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◆07

「残業珍しいじゃねーか、どうした今日はお料理教室休みか柊也!」  上機嫌な声とともに、唐突に背中をバシバシ叩かれる。  口に含んだ珈琲をどうにか飲み込んで軽く咳き込んだ環は、上司のテンションの高さに嫌な予感を覚えた。  瀬羽は基本的に一定のテンションで生きている男だ。彼が唐突に笑顔を振りまくときは、決まって『無理矢理テンションを上げないと辛い用事が控えている時』だった。 「……今日は先方が都合つかなかったんですよ。つか、瀬羽さん、撮影日じゃなかったんです? え、帰ってくんの早くない?」 「今回は二日で撮るからいいんだよ。つーか色々あって全然進まなくって今日は投げて来た。明日のオレに期待。そんなわけで仕事切り上げろ柊也。飲み行くぞ」 「……は?」  相当怪訝な顔を晒してしまったことだろう。  それもそのはずだ。アッパーズキャストに入社してから早二年、環は一度も瀬羽から飲みに誘われた事などない。  普通に仲はいいと思う。関係も良好だし、瀬羽と撮影技術などを語りながら食べる昼食、夜食は楽しい。ただ二人とも、仕事の関係をプライベートに持ち込まない性分なだけだ。 「え、いきなり何……瀬羽さん、なんか悪いもんでも食ったの……? 俺、人生相談とか受けられる程経験豊富じゃないっすよ」 「ばーか、今日のオレはメシなんざ食ってる時間なんかなかったっつーの。ほら、あれだ、あの……新しいプロデューサー、来るっつってただろ。あー……社長の恩人の知り合いの」  随分遠い縁だなと思いながら記憶を辿る。そういえば、そんな話をうっすら聞いたような気がするが、なにせ毎日笑える程忙しく自分の仕事を片付けることで手一杯で、自分に関係のない人事などほとんど記憶にない。 「……そんな話ありましたっけ……」 「おっまえほんっと目の前のこと以外に対する記憶力がミジンコだよな……あったんだっつの。今日来たんだっつの。オレが代表して今日一日貼りつかれて接待仕事させられてたんだっつの」 「あー。……それで、撮影うまく回んなかったんですね」 「ふふ。察しの良さは好きだぜ柊也……そう、そんで、オレは今から接待延長戦なわけよ……っつーわけでお前も来い、一蓮托生だ。つか全員よべって言われてオレ泣きそう。帰りてえ。帰ってウルトラマンの続きが見てえ」 「帰ったら駄目なんですか?」 「ダメなんだよ……うちの社長が飲み会やんぞーっつったら馬鹿か人員増やして給料増やしてから声かけろって殴り返せんだけど、あー、その、新P様はさぁ、なんつーかこう、古い感じの……昔気質の……昭和な感じの……」 「はぁ。つまり、飲ミニケーション大事にしようぜタイプの?」 「それ。しかも結構な感じでクソヤロウだ」  何故そんな人間がウチに。という当たり前すぎる疑問が顔から駄々漏れていたらしい。げっそりとため息をついた瀬羽は、まあ断れねえ事情もあんだろうよと眉を跳ね上げた。 「なんか、新しいレーベル立ち上げるからそっちについてもらうんだとよ。それまでの見学っつーか、まあ、ツナギっつーか。結局オレタチにはあんま関係ねーんだよ。関係ねーけど超口出して来るしアレまじで面倒くせータイプだ、むしろ最初に媚びうって気にいられておいたほうがいい」 「瀬羽さんがそんな、断言するレベルのクソヤロウなんですか……すげー行きたくないっすね……」 「これも仕事だ。一日くらい我慢しやがれ。今日お前が居てくれてよかったよ、ああいう昭和マンは定時退社とかすっげー嫌うからな。先に帰っちゃいましたぁーとか報告したくねえわ。おまえはあんな上司に成長すんなよ、令和マン」 「ウルトラマンの亜種みたいに言わないでくださいよ」  苦笑しながら、仕方なく作業を中断し保存をかけて、すべての電源を切る準備をする。  環は飲み会という空間にあまり縁がない。仕事は常に残業が当たり前な世界だったし、飲みに行く余裕がない。  酒自体は別に嫌いではないし、時折一人でも缶ビールを開けることはある。体質的に飲めない、という事はないはずだ。一人でプロデューサーの機嫌を取ってこい、と言われたら躊躇するが、瀬羽が一緒ならばある程度は安心していいだろう。 「よっしゃ柊也確保な。あと残ってんの誰? 