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◇08
「ほんまに……反省してます……」
人生三十一年、こんなに真摯に頭を下げたのは久しぶりだった。
できることなら土下座したいくらいの気持ちだ。申し訳ない。恥ずかしい。穴があったら一か月くらい篭りたい。
三日ぶりに顔を見せた環は、全身全霊で恐縮している伊都を前に甘く苦笑する。
「え、いや、全然怒ってないですよ。迷惑かけられたーとも思ってないですし。伊都さんが謝ることなんかないです」
「いやあかん、絶対あかん、おれのうっすら残っとる記憶がマキちゃんに大迷惑かけた思い出で埋まっとんねや。とりあえずこれ、貸してもろた部屋着な。洗ってアイロンかけてファブリーズしといたから……!」
「念入りですね……別にそのまま返してもらってもいいのに……」
苦笑しながらも環は紙袋を受け取り、もう一度『怒ってないですから』と念を押す。
環は本当に、たいして気にしていないのだろう。伊都だってもし柚葉が酔いつぶれたとなればいくらでも介抱するし、それに対して面倒だとか困るだとか思わない筈だ。
とはいえ、その優しさに胡座をかいて己の非礼を無かったことにするわけにはいかない。
撮影帰りの環は今日もギリギリ終電で帰ってきたらしく、時刻は深夜の一時近い。
飲み会で潰れた翌日、伊都は二日酔いでほとんど動けず、環の部屋で天井を眺めるだけの屍状態だった。着替えと飲みものと軽い食事まで用意してくれた環は、土曜を伊都の介護で潰してしまったことだろう。申し訳なくて思い出すだけで吐きそうだ。
翌日は自室に戻ることはできたものの、動く気力が湧かずにやはり天井を見ながらただひたすら反省を繰り返して終わった。
一応柚葉に電話は入れた。大人気なく迷惑をかけたし、不躾な言葉で傷ついていないだろうかと心配していた伊都だったが、泣きそうな声の柚葉には逆に散々心配されてしまった。柚葉は自分に向かってきた言葉の暴力よりも、伊都の体調の方が大事だと喚き、今後イト先生の前に置かれた酒は自分が飲むと宣言し、大いに伊都を恐縮させた。
自分の周りの年下の子たちは、みんな、驚くほどに優しい。
伊都が自省に勤しんでいる合間に、環は繁忙期に入ってしまったらしい。しばらく料理練習はできないかも、と言われた時は『あかんおれ嫌われたのかもしれへん』と本気で泣きそうになったが、連日遅い時間に帰宅しているし、本当に忙しいようだ。
借りた服を返したい。そして心底謝りたい。
そんな焦燥に耐えられず、ついに深夜帰りの環を待ち伏せ、自室に引き摺り込んでしまった。
手短に、と自分を戒めるものの、辿々しい謝罪の言葉は溢れて止まらない。
「いや、ほんま、マキちゃん毎日疲れてはるのに、こんな時間に呼び止めてもうてごめんな……」
「え、そんなに激務ってわけでもないし大丈夫ですよ。まだうちに帰ってくる余裕ありますし」
「……ほんまに忙しい時は泊まり込みなんか……」
「まー帰って来れないっすね。へへ。ていうか今だけバタバタしてるって感じなんで、伊都さんは気を使わなくて大丈夫です。先週のことも本当に気にしてな――あ、でも、やっぱ伊都さん外で飲まない方がいいと思う」
「え。……おれ、そないにアカン感じやった……!?」
「まぁ、うん、はい。アカンといえばアカンというか……危なっかしいというか、不安で見ていられないというか」
「やっぱりおれはマキちゃんに多大な迷惑を……?」
「いや全然。素直な伊都さん、面白かったですから」
おれは一体何をやらかしたんや、と蒼白になるものの、環の態度は始終軽やかだ。伊都の心配は、杞憂に終わったらしい。
良かった。本当に良かった。……好きかもしれない子に、告白する前から嫌われてしまったかもしれない、と思っていたから。
