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「浅草って、美味しいんですね……」
たっぷりと蜜を纏った大学芋を平らげた環は、しみじみと息を吐く。何を差し出してもうまそうに食うものだから、先程から伊都のおすすめも止まらない。
「食べ歩きっちゅーたらもうちょいフォトジェニックなとこもあるけどなぁ、おれ浅草好きやねんなー。レインボーなんとかみたいなモンはゆずちゃんの土産にするのはええけど、おれが食いたいのは揚げ饅頭にきびだんごやねん」
「伊都さんと歩いてたら、どんどん太りそうです。ていうかなんで伊都さんそんなに痩せてるんですか、結構食うのに」
「なんで……あー、なんでやろな……? 間食せぇへんし酒も飲まんからかなぁ……あ、あのメンチカツ有名なやつや。マキちゃん食う?」
「……食べたいです、けど、ほんとに太りそうだから一口にします」
「うん。じゃ、一個だけ買うてくるわ。はんぶんこしよ」
待っててな、と環を残して歩き出した伊都は、朝からひたすらに上機嫌だった。
今日の目的は、環の経験を増やすことであり、本当の意味のデートではない。
経験がないからと気後れするくらいなら、さっさと経験値を増やしてしまえばいい。ついでに仕事のことを忘れて、少しくらいはリフレッシュしてほしい。
そんな身勝手なお節介と、いやこんなんチャンスやんという下心で計画した擬似デートは、約束通り待ち合わせて映画を見ることから始まった。
動画ではそこそこ映えてくれる赤い髪は、デートとなると少々目立ちすぎる。サマーニット帽の中に頭の大半を隠し、悩みに悩んでロング丈のシャツを羽織った。
軽々しく誘ったものの、実は伊都もあまりデートの経験はない。周りの人間は恋愛にだらしなかったが、それに反発するかのように伊都本人はひどく奥手な性格に育った。さすがに三十を過ぎて己の恋愛経験のなさを家族や友人のせいにするつもりはないが、やはり影響は受けているとは思う。
さらに動画配信をするようになってからは単純に忙しく、恋をしようなどと思うことさえなかった。
忘れていた。そういえば恋というものはしようとかしたいとかではなく、ストンと落ちるものだった。
(あっかん……ずっと楽しいしずっとかわええ……)
今日の環は、いつもと似たような細身のパーカーだったが、伊都はそれが新品であることを知っている。いつも通り帰りがけの環を部屋の前で捕まえようとした時、買い物袋を下げている姿をバッチリ目撃してしまっていた。
伊都の視線に気づいた環は、耳まで赤くなって『服を買うところからがデートだってうちの上司が言ってたから!』と言い訳した。かわい過ぎて腰が抜けるかと思った。
伊都など楽しみすぎて、昨日はあまり眠れていない。
今日の主役は環で、出かける理由はAV撮影のためで、環と伊都は付き合っているわけではない。
と、頭ではわかっていても、やはりどうしても浮かれてしまうし、好きだと思う気持ちはただひたすらに募っていく。
どちらも三十分早く駅に着いてしまいデート開始時間が早まったりだとか、映画の字幕か吹き替えかで悩んだりだとか、ドリンクを奢ろうとしたら鞄に札をねじ込まれたりだとか。些細なことが全てもれなく楽しい。
奢ったるのに、としゅんとする伊都に対して『今日は伊都さんが付き合ってくれてるんだから、お金は俺が出すの!』と譲らない環は頑固で少し可愛い。
それでも昼から移動した浅草は、伊都のペースで散策が進んだ。
揚げたてのメンチカツを手にして振り返った伊都は、可愛くてかっこいい仮の恋人が誰かと談笑して頭を下げている場面を見た。
また観光客のカメラマンを頼まれたのだろう。本日早くも三回目だ。
「よう絡まれるなぁマキちゃん……おれなんかこの辺歩いてても、一度も声かけられたことないで」
メンチカツを齧りながら戻る。他所行きの好青年顔だった環は、伊都の隣に戻ると少しだけ苦笑した。
「俺、わりとどこに行ってもカメラ頼まれるんですよねー……なんでかな……。現地に詳しいカメラ小僧っぽいです?」
「あー。……そうかも。身軽やし、いっつも動きやすそうなカッコしとるし、あと愛想ええからちゃうかなぁ。なんや今日は眼鏡やし。……マキちゃん普段コンタクト? 映画んとき眼鏡してたか?」
「あ、えっと、ふふ。……これ、実はカメラ内蔵の眼鏡です」
「……隠し撮り……?」
「あーいや! そういうのじゃなくて! まぁ隠し撮りなんですけど! なんていうかほらいま色々厳しいじゃないですか盗撮とか。べつに仕事にそのまま使ったりはしないんですけど、資料とかロケハン用とかに撮りたい時、カメラで撮ると目立っちゃって良くないなーってことが多いんですよ。……いやまぁ……隠し撮りなんですけど……」
