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◆09
「あらやだ、柊也さんたら、朝帰り……?」
今日もふらふらと出勤した環を二度見した上司は、相変わらずずけずけと容赦がない。
瀬羽が少々無神経な言葉を放つことに関してはもう慣れた。慣れた、のだが、今日ばかりはさらりと流せずぐっと息を詰まらせてしまう。
「つーかそのお洋服ブランドものじゃありませんこと?」
「……なんでお嬢様口調なんですか瀬羽さん。やたら似合うんでやめた方がいいですよソレ」
「え、うっそ、まじ? 似合っちまったかーさすがオレ。新しい扉開きたくねーからやめるわ」
けらけらと笑う瀬羽にバシバシ肩をたたかれる。環が眉を寄せ険しい顔をしているのは、背を叩く力が強すぎて痛いという理由もあるが、顔に力を入れていないとにやけてしまいそうだったからだ。
(……いってらっしゃいって、いわれちゃった……)
手を振る眠そうな伊都の顔を思い出す度に、机の上に崩れ落ちてしまいそうになる。柔らかな伊都の声は、電車に乗っても職場のデスクに座っても耳の奥に残ったままだ。
ど深夜に帰宅したら、下の階の住人に捕まり何故かそのまま泊まることになった。
ノリと勢いでカミングアウトしたのは、多少くらいは意識してもらえたら嬉しいという下心があったからだが、思いもよらないぼた餅を食らった気分だ。
(言っちゃって良かったのかなぁ〜……伊都さんわっかんないんだよなー……! つーか顔が良すぎて俺が直視できない……)
昨日の環はこのところのハードワークで疲れきっていて、判断力をどこかに放り投げてしまったのかもしれない。
人恋しさも相まって、結局乞われるままに伊都のベッドに潜り込んだ。
どこで寝るんだろうと思っていたら、さらりと手を掴まれて当たり前のように同衾させられ、本気で焦った。襲わないですなどと言った手前、伊都さん無防備すぎませんか! とも言い難い。
うち、スタッフが仮眠取ることあったから、でかいベッド買わされたんや。おれもまぁ、小さかないしなぁ。二人くらい余裕やろ。
いつもどおりのテンションでだらだらと話す伊都の声が気持ち良すぎて、ベッドに入ってからの記憶がほとんどない。いつでもどこでも眠れる体質が仇になり、気がついた時には朝食を作り終えた伊都に揺り起こされていた。
なんだかとても貴重な時間を無駄にしたのではないだろうか。
ほとんど座っているだけで完璧な朝飯を出され、朝借りた風呂のあとは髪の毛まで乾かしてもらってしまった。至れり尽くせりとはこのことか、と思っているうちに着替えまで用意され、さすがに慌てて辞退しようとしたのだが。
伊都の服を着る機会なんて、この先もうないのでは? という邪な誘惑と、洗って返すという名目でまた会えるという姑息な算段が働き、結局袖を通してしまった。
伊都の服は、環の体には少し丈が長い。それでもシンプルめなTシャツを選んでくれたようだが、瀬羽に一目でバレてしまうくらいには似合っていないのだろう。
「ま、プライベートくらい充実させねーと厳しいわな! わかるぜ! オレも昨日はオールで特撮飲み会しちまったぜ!」
「いや、俺は寝ました。ちょっと帰るの怠くて部屋借りたら着替えまで準備されてただけです……別にやましいことなんかない。ほんとうです」
「やましくてなんぼだろ二十四歳。不倫とか犯罪じゃねーならバシバシ他人といちゃついてガッツリストレス殺しとけ。……いま仕事がなぁーほら…………アレだからよ……」
歯切れの悪い瀬羽の言葉に、やっと現実に引き戻された環も息を吐いた。
実は、ここ最近の忙しさには明確な理由がある。
ずばりそれは先日急に配属された、新しいプロデューサーが原因だった。
「てか、瀬羽さん今日も撮影なんすか? なんで? 昨日撮り終わったんでしょ?」
「ふふふ、聞いて驚けよ柊也ァ……実は昨日の撮影後に女優とプロデューサー様が場外乱闘でガチンコバトルで女優ブチギレ、あちらさんのマネージャー巻き込んで大揉めで結局出演拒否で一日分の撮影丸々ボツっちまったんだぜぇ……」
「…………佐塚さんのとこよりひどいっすね」
「いや佐塚のがやべーだろ。撮り終えて編集してモザイクまでばっちり、パッケージも上がってたのに鶴の一言でおじゃん、撮り直しだろ。佐塚どこ? ボイコット?」
「坪田くんと撮影」