(マキちゃん、ほんまに怒ってへんのやな……アカン、ええ子や。かわいい。かっこいい。……やっぱ好きやんな、これ)
飲み会の席で伊都は、好みのタイプを聞かれた。咄嗟に出たのはこういう質問をされたときの常套句だったが、うっかり頭に浮かんだのは環の爽やかな笑顔だった。
良い子だと言うことは勿論知っている。環はどこからどう見ても正統派の好青年だ。
素直だし、頭もいい。話していて楽しい人間だ。
ただ、どこからどう見ても男である。
二日酔いの頭で一応人並みに同性愛について考えてみたものの、結局よくわからなかった。男が好きなのかどうかはわからない。ただやはり、環のことはかわいいと思う。会いたいと思うし、笑ってほしいと思うし、触りたいと思う。
恋なんて言葉を意識したのは何年ぶりだろう。勝手のわからない、一方的な恋慕だ。環と向き合っているだけで無駄にそわそわしてしまい、何度かこっそり深呼吸をする羽目になった。
どうしたらいいのかわからない。この恋のようなものを、追いかけていいのか、わからない。それなのに会えば単純に感情は募る。
いや、伊都の恋慕など今はどうでもいい話だ。用件は終わらせたのだから、これ以上環の時間を奪ってはいけない。
今度改めてお詫びをするから。そう締めくくりおやすみと手を振るつもりだった伊都に、無邪気な顔をした青年はさらりととんでもない言葉を吐く。
「いやーでも、伊都さんには悪いけどちょっと嬉しかったです。正直、憧れてたんですよ。飲み潰れちゃったから迎えにきて〜とか、そういうの。俺、友達いないから……」
「え。なんでやの。マキちゃんええ子やし、友達いっぱいおるやろ。職場がブラックすぎて友達と遊ぶ暇ないってだけやろ?」
「まぁ職場はブラック気味ですけど、あー……俺、ゲイなんで」
「…………さらっと言うたなぁ」
「深夜のテンションでさらっといっとこうかな、と。あ! でもその! いきなり襲ったりとかそういうのは勿論ないんで、えーと、伊都さんさえ気にならないなら、今まで通りそのー……仲良く、してもらえたら、嬉しい……なー、と」
「気にするも何も、別に何も変わらんやろ」
「……ふふ。伊都さんは、そう言ってくれるかな、って思ってた」
ありがとうございます、と笑う。
嬉しそうにはにかむ、その顔を眺めながら伊都は少しだけ罪悪感を腹にかかえた。
本当に、さらりとしたカミングアウトだった。けれど『友達がいない』理由として挙げられたソレは、環にとっては辛い思い出も伴うことだろう。
それなりにびっくりした。きみそれこのタイミングで言うかぁまじかぁ、と思った。言われてみればそうかもなぁ、と思えるような雰囲気もある。嫌悪感はない。友達がたまたま同性しか好きにならない男だった、ただそれだけのことだ。
ただ、伊都はほんの一瞬、期待してしまったのだ。
環が同性愛者なら、恋が実る可能性はあるのではないか。チャンスはあるのではないか。
そんなふうに勝手に浮かれてしまったことを反省する。環は信頼して告白してくれたに違いない、それなのに自分はなんと軽薄か。
よろしくない。これは大変よろしくない。環に対する裏切りだ。真摯に、彼の友情に応えなくては……と思うのは理性で、本能はさっさと環のTシャツの裾を掴む。
「…………伊都さん? 何……」
「マキちゃんこれから寝て明日も仕事やろ? 朝メシとかちゃんと食えとんの?」
「え。えーと……そういやあんまり、ちゃんと食ってない、かも」
「顔色悪いわ、うちの蛍光灯が古いせいやないわな。ちょっと待っとき、軽いモン作ったるから」
「いや、あの、こんな時間にそんな、申し訳……っ」
「ええから。お世話したいねん、最近ゆずちゃんも遠慮して来ぉへんし、マキちゃんも仕事にお熱でおれは寂しいんや。重いもん入れると寝れへんかなぁ……ちゅーか、もうこのまま泊まってったらええんとちゃうか?」
「は? え? なに? な、なんで」
