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◆11
たぶん伊都は、キスがうまい。
「……っ、……ふ……」
ぬるり、と動く舌が環の歯をなぞり、唇を何度も甘く噛まれて腰の力が抜ける。どこを掴んでいいのかわからず宙に浮いていた手は、いつのまにか伊都の背中にすがっていた。
「…………マキちゃん、おれの首掴んでええよ。しんどいやろ」
「無理、ダメ、俺、わりと力あるから伊都さん折れちゃう……」
「いや折れへんて。おれの身体どんだけもやしやねん。……いま、ええ感じに加減できひん。理性ぶっ飛んどるわ。せやから息しんどなったらちゃんとアピールしぃや」
やめてあげられへんから。
低めの声が耳に満ちて死にそうになる。欲情を隠さない伊都の声は、そのまま環の劣情を煽る。
「あー……あかん、かわええ、むり……」
貪るようなキスの合間に、伊都からこぼれるのは甘すぎる言葉だ。
今日一日、徹頭徹尾伊都は優しく甘かった。
デートやから、と言いながら手を繋ぎ、映画を観て食べ歩き、口説くような言葉を並べ立てた。
どこまでが練習なのだろう。どこまでが嘘なのだろう。
全部嘘だったらキツい、と思う。どれか一つでも嘘なら悲しい。全部、今日の伊都の全てが本当だったらいいのに。
明日になったら友達に戻ってしまう。それは嫌だ。
この人が好きだ。そう思ったから環は手を伸ばした。
絆されて欲しい、くらいの気持ちだった環は、まさか伸ばした手を思いっきり全力で握り返されるとは思っていなかった。
何度も舌が絡み、息が苦しくなる。言われたとおりに首に腕を巻き付けた環は、気がつけば廊下の壁に押し付けられていた。
名残惜しくやっと唇を離した伊都は、細く長い息を吐く。震える息はひどく熱い。
「あんな、たぶん、ずっと最初から好きやったわ。会ったときからええ子やなて思うて、ずーっと好きで、だからおれ今、結構いっぱいいっぱいであたまパーンてしてんねや……」
酸欠でぼうっとする頭に甘い言葉がじわじわと浸透し、指の先まで痒くなる。
知らなかった。本当にそんなふうに想われていただなんて露ほども知らなくて、環は朦朧とした頭で『夢かな?』と思い始めた。
「……マキちゃんいま『夢かもしらんな』て思っとるやろ……」
「ふふ。バレてた……」
「夢のわけあるかちゃんと聞きや。こちとら一世一代の告白やで。……夜景の見えるレストランとか予約したら良かったか……?」
「え、いや、それはちょっとキスできないんで嫌です。てか、その、場所なんてどこでもいいです。伊都さんが、そのー……好きって言ってくれるなら、どこだっていい。嬉しい」
「ほんま? 流されただけやなくて、ほんまに? ええの? 今おれ、結構本気なんやけど……」
「俺も本気です。じゃなきゃ誘いません」
「せやな。マキちゃんやもんな。その、なんちゅーか、真っ直ぐでお堅いところが大好きやねんなー……」
「……伊都さん、すごい好きって言いますね……」
「好きやもん。言うてええてわかったらそら言うわ」
「俺も好き」
自分は山ほど言うくせに、環の告白に伊都は言葉を詰まらせへなりと崩れ落ちる。
肩に乗った額が熱くて可愛くてずるい。
「はー……マキちゃん、絆されてくれへんかなぁと思っとったけど、いざええよって言われるとこう、……なんやこれ、恥ずいわ……」
「わかります……伊都さん、あのー……お時間、大丈夫だったら座って、話しま……あっ!?」
伊都の手を取り部屋に招こうとした環だったが、唐突に声を上げて固まる。
すっかり忘れていた。そもそも環は、伊都を招くつもりなどなかったから、忘れていたというよりも気を抜いていたのだ。
いま、環の部屋は人を招ける状態ではない。
「どないしたの」
「え、いや、あの、ちょっとまずいこと思い出しちゃって……」
「うん? ……ああ、マキちゃん疲れとる? 明日も朝から仕事やろしなぁ、おれがお邪魔したら良くな」