「あー……無能P様、佐塚についていってくんねーかな……」
「無能って言っちゃってますよ瀬羽さん。バレたら首が飛びますよやめてください俺より先に辞めないでください」
「やめたかねーよでも上司ガチャ失敗はきびいわ」
あとちょっとの辛抱だ、と毎回付け加えるものの、実際はどれだけ我慢したらいいのかよくわからない状態だ。
アッパーズキャストは基本的に、監督にほとんどの権限が委ねられている。そもそもアッパーズキャストの上部があまり仕事をしたくない人だから仕方ない。仕事をしない分、あまり文句も言ってこない。
そのため『やたら口を出してくるわりに仕事ができない無能上司』を、環含めて瀬羽や佐塚までも完全に持て余していた。
社長のツテで転勤したきたという新プロデューサーは、絵に描いたようなパワハラ男だ。
仕事の内容から段取り、果ては言葉遣い、態度、服装、まで無駄に口を挟み、上から目線の説教が都度入る。
言っている事はなんとなく正論ぶっているが、よく聞けば一時間前とまるで正反対の理論を述べていたりする。自分で判断しろと言った次の瞬間、逐一確認しろと怒鳴る。典型的な『仕事をしている風』な男だった。
そもそも自社のスタッフは、腕が立つものばかりだ。
女の子の裸をタダで見れるから、などという不埒な理由で入社しても、大概は一か月も続かない。環のように女性に興味がなく仕事として割り切るか、瀬羽のように映像作品監督として働くか、佐塚のようにそれでもフェチに突き抜け仕事をこなしていくか。決して楽ではない職場だからこそ、環含めアッパーズキャストのスタッフは手が早く優秀だ。
普通に働いていれば、多少の軋轢はあれど怒鳴られるようなミスはしない。それなのに先週から社内は怒号で満ちていた。
擦り寄る派の瀬羽も、耐える派の環も、はやくも我慢の現界が近い。
怒号をやり過ごすだけで済むならまだマシで、場合によっては意味のわからないダメ出しを食らい、作業をやり直す羽目になる。もとより事なかれ主義の社長やプロデューサーに泣きついても『まぁちょっとの辛抱だから』と躱されておわった。
口を出さない無能上司が、見事に最悪な形でパワハラ上司とコラボレーションしてしまったわけだ。
「はーーーーー世の中うまくいかねーぜどっこい! 嘆いていても始まらねぇ! っつーわけでさくさく仕事の話すっけど柊也おまえ来週撮影な」
「え? はぁ、元からその予定……」
「違う。オレのアシスタントじゃなくて、お前が回して撮んの。佐塚がやる予定だった撮影引き継げって、糞P様からのご指名で〜す」
「はぁ……はぁ!?」
「いいぜ……お前のその元気なリアクションだけがオレの癒しだぜ……」
楽しそうにニヤニヤと笑う瀬羽には悪いが、言葉遊びに付き合う余裕などぶっ飛んだ。顔面蒼白で椅子ごと瀬羽に詰め寄る。
「待ってくださいマジで待っ……、え!? 来週!? 俺、現場回したことなんかないですよ!?」
「ハイもちろんオレもそう言いました〜そこそこ抵抗しました〜でももう二年もアシスタントやってんだからできんだろって一笑よ。いま全員撮影回ってねーから監督できるやつは総出で働けってよ。いやーお前のよくわかんねーダメ出しのせいで回ってねーんですけどね? って言ってやりたかったぜあの糞ハゲによぉ……」
「あの……あの人、他の会社のスパイとか刺客かなんかです……? 会社にとって損になることしかしてないと思うんですけど……」
「いんのよ、ああいうさ、『会社の利益とか知らんけど自分が気持ちよくなる為だけの仕事を求める』奴。たしかに柊也は優秀よ? でも今この誰もフォローできねータイミングで独り立ちさせることねーよって話はもちろんしたけど聞いちゃいなかったから仕方ねー。がんばれ。こうなったらやるしかねぇ」
「……いや……その、仕事なんで……やれ、と言われたら、努力はします、けど……え? 来週? ス、スタジオは押さえてあるんですよね……?」
「まぁその辺は佐塚がやってんだろ。たぶん。後で『至急連絡されたし』ってメッセ打っとけ運よきゃ昼に連絡とれる。つーかハゲPなんでお前と佐塚にやったらキビシーの?」
「え……知りませんよ……最初の飲み会断ったのが俺と佐塚さんだったからじゃないっすか……? 知らんけど……」
「デコはひれーのに玉がちいせーおっさんだぜー。ま、できる限り勝手に手伝うからとりあえずやってみろよ。……デコピカおっさんは嫌がらせでお前を指名したのかもしんねーけど、オレァ柊也ならできると思ってっから」