小坪ちゃん帰った?」 「今日はディアブロイモータルのシャドウ抽選に絶対参加すんだ、って言ってさっき帰りました」 「なにそれネトゲ……?」 「みたいなもんです。佐塚さんはさっきコンビニ行きましたよ」 「よし佐塚も確保だな。あと誰だ今日居る奴。柊也、悪いけど社長に電話して今すぐ出てこいって話――」 「あ。すいません、電話。俺の電話鳴ってるちょっと待ってくださ…………え、ゆずちゃん?」  慌てて取り出した携帯の画面に表示された名は、予想外の女性のものだった。  柚葉は、伊都のアシスタントだ。といっても調理にはほとんど参加せず、もっぱら味見と動画編集を主な仕事としている。  出会った当初は半べそをかきながらパソコンに立ち向かっていた柚葉も、最近は新しいソフトに徐々に慣れた様子で、てきぱきと作業をこなしていた。きちんと理解できれば、柚葉の仕事はそれなりに速い。  平日夜は料理教室、土日の昼間は伊都の仕事の手伝い、というスケジュールを組んでいる。その中で、柚葉と言葉を交わすことは多いものの、個人的にやり取りをするような間柄ではない。  何か、トラブルでもあったのだろうか。  伊都は今日、飲み会だと言っていた。確認した時計は、夜の二十時。飲み会が終わるにしては少し早いような気もするが。  今日、二度目の嫌な予感が環を襲う。しかしなり続ける電話を放置するわけにはいかない。 「もしもし、はい、環です。ゆずちゃんどうし……え? 何? 待って、ええーと……落ち着いて、もっかい言って。うん。うん? …………わかった、とりあえずそっち行くから、アパートでいいんだね? うん。……うん、大丈夫、全然問題ないから。もうちょいかかるから、それまで大丈夫? おっけ、じゃあ、伊都さんをよろしくね」 「…………え、なに? トラブル系?」  手短に通話を終えた環は、さっさと身支度を始めながら、瀬羽の問いに頷いた。 「知り合いの女子からヘルプ食らっちゃいました。飲み会で潰れた同僚を一生懸命引き摺って帰って来たものの、階段上がれないから助けてって」 「えええ……なに、それどんな状況よ? 柊也くん、オンナノコの知り合いとかいんの……? え、彼女……?」 「俺の知り合い全部彼女か彼氏にすんのやめてくださいよ。友達とか知人とかそれなりに……いや……いないっすけど、まあ、最近仲良くなった人もいるんです」 「つーか柊也帰っちまうの!?」 「トモダチの危機なので。お先に失礼します、すいません……えーと、俺が飲み会参加しないことで瀬羽さんが、不利になるようなことがあったら、それはすごく申し訳ないんですけど……」 「いやオレのこたぁどうでもいいっつの。つか、まあ、そりゃしゃーねーわ。飲んだくれたトモダチから迎えにきてくれーっつって呼び出されんのは青春だもんよ……そりゃ行かなきゃなんねーよ……ま、適当に誤魔化しとくわ。下痢だとか言っとく」 「もっと綺麗な言い訳にしてください」  顔色一つ変えずに『頑張って酔っ払いたすけてやれ令和マン』と肩を叩いてくれる瀬羽は、寛大な大人だ。  ありがとうございます、と心から頭を下げて、携帯を握りしめた環はとりあえず駅まで全力で走った。タクシーを捕まえた方が早いだろうか、と考えて、いや金曜夜だし一通多いし走った方が早い、と結論付けた。電車に飛び乗り、最寄りで降りてからまた走る。体力勝負な仕事で良かった、と心底思う。デスクワークばかりだったら、今頃環の方が倒れていたかもしれない。  赤信号で足を止めるたびにもう少し散策して近道を見つけておくんだった、と後悔し、交差点を過ぎるたびにやっぱりタクシー拾った方が早かったかな、と反省する。  目的のアパートに到着した時には、正直膝が笑っていた。けれど、階段下で泣きそうな顔で蹲る柚葉と、ぐったりと項垂れる伊都を見つけると、自分の疲労など本当にどうでもよくなった。 「た、たまきさん~~~……ッ!」  弾かれたように立ち上がった柚葉は、泣きそうどころの話ではなく号泣の手前だ。ずびずびと鼻をすすり、ぼろりと涙をこぼす。 「ごめ、ごめんなさ……わたし、他に、誰に助けてって言ったらいいのか、わ、わかんなくって……タクシーに、乗っけるまでは、どうにかなったんですけど、階段、全然、無理で……っ」 「うん、落ち着いて、大丈夫、あとは俺が引っ張ってくから、ほら泣かない泣かない。