「あー……まぁ、ネットにあげたりせんのだったら、ただの思い出ムービーか。資料映像に残るんやったらもうちょいこう、彼氏ヅラしとかんとあかんな……」
「え……これ以上……?」
「これ以上てなんやねん、おれさっきからマキちゃん餌付けしとるだけやで。ほら、こっち来ぃや。これ食ったら移動しよか。ほら、あーんて」
「…………」
メンチカツを口元に差し出せば、一瞬どころか三秒ほど固まった環がチラっと伊都を見上げる。そして観念したかのように口を開け、さくり、とメンチカツを食いちぎった。
環は口の形が綺麗だ。歯並びも美しい。ちゅーして舐めたら気持ちよさそうやなぁ、などと考えていることはおくびにもださず、伊都は首を傾げる。
「うまい?」
「……ドキドキしすぎて、味しなかった……」
「うはは、パーフェクトな解答やんか。彼氏冥利に尽きるわぁ」
どこまで間に受けていいのかわからないが、とりあえず楽しんでくれているらしい。残ったメンチカツを大口で食べきり、唇に残った油を舌で舐める。ふと、環がこちらを凝視していることに気が付き笑いかけると、慌てたように目を逸らされた。
いい加減鈍感な伊都でも気づいたが、どうやら環は伊都の顔をそれなりに気に入っているらしい。
「……マキちゃん、そのメガネカメラやったら、目線逸らしたら彼氏撮れへんのとちゃう?」
「いいんです……ロケハン用なんで伊都さん映ってなくてもいいんですー。ていうか、あの、デートモードの伊都さんずるくないですか……?」
「ずるいってなんやねん」
「ずっとかっこいい。ずるい。……俺ばっかドキドキしてる」
「おれもドキドキしてるっちゅーに」
ほら、と指を絡ませて手を握れば、お互いの汗で肌が吸い付く。そこまで気温は暑くない、けれど緊張で汗がひかないのだ。
「おれの手びっしゃびしゃやで。ついでに心臓もバックバクや。胸に耳つけて聞いてもええで?」
「……いい……俺がしにます……てか、あの、手……いいの? 伊都さん、えっと……外だけど」
「デートやしな。手くらい繋いどかんとなぁ」
ぎゅっと指を絡めると、しばらく迷った後に環の指が同じように力を込めて伊都の手を握った。
あかん、かわええがカンストする。
骨張った手の甲を指先でいたずらになぞると、びくりと肩を揺らした環が恨めしそうに見上げてくる。知らん顔でそのまま遊んでいたら、指を動かせないようにがっちり握り込まれた。
「……マキちゃん、いたい」
「伊都さんが悪戯するからです」
「せやってーデートやしー」
「それ言えば許されると思ってるとこかわいいんで勘弁してください……」
あまり言われ慣れない言葉だったが、褒められているのだろうと受け取る。何より耳まで赤くなった環の態度の方が雄弁だ。
次の目的地に向かって歩きながら、伊都は可愛い恋人に小声でささやく。
「マキちゃんの好きなタイプてどんな人なん?」
「え。……えーと」
「お。その顔はあれやな? おれは微塵も掠ってへん感じやな?」
「違いますよ……! ゆ、指の綺麗な人、好きです!」
「ゆび」
指か。
繋いでない方の手を掲げて、パッと指先を広げてみる。そもそも伊都は痩せ型なので、指もそれなりに細い。
「うーん……及第点……?」
「え、なに言ってんですか。パーフェクトですよ。百点満点です特に中指の第二関節が最高です」
「おん。思いの外ガチな感想来たなぁ……まぁでもマキちゃんが好きなら大切にしとこ」
「……伊都さんの、好きなタイプは?」
「うん? うん。おれか。おれなぁ、だいたいそれ聞かれたときは『言葉が通じる子』て答えとるんやけど」
「…………それ、すっげー狭くないですか? 感性が同じ人って事でしょ?」
一瞬、伊都の言葉が詰まる。
しばらく環を眺めてから、しっかりと握りしめた手の感覚を確かめ、ゆるやかな息を吐いた。
「うん。せやね、そういう意味やわ。人間まじで十人十色やからなぁ、同じ言語つこてても、話通じん輩なんぞ山ほどおる。おんなじ感覚と倫理観持ってへんと、そもそも話し合いすらできひん。好きなモンが違てもええねん。それがどんだけ好きか、どう好きか、何が好きか、説明する言葉が通じひん方が嫌やわ、おれ」
「……伊都さんも、あれですよね、いろんな人と対話する仕事だからそう思うんですかね」
「あーそうかもなぁ……コメント、たまーに流すけどほんまどないしたらそうなるんや? っちゅー言葉ぶつけてくる奴もおるしなぁ。悪気なくマジで褒めてるつもりでえらい失礼な事言うてくる奴もおるわ」
そういう人間に出会うと、言葉が通じないから仕方がない、と思う。そう思うことにしている。話せばわかる、などというのは幻想だと知っているからだ。
「ハードル高いっすね、伊都さんの恋人条件」
