってるだけじゃないのぉ? 普通さ、二十歳くらいの女の子は好きじゃなきゃお泊まりなんかしないっしょ。お風呂とかも貸してるんでしょ〜?」  確かに、普通に考えれば不健全な関係なのかもしれない。外の人間が勘ぐる気持ちもわからないこともない。しかしこそこそ噂をするだけならまだしも、本人の前でぶちまける話ではないだろう。  伊都は柚葉が決して恋愛感情を抱いていないことを知っている。柚葉も理由を添えて話してくれた。だから殊更信頼しているし、目の前の女の邪推が全て間違っていると断言できる。  しかし、本当に柚葉が秘めた恋心を抱いていたと仮定したら、とんでもない状況だ。実際はお門違いなため、背中から伝わってくるのは困惑した気配だけだが、場合によってはひどいトラウマになってしまうのではないか。  何より恐ろしいのは、目の前の女が決して喧嘩を売っている風ではないことだ。  あくまで自然に、当たり前のように年下の女の子を下に見ている。人権を蔑ろにしている。世間話の感覚で他人のプライベートを口にする。配慮を放棄している。  だから知らん人間と酔っぱらいは嫌や、と思う。もうしばらくはどんなに誘われても絶対に飲み会なんぞには参加しない、という決意を新たにした伊都は、残っていた気力を総動員して苦笑する。 「いやぁ、人生の先輩のお言葉、心に刻ませていただきますわぁ。おれも確かに不用心やったかもしれへんですー。かわいいスタッフに彼氏ができひんのはおれのせいやったかぁ」  ごめんな後でチーズケーキおごるから、と心の中だけでとりあえず謝って、伊都は適切な合いの手を選ぶ。他人の恋人の有無に言及することはセクハラ、と言ったところでどうせ伝わらないのだろうから、話を合わせてお茶を濁すしかない。 「ていうかぁ、辻丸くんにカノジョができないのもその子のせいなんじゃない? どう?」 「きっついなぁーお姉さん。おれが寂しい独身男性なんはおれの甲斐性がないからですよ」 「えー、モテそうなのに。もしかして理想が高いんじゃない? 辻丸くん、好きなタイプは?」 「ええと……言葉が通じる子、かなーと」 「うはは、なにそれ! 範囲ひっろ! そんなんもうだれでもウェルカムじゃん!?」  いやおれはいまあんたと言葉通じてへんけどな、と思う。思うだけで言わないのは、もちろん喧嘩をしたいわけではないからだ。  ただ通り過ぎてくれればいい。そうしたらなにか理由をつけて、そっと居酒屋を抜け出すだけだ。 「よーしそんじゃ、辻丸くんが寂しくないように美人な子紹介したげよっか?」 「せやけどおれ今仕事が恋人やから〜」 「んもー、そんな負け犬みたいな事言ってるとホントに人生負けちゃうよぉー!? 恋人作ったらちゃんと働く気持ちにもなるんじゃないの? 実は辻丸くん紹介してほしいって子、いまここにいるんだよねぇ。うちの後輩なんだけどさ……あ、ごめんねアシスタントちゃん! 辻丸お兄さんに美人な恋人できちゃったら、ちょっとくらいは気を使ってあげてね?」  ぎゅ、っと柚葉の手に力が入った。息を呑むように言葉を呑んだ気配がした。それが、伊都の我慢の限界だった。  要するにこの女は伊都を、景品よろしく名前も知らない後輩に差し出したいのだ。柚葉に対する言葉のあたりが強いのは、単に若い女が嫌いなだけだろう。柚葉が個人的に疎まれるような理由はまったくない。 「て、ゆーか! 妹ちゃんも〜そんな甘いお酒かわいく飲んでないでさぁ、ビールとか飲めるようになっとかないと! 大人の世界ってビール飲めないと舐められるよー? ほら交換! こっち飲みなさい!」  伊都は笑う。苦笑なのか、嘲笑なのか、自分でもよくわからない。笑っていないと泣いてしまいそうだったから、笑う。  笑いながら柚葉に差し出されたビールのジョッキをひったくり、一気に飲み干した。 「……せっ……!?」 「おお! いいのみっぷりじゃん! 辻丸くん飲めるんじゃん!? あ、ちょっと待ってて、いまから美人召喚しちゃうから。おかわりも頼んできちゃうわね~」  上機嫌な女が席を立つ。  残された伊都は天井を見上げてやってもうたなぁ、と独りごちた。視界がぐわん、と揺れる。伊都の身体は、本当に笑ってしまうほどアルコールに弱い。 「せ、せんせい、大丈夫……っ」 「…………あかん、キレたらあかんて思うとったけどあかんキレてもうたゆずちゃんすまんめっちゃ迷惑かける、かけた、これからもかけるわ、あとでクレープ作ったるから……」  許してな、と、言えただろうか。くつくつと笑いが止まらなくなり、思考が定まらなくなり、ただ感情だけが先走る。  ああ、生クリームが食べたい。  もしくは、環に会いたい。  溶けていく意識の中で、伊都が縋ったのは白くてもこもことした甘いクリームと環のさっぱりと心地よい声だった。

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