比較的優しめに肩を叩かれるものの、正直不安しかない。
瀬羽の言葉はシンプルに嬉しいと思う。思うが、ただでさえ仕事量が増えているところに勝手も知らない新しい仕事が降って湧いた事実は、労いで消えるわけではない。
あたまがぐらぐらする。胃がぎゅうっと痛む。今朝は比較的マシだったのに、少し吐き気もしてきた。ストレスが胃にくるって本当なんだなぁ、と、二十四歳にして気づきたくないことに気づいてしまう。
「くっそしんどそうな柊也くんに追い討ちだけどよー、一応プロデューサー様の激励のお言葉もらってきたわよ。聞いとくか? やめとくか?」
「……その言葉を聞いた瀬羽さんの感想先に聞きたい」
「ぶっ殺すぞくそやろう」
「……聞きたくないなぁ……えー……でも、はい、聞きます……」
「『童貞のホモに務まる仕事じゃない。何を勘違いしてこの仕事についたのかわからない。エロスを理解していない奴に良いものが撮れるわけない。早めに現実に気づいてさっさとゲイビデオの現場に回すべきだ』ですって。……殴っときゃ良かったか?」
「いえ、いいです……暴言くらいは我慢できるんで、瀬羽さんがハゲ殴ってクビとかになんなくて良かったなぁって思ってるところです……」
「バーカ、オレが辞めたら誰が『料理上手な彼女』シリーズを世に出すんだよ! 最近やっと料理食うパートの演出力がパネェってコメントつくようになったのによぉ!」
「あー、瀬羽さん、女優さんの棒読みを憎んでますもんね……」
あえて明るく冗談を言ってくれているのだろう。瀬羽は見た目もテンションもとっつきにくいが、基本的に情に厚い男だ。
この人が上司で良かったなぁ、としばらくしみじみしていたが、手を止めている時間などなかったことを思い出す。
「そんなわけで今日はまぁ早めに帰って彼氏だか彼氏候補だかに愚痴って泣きついて癒してもらって来週に備えろ。オレができる仕事は代わってやる」
「え。いや、いいですよ、だって瀬羽さん撮影……」
「知ってるかー後輩に仕事押し付けるだけが上司じゃねーんだぞー。来週地獄が確定してんだから休める時に休んどけ。できねーことを無理してこなしてもしんどいだけだからな、出来ねーもんは投げていい。休日出勤も禁止な。ラブラブデートでもして英気養っとけ」
「……瀬羽さん」
「え、なんだよ、ラブラブって死語? まさか二十四歳令和マンには通じない系?」
「ありがとうございます」
「……うん。おう。ま、頑張ろうぜ死なない程度にな」
照れ臭そうな顔で、環の頭をぐしゃぐしゃに掻き回す。乱れた髪を直す環がほんの少し涙ぐんでいた事に、瀬羽は気づいていたかもしれない。ハードな仕事だ。現在の上司は糞野郎だ。けれど環は、この職場が好きだと思う。
とはいえ、休む間もなく結局仕事は押せ押せで、もちろん定時に上がることも出来ず、職場を出たのは夜の九時過ぎだ。
早く帰れと引き継ぎをしていた佐塚にまで追い出され、頭を下げて退勤する。心なしか足元がおぼつかない。大量の編集作業に加えて、新しい仕事を抱え込んだせいで気を張っていたのだろう。
今日こそは足を止めると座り込んでしまいそうだ。いっそタクシーを使ってしまおうか……と考えながらも、習慣で電車に乗ってしまう。自宅の最寄駅までどうにかたどり着いたところで、目の端に見覚えのある人が映った。
「え……伊都さん……?」
人待ち風だった伊都は、環に気づくと当たり前のように歩み寄り、おかえり、と少し笑う。
赤い髪の毛に、黒縁の眼鏡。すらっとした長身にオーバーサイズのシャツがラフに似合いすぎていて、どこからどう見てもかっこいい。
「珍しいですね、こんな時間に外にいるなんて。どなたかと待ち合わせですか?」
「え、ちゃうちゃう、キミを待っとったの」
「……え。なんで……?」
「なんでて。お昼に連絡くれたやんか。今日そっち行ってもいいですかーて」
たしかに、連絡した。忙しくてわけがわからなくて、しかも時間が経つにつれプロデューサーの暴言がじわじわと効いてきて、腹が立って泣き喚いてしまいそうだった。
彼氏候補に愚痴言って泣きついて癒されておけ。そう言った瀬羽の言葉をぼんやり思い出し、何も考えずに伊都にメッセージを投げた記憶はある。
ただ、環が送ったメッセージは『今日夜お暇でしたら、ちょっと会いに行っていいですか? 愚痴吐き出したい』であって、迎えに来てほしいとか駅で待ち合わせだとかは一言も書いていない。