これでも体力はあるから、任せてくれて平気だよ。……伊都さん、これ意識ある?」 「吐いたりとかは、してないんです……完全に酔っ払っちゃってて、泥酔、みたいになってるかもしれないんですけど……」  一応、寝てはいないようだ。伊都さん、と声をかけると、ひどくだるそうに手を上げる。だが、声を出す力は残っていないらしい。 「……飲めへんねん、って、言ってた気がするけど」  ボディバックから出したティッシュで、柚葉の顔を拭いてやる。いつ何時何があるかわからない現場にいるせいで、タオルとティッシュと裁縫用具と簡易メディカルセットは、いつでも鞄の中に潜ませている。 「飲まないんです、普段は。飲めへんから、って断るんです、先生。ちゃんと断るんです。でも、今日は、わたしが変に絡まれてたから、先生、わたしの代わりに飲んじゃったんだと思う……っ」 「あー……」  それで柚葉は号泣しているのか、と納得する。  自分のせいで飲めない伊都が潰れた。それは確かに、柚葉にとっては辛い出来事だろう。  環からポケットティッシュを丸々受け取った柚葉は、鼻をかみながらしゃくりあげる。 「わたし、ついていかなかったほうが、良かったんだ……先生を守るって、思って、張り切って、結局、わたし、迷惑かけて、先生こんなになっちゃって……っ」 「絡まれたって、ナンパみたいな?」 「……先生とわたしが、付き合ってるんじゃないか、とか、年ごろの女の子なんだからあんまり入り浸るな、とか、そういう……」 「ああ。うん、今時……え、今時? あ、でも、いるのかなそういう人……」  環は普段、女性が強い現場にいる。性的搾取されている、と思われがちな業界でも、自分の意志でやりたくてこの業界を選んでいる女性は事の他多い。  スタッフも割合若く、女優も基本は二十代から三十代だ。必然的に価値観はアップデートされていく方だ。  もしかしたら世の中は、環が思っているよりも頭が固いのかもしれない。もしかしたら、伊都や瀬羽が、柔らかすぎるのかもしれない。 「でも、違うんです……絶対、わたしと先生は、そういう、恋人とか恋愛とか、そういうのにはならないんです。わたし、あれ、あの、……なんだっけ……ええと、恋愛感情を持たない、あのー……」 「アロマンティックアセクシャル?」 「それです! それ! それなんです! たまきさん、よく知ってますね……?」 「あー。俺もまあ、普通とは違うカテゴリーのヒトだから」 「……たまきさんも、アセク?」 「いや俺はね、ゲイ」  内緒だよ、と人差し指を立てると、大きな目を二度程瞬いた柚葉はぐっと泣くのを堪えてから、何度も頷いた。  アセクシャルは、他人に対して性愛を抱かない人間のことを指す。アロマンティックは恋愛感情を抱かない。人を好きになっても、それは恋愛とは違うという人たちのことだ。  辛い思いをしているのだろう。小さな言葉に、たくさん傷ついてきたのだろう。だから、環の人生を慮り、一生懸命思いを巡らせてくれたのだろう。  彼女の素直で大らかなところは、伊都に似ていると思う。 「あとは大丈夫、俺が面倒みるから、ゆずちゃんは帰っても平気だよ。あ、タクシー呼んだほうがいいね。俺は伊都さん抱えて自分の部屋まで上がっちゃうから、ゆずちゃんは301号室でタクシー来るまで待ってな」 「え、あの、走って帰――」 「夜九時過ぎたらタクシー使うこと、って伊都さん言ってなかったっけ?」 「……タクシー待ちます~……。あの、でも、お部屋、三階の方が近いんじゃ……」 「でも俺、伊都さんの部屋だとどこに何があるかわっかんないからさ……転がしてじゃあ元気でってわけにもいかないし、今日はこの人お持ち帰りするよ」 「わたしも、四階まで運ぶの、手伝います……っ」 「えーとじゃあ、俺の荷物持ってもらおうかな」  立てますか、と一応聞いてみたものの、伊都の反応は鈍い。どうか吐きませんようにと願いながら無理矢理立たせて、引きずるように階段を登り始めた。  重い。それはそうだ、伊都は背が高い。やせ型ではあるが、上背がある分シンプルに重い。それに今の彼は意識が朦朧としていて、人間というよりは砂の詰まった袋に近しいものだ。  時折休みたくなるが、後ろから不安そうについてくる柚葉の手前、一気に登り切った方が良いだろう。