「ちっがいます疲れてないですすごい元気です! あのー……違くて、えーと、いま俺の部屋、ちょっとやばい状態っていうか、あんまりこう、恋人を招ける状態じゃないっていうか……」
「こいびと」
「……違うの?」
「恋人やね。うん、恋人です。ふふ」
「伊都さん、いちいち可愛いですよね……」
「こっちのセリフや。でもなんやの、マキちゃんのお部屋、この前は綺麗やったで? あんま生活感無くて逆に怖いくらいだったわ。なんやの、エロ本でも転がっとんの? べつにおれとちゃうタイプの男の雑誌落ちててもムキィってせんよ? たぶん」
「たぶんかー……いや、そういう雑誌とかじゃなくて、……うん、まぁ、いっか。引かないでくださいね?」
ほんとうに引かないでくれたら嬉しい。まさか伊都がこんなことで愛想を尽かすとは思っていないが、それにしてもいまの環の部屋の中は異常だった。
正気に戻らないでほしいなぁ、もうすこし甘やかされていちゃつきたい。
と思いながら招いた室内は、洗濯物——色とりどりの女性用ランジェリーが所狭しと吊るされていた。
赤、ピンク、黒、水色。目に鮮やかなレースとシルクの派手なブラジャーとパンツが、鮮烈な光景を作り出す。
「………………」
「……あの、伊都さん、違くて、その」
「…………あ、そっか、こういうのもメーカーさんやら監督さんが揃えんのやなぁ……せやな、衣装みたいなもんやな」
「うん、そう、そんでADとかが持ち帰って洗濯するんです……」
「びっくしたわぁ……マキちゃん、こういうの着るの趣味なんかとおもたわ。べつに着てもええけども」
「着ません。すいません、落ち着きませんよね……? 伊都さんの部屋行く……?」
「いやええわ。おれの部屋の方が仕事部屋気分で落ち着かんと思うし。鍵渡してあるからゆずちゃん勝手に入ってくるしなぁ」
「気ぃ散らない? 大丈夫?」
「んー。びっくりしてちょうどええ感じに落ち着いたわ。頭がぐわーっとしてパーンして勢いでめっちゃチューしてもうたし、あのままやったらベッドに雪崩れ込んで服ひん剥いてたかもしらん」
「……べつに、ひん剥いてもらってもいいですけど」
「マキちゃん明日から忙しいんやろー無理はようないと思いますー。そこ座ってええ?」
吊り下げられた女物の下着や水着やベビードールを避けながら、伊都は器用にソファーベッドに腰を下ろす。
こういうとき、どうしたらいいのか本当なわからない。飲み物を出すべきか。ビールは飲まないだろうから炭酸かなにか……と思っていた環の腕を掴み、伊都は目を細めて笑う。
「ほらマキちゃん、おいで」
……頭が冷えて落ち着いた男の言動として正解なのだろうか。
通常モードでこの甘さだとしたら、明日からの環の人生は糖度が跳ね上がりそうで怖い。
抵抗できずに招かれ、向かい合う形で膝の上に座らされる。薄暗い廊下とは違い、しっかりと伊都の顔が見えてしまう。タイプではないのは本当だ、けれど、環はこの顔が世界で一番好きだと思う。
「…………頭冷えたのにこの体勢なんです……? 相当浮かれたかっこうじゃないですかコレ……」
「ええねん。おれは好きな子を膝に乗せたいねん」
「俺、結構重いですけど」
「知っとる。筋肉ついとるし。せやけどこの体勢ええやろ? チューし放題やで」
「……確かに」
誘われるように笑われて、抵抗などすっかり忘れてキスをした。
何度しても慣れる気がしない。唇が触れるたびに身体が熱くて笑えてくる。そういえば現場で山ほど見ているものの、実際にキスをするのは初めてだ。
見よう見まねでどうにか伊都に縋りついているものの、これで合っているのかよくわからなくなってくる。
変じゃないだろうか。伊都はちゃんと楽しんでくれているだろうか。素直に口に出して訊けば、目の前のイケメンは甘い顔で笑った。
「合ってるかはわからんわ。おれも、あー……何年ぶりにしたかわからんし。せやけどマキちゃんキスうまいと思うで? 息継ぎうまいし、お顔もエロいし」