「朝起こして朝メシつけたるで。ギリギリまで寝ててええし。珈琲とパンと卵……あー、サンドイッチにしよか。油で焼くより、茹でて崩した方が食いやすいやろしなぁ」
「……でも、迷惑……」
「弁当も作ったるよ」
「うっ……」
環の服の裾をちょいちょいといじりながら、ダメ押しとともに首を傾げる。
「……お得やで、イトメシ宿泊セット」
「うー………じゃあ……その、お言葉に、甘えて……」
よっしゃ、と盛大にガッツポーズを決めたのは勿論心の内だけだ。
現実の伊都はにやにやしないように最大限気をつけながら、さっさと部屋のドアに鍵をかける。ついでにチェーンもかける。内側だからあまり意味はないが、せっかく確保した環を逃したくない。
環がゲイだから自分と付き合ってもらえる、などとは微塵も思っていない。思っていないが、少しくらいチャンスはあるのではないか、と浅はかな自分がチラチラと顔を見せる。
とりあえずは自分のいいところを売り込む努力を……と考えて、ふと、己には胸を張ってアピールできることが料理くらいしかないことに気がつく。いや、それならば、料理で胃袋から陥落させるしかない。
幸い環は、伊都の作ったものを好んで食べてくれる。最初の難関『味覚の好み』はクリアしていた。生まれ持った味の好みと好き嫌いは、伊都の努力ではどうにもできない。
朝食の卵をどう調理するか考えながら、伊都は部屋着のシャツの腕をまくる。
「一回上帰るか?」
「あー……いや、いいです。別に腐るもん放置してるわけじゃないし、パンツは持ってるし」
「…………マキちゃん、パンツ常備してはるの?」
「はぁ。いつ急な徹夜になるかわからないので。スタッフが不潔だと女優からメーカーごと厭われるからって理由で、常に石鹸の匂いをさせろって言われてますね」
「難儀な仕事やな….…」
「上で着替えた方がいいんでしょうけど、いーや……伊都さんの顔見たら帰りたくなくなった」
ふわり、と眉を落とす環の苦笑正面から食らった伊都は、どんな顔をしていたのかわからない。咄嗟に息を殺したことは覚えているが、首の後ろから這い上がる熱はどうか顔に出ないでいてほしい。
住んでもええで、と笑う。
俺が住んだらさすがに狭いでしょ、と言葉が跳ね返って伊都を柔らかく殺す。
ほんのささいなやりとりで、馬鹿みたいに体温が上がる。息を吸う、意識してゆっくり、吐く。平常心を心掛けながら、いつもどおりにだらりと言葉を放り投げる。
「マキちゃん、お夜食、なに食いたい?」
「……伊都さんの作った茄子の味噌汁。あの、胡麻油で炒めるやつが食いたいです」
「ええ返事やね。よっしゃーちょっと待っとき」
顔だけ洗う、と言って洗面所に消えた環の背中をちらりと眺めてから、伊都はさっさと夜食の準備にとりかかる。
茄子は油と相性が良い。だが、疲れた環の胃にあまり油っぽいものをつっこむわけにはいかない。茄子が油を吸いすぎないように、さっと切った後に胡麻油をふりかけて揉み込む。先に少量の油を纏わせることで、茄子が油を吸わなくなるのだ……と聞いたし、実際そんな気がしているから一応この作業を挟み込む。
そのまま油を敷かずに深めの小さなフライパンにつっこみ、中火で焼き目をつける。
どうせあとで煮るから、とりあえず焼き色がつけばいい。油抜きして冷凍しておいた油揚げを取り出し、小ネギを切る。
一心不乱に手を動かしていた伊都だが、ふと手を止めると、へなへなとその場にしゃがみ込んでしまった。
(……アカン、やばい、たのしい、なんやのこれ、浮かれてる、しにそう)
誰かのために料理を作ることが、楽しい。相手が環なら、なおさらだ。そんな当たり前のことに気がついて、己の感情を再確認してしまった。
何も変わらない、などと言ったのは、嘘だ。
なぜならば伊都は、恋をしたのだから。
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