「でもいま、マキちゃんには通じてたで?」
「…………うん?」
「おれがこれ言うとだいたい『日本語話せるならなんでもええ』って勘違いされんねや。ちゃうねんてーて言うのめんどいから笑って流すけどなー、考え方が近いやつのこっちゃでーってすぐにわかってくれたやん。……な? 通じとる」
「…………」
「マキちゃん?」
「……伊都さんて、タラシ……?」
「いや、全然言われんわ。おれモテへんし、口説いたりせーへんし。顔変わらんし、冷たい言われるで?」
「伊都さんは優しいですよ、冷たいとか言ってる奴は馬鹿でアホですっとこどっこいです」
「すっとこどっこいて令和の子も言うんやな……」
「たまに上司が言ってます。伊都さんと同じくらいの歳かも。でもおれ、そんなに歳離れてないですよ。七つでしょ」
「いやぁ、七つてでかいでおれが中学んとき、マキちゃん幼稚園……え、あかん、犯罪やな……犯罪やわ……」
「犯罪じゃないです大丈夫です。俺は二十歳超えてるし伊都さんはまだ三十代です。幼稚園児の俺じゃなくて今の俺を見てください」
「ええ……マキちゃんかっこよ……かわええのにかっこええしわけがわからんわ。おれなんかええとこ全然ないのにずっるいなぁ。中指の第二関節を大事に生きるわ」
「え、いや! 他にも好きなとこありますから! 顔だってかっこいいし、その、笑った時に目を細めんのとか、エロくてぎゃーってなるし! 声も気持ちいいし、あと、伊都さん優しいからほんとなんていうか理想の彼氏っていうか、もう、あの……全部好き……」
「…………あかんいまナチュラルにちゅーしそうになったわ」
「それは、あの、……外では、ちょっと……」
「誰も見てひんかったらええの?」
「……デートだから」
そうか、キスしてもいいのか。キスをしてもいいくらいには好かれているのか。
と、ぼんやり考えていた伊都だが、恋愛初心者で真面目な環がそこまで許してくれているという事実にやっと突き当たると、さすがに崩れ落ちそうになった。
甘い言葉あそびのつもりだった。環もそのつもりかもしれない。その合間に、熱烈な告白を受けた気がする。
その後も甘ったるい空気を残したままデートは続いた。指の腹をなぞって怒られたり、耳の形を褒められて照れたり、誰がどう見ても出来上がったばかりのカップルに見えただろう。伊都自身も、一日が終わりすっかり暗くなる頃には本物の恋人のような気持ちになっていた。
アパートが近づくと、夢から覚める覚悟が必要になった。
環を部屋に帰せば、全部なかったことになる。それは寂しい。繋いだ手の熱を、伊都は信じたい。
勇気を出すべきだ。絶対に。いまだ、という気持ちはある。振られてしまったら泣くかもしれないけれど、このまま終わってしまうのは嫌だと思う。
階段を登り、たどり着いた四階の部屋で、伊都は覚悟を決めて口を開きかけた、が、先に口を開いたのは環だった。
「あの、今日はありがとうございました。なんか俺、食ってばっかりだったけど、すごく楽しかった、です」
「……うん。おれも楽しかったわ。食わせてばっかですまんかったなぁ……どうしても、うまそうなモンみると、食ってみたなんねや。職業病っちゅーやつかなぁ。でもマキちゃんも公園でめっちゃロケハンしてはったな」
「その、つい、使えそうなスポットだったから、興奮して……あ、夕飯の中華、マジで美味しかった。また行きたいです」
「ん。んじゃまた誘うわ。マキちゃんの仕事がおちついたらゆずちゃんも誘って行こか。……マキちゃん、あのー……それ、やめや。その気になってまうから」
自室の玄関先に立った環は、先程から伊都の顔を見ない。その代わりに、伊都のシャツのボタンをカツカツと指で弄ぶ。
くすぐったいし、かわいいからやめてほしい。帰りたくなくなる。そう思って諌める伊都の下から、思いもよらず真剣な声が這い上がる。
「……その気になったら、デート延長してくれるんですか?」
「………………それ、あー……本気にすんで」
「うん。……俺、今日一日、ひとつも嘘言ってないですから」
甘い言葉が伊都の耳に届く。
勇気を出すつもりでいたのに、環に先を越されてしまった。失態だ。けれど自分の失態などどうでもいい、今は、それどころではない。
するりと環の部屋に招かれて、後手でドアを締めてから目の前の青年の顎に手をかける。
カメラが仕込まれたメガネを先に外して、さっさと環のカバンにつっこむ。さすがにこれから先の事は、思い出だとしても録画してほしくはない。
唇が重なる。先に歯を磨いた方がよかったかな、と余計なことを考える。それも、濡れた舌が絡むとどうでもよくなった。
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