「え、興奮してくれてるんです? 本当に?」
「そらするわ、めっちゃ悪戯したい気持ち抑えてんねやで」
「してくれてもいいですけど。……俺そういうのマジでしたことないから、あの、それこそ、うまくできるかわかんないけど……」
「ほんま隅から隅までかわええなぁ、その目ぇ伏せるのおれの前以外でやったらあかんで。かわええ。あかん。せやけど我慢しとく。マキちゃんの仕事が落ち着いたらベッドに引き摺り込むわ」
「…………仕事がんばる……」
「ふは。照れた顔もかわええなぁ……かわええがゲシュタルト崩壊しそうやわ。おれでできる事なら手伝うし、愚痴も聞くし、メシも作るから思う存分甘えてや。おれ、そんくらいしかしてやれへんし」
「伊都さんはそこにいてくれるだけで俺のテンションが上がるから存在してるだけで価値あります」
「……キミ、そんな熱烈なキャラやったか?」
少し照れたように見上げてくる伊都がかわいい。しっかり理性を持っているはずなのに、触れる手つきは甘ったるくてぞわりと良くない感覚が這い上がる。
悪戯気味な手を掴んで拘束して、熱烈ですよと笑う。
「もしかしたら初恋かもしんないです。……好きかな、みたいな気持ちはいままでなかったわけじゃないけど、好きな人に好きって言ってもらえたのは初めてですから」
「…………マキちゃん、あれやね……そのはにかんだときの顔、世界で一番かわええな……?」
「褒められるのは嬉しいけど、伊都さんはちょっと落ち着いた方がいいと思います。かわいいって言い過ぎです。明日からももしかしてそのクソ甘いテンションなんです……?」
「うん。おれ基本好きになると他見えへんもん」
「甘やかされすぎて堕落しないようにがんばります……」
というか、環の事が好きすぎる伊都が心配になる。大丈夫かなぁ、理性はあるみたいなんだけど頭の中に花飛んでそうなんだよなぁ……と思うものの、膝の上から退こうとしない自分も大概浮かれている。
明日から、本当の修羅場が始まる。
最悪帰って来れないし、場合によっては職を辞す未来につながるかもしれない。何もかも未知な仕事に加え、今回の上司は瀬羽ではなく、誰もが近づきたくないパワハラプロデューサーだ。
瀬羽も、佐塚もサポートを申し出てくれている。申し訳ないが、頼ってしまうと思う。まだ自分は、全てを一人でこなせるほど自信がない。
きっと、伊都にも寄りかかってしまう。けれど伊都は、お世話したいねや、と笑ってくれる気がした。その、大らかで怖いくらいの優しさに甘えてしまうことだろう。
「伊都さん」
「んー。なに?」
「仕事、片付いたら、もっかいデートしてください。俺、焼肉食いたい」
「ええねー男子っぽくてグッとくるわぁ……そんならうまいとこ探しとこうかな。……家で焼いてもええけどなー」
「え、ホットプレート持ってるんですか?」
「ホットプレートもあるけども、焼肉プレート持っとるで。カセットコンロ用のやつ」
「……なんで……?」
「まぁ、うん。……もうちょい前は大所帯だったからなぁ」
そう言えば伊都はたまに、柚葉以外のスタッフの話をする。だが一度も見たことがないその人たちの話をするとき、いつも気まずそうに目を伏せた。
言いたくない話なら、環にだってある。わざわざ悲しい思い出を掘り返さなくてもいい。
「じゃあゆずちゃんと、俺の先輩も呼びましょう。キャンプとか死んでも行きたくないって言ってましたけど、自宅焼肉ならたぶんホイホイできると思います!」
「え。……まぁ、その、おれは、マキちゃんの上司さん、ちょい気になるけども。二人きりやのうてええの?」
「いちゃつくなら二人がいいです。でもご飯は、みんなで食べた方が楽しいと思う」
笑った環に対して、呆然としていた伊都はすぐに思い出したように微笑み、せやなぁと言って照れ隠しのようなキスをした。
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