「いや、いつもの時間くらいまではおれも部屋で待ってたんやけどな? なんや遅いなー思うて、そんで外見たら雨降っとるし、いやマキちゃん手ぶらで出てったやんかと思うてどうせ会うならお迎えいこかなーて。着いた瞬間雨止んでもうたけど。……マキちゃん? ちょ、どないした? お腹痛いか?」
「うー……いま俺、優しくされるとしんどいんですー……」
「待て待てちょっと泣いとるやんけ!? え、あの、とりあえず帰ろか。それともどっかその辺で飯食ってく?」
「……お腹はすいたけど伊都さんの部屋がいい。泣くかもしんないから」
「どないしたん、ほんま……キミ、忙しいだけならそないにボロボロにならんやろ。誰かに酷いこと言われたんか?」
優しい伊都の声を聞いたらもうダメだった。
ふらつく足取りでどうにか歩きながら、環は新しいプロデューサーの愚痴を怒涛の勢いで吐き出した。ほとんど表情の変わらない伊都だが、件の激励と言う名の暴言を聞いた際にはあからさまに眉を寄せた。……怒った顔かっこいい、などと思えたのは、愚痴を吐き出して少し楽になったおかげだろう。
瀬羽はよい上司だ。しかし、一緒に働いているからこそ言えない愚痴もある。
一通り言葉を吐き出した環は、いつのまにか隣を歩く伊都が足を止めていたことに気がつき、振り返る。
「……伊都さん?」
「あー……マキちゃん、今日具合悪いとか食欲ないっちゅーわけやないよな? 胃の調子は万全?」
「はぁ、まぁ、ストレスマッハですけど食欲はありますよ。え、待って待って、どこ行くの伊都さん……!」
「うちで胃に優しい粥でも作ろかなーと思ってけど、予定変更や。まずコンビニでビール買お。マキちゃんビールわりと好きやろ? 空き缶ぎょうさんあったし」
「……好き、ですけど、伊都さんはお酒飲めませんよね?」
「おれは麦茶で付き合うからええねん。一口くらいはわけてもらうかもしれへんけど。ちょっと高い奴買お。プレミアムとかついてるやつがええな。そんで飲み物調達したらマクドナルドで好きなもん買って帰ろ」
「……伊都さん、マックとか食うの……?」
「食うで。自炊料理マンやってジャンクフードは大好きやわ。ちゅーかおれ、むしゃくしゃした時にはマックに走るんや。そんでハンバーガーにポテトにナゲット食いたいだけ買ってガツガツ食うねん。食い終わった後には、だいたいのことはどうでもようなるで」
「………カロリーすごそう」
「明日走るからええねん」
明日やるから今日は許される、と豪語する伊都の言葉が好きだと思う。
会えば会うだけ、話せば話すだけ、この人に惹かれていく。好きになってしまうのはおそらく辛い。伊都は優しいが、ストレートだ。
それなのに感情の濁流は、確実に環を押し流す。
「だいたい何やねん童貞て、イマドキそんな言葉が侮辱になると思とる方がダサいわ。どシンプルにセクハラやんか。仕事に関係あらへんやろ」
「いや、うーん……ないと言えばないんですけど、たぶん、佐塚さんから引き継いだ撮影、外ロケありの『ラブラブデートもの』だったから、じゃないかなぁ……と。実際俺は恋人いたこと無いので……正直デートとか未知だしちょっと、はい、大丈夫なのか……? とは思ってますけど」
「……せやったら練習するか?」
「は?」
「デートの練習。週末は休みやろ。うちの動画編集はゆずちゃんがもう終わらせてんねん、せやからおれも日曜日は休む。しっかしホンマ腹立つな、よし、待ち合わせからやったろ。十時に駅集合やな。……遅いか? 九時ごろ合流してとりあえず映画行くか?」
「……デート? 俺と、えーと……伊都さんが?」
「…………嫌やったか? ゆずちゃんの方がええ?」
「え、伊都さんがいいです」
思わず正直に断言してしまい、三秒後にやっと恥ずかしくなって赤面する。
(何がどうなってこうなったんだ……ていうか、伊都さん本当にわかんない……!)
動揺しすぎなほど動揺している環から見れば、すでにチキンナゲットのソースの話をしている伊都の本心などわかるわけもない。
伊都がその日から週末まで着ていく服に悩み、デートコースを検索しまくり、柚葉を散々巻き込んで大騒動を繰り広げることも、もちろん環は知らなかった。
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