気合いを入れて四階分の階段を踏みしめ、自室の前についた時には流石に安堵の息が零れた。  ちゃんとタクシーで帰りなよ、伊都さん目が覚めたら連絡するからね、と柚葉に言い含め、やっとの思いで扉を閉めた瞬間、大きく息を吐く。  やっとたどり着いた。明日は筋肉痛かもしれない。とはいえ、まだ休むわけにはいかない。伊都を、自分のベッドまで運ばなければならない。  とりあえず靴を脱ごう。  そう思って体勢を崩した瞬間、伊都を抱えきれずに雪崩れるように転んでしまう。どうにかお互いの頭は守ったものの、少し足を捻った、ような気がした。……まあ、生きているのだから問題ない。そう思えば、酔っ払いと一緒に玄関先で転んだことなんて些細なことだ。 「…………マキちゃん、ごめんなぁ……」  ぼそり、と耳元で声がした。うーんどうするかなぁ、と思いながら天井を見上げていた環は、少し笑う。 「あ、ちゃんと生きてた。よかった。……けっこうしんどそうだったんで、最悪救急車かなぁって思ってたんですけど」 「いや……気持ち悪い、とかは、ないねん……ないねんけど、あー…………からだがぶわーってしてよう動けへんし、なんやろ、これ、……きもちが、ぶわーってしてんねん……」 「酔っ払いなんかみんなそうですよ。動きたくないし、喚きたくなるし。別に喚いても大丈夫ですよ、隣空き部屋だし。今日、大変だったんでしょ」 「あー……一生分の我慢した、って感じやなぁ……おれが意気地なしで良かったなぁそうやなかったらオバハンの顔面今頃割りばしでめった刺しやで、って感じやったなー…………おれなぁ、ほんまは、我慢嫌いやねん……」 「酔っ払った時くらいは我慢しなくていいんじゃないですかね……」 「…………ほんま? ほんまに? 我儘言うてええの? 寂しいとか褒められたいとかえらいなぁて言われたいとかもっとおれのこと見てほしいとかちやほやされたいとか優しくされたいとか、そういうの、言うてもええの、マキちゃん」 「うーん。すごい一気に要望きたな……いやでも、俺に出来ることなら善処するし、できないなら代案考えるんでとりあえず言ってみてください。聞いてから考えますから」 「……おとこまえ…………」 「いや俺、伊都さん引き摺って四階上がっただけで息が上がる軟弱ものなんで……男前には程遠い……」 「おれなんか人間背負って階段なんぞ二段も登れへんわ……」 「伊都さんは階段登れなくてもいいんですよ。だって料理ができるし、イケメンだし、優しいし、教え方うまいし、後輩に慕われてるちゃんとした大人だし、絡まれてる女の子を助けちゃうイケメンだし、怒らないし、階段くらい登れないくらいが丁度いいですよ。伊都さんすごすぎるもの」 「…………あかん、泣く……酔っ払いの脆い心にマキちゃんの優しさがダイレクトに刺さるわ……どっからどこまでお世辞かわからんけどめっちゃうれしい」 「お世辞じゃないですよ。全部本当です。……伊都さんは、すごいよ。だから、泣かないで」  すぐ隣にあった赤い頭を、ぽんぽんと柔らかく撫でる。鼻をすする音が聞こえて、涙もろいなぁと思ったら愛おしくて笑えた。  301号室の人たちは涙もろい。そして優しくて可愛い。 (……明日、ポカリ、買ってこなきゃ)  酔っ払いの為に必要なものは何だろう。友人も恋人もいない環は、介抱などした記憶がない。わからなかったら瀬羽に聞こう。そういえばあちらの飲み会は大丈夫だろうか。瀬羽のことだから、どんなことがあっても揉めることはないだろう、と信じているけれど。 (…………伊都さん、あったけー……)  うっかり、このまま寝てしまいそうになり、いやダメだ風邪ひく絶対だめだと気合を入れ直し、ホラ立ってと泣いている酔っ払いの背中を叩いた。 「……たちたくない……ここでマキちゃんと骨を埋めんのや……」 「玄関に墓標立てたくないです」  あまりかわいい事を言わないでほしいと思う。ぐずぐずと我儘を垂れ流す伊都は、普段のだらりとした大人とは思えず、環の理性がぐらぐらと揺れる。  襲うぞこのやろう。……いや、どちらかと言えば、襲ってほしい方だけど。  気合を入れる為に伊都の細い腰を叩きながら、不埒なことを考える自分は、少しどころか、かなり、駄目な人間に思えた。

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