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「えっとそれじゃ行ってきます……! あ、鍵、帰りに取りに行くんで伊都さん持っててください! たぶん終電で帰って来れる、……はず……っ」 「いや無理せんでええよ、そら顔見て安心してから寝かしつけたい気持ちはあるけども。適当に片付けてから下戻るわ。マキちゃん、忘れもんない? 握り飯持ったか?」 「持った! ほんと朝からありがとうございます……!」  ええよーと手を振る伊都の前で、バタバタと支度を整えた環は忙しなくドアを開けたものの、すぐに閉めて戻ってくる。  忘れ物だろうか。いつものなんでも入っているボディバックはきちんと背負っているが。  小首を傾げる伊都の前まで戻ってきた環は、その手をぎゅっと掴むと少し背伸びをする様に勢いよくキスをした。 「…………今度こそ、いってきます!」  これは、世に言ういってらっしゃいのキスというやつではなかろうか。  伊都がそう理解したときにはすでに環の姿はなく、ただ一人でへなへなと壁に保たれて崩れ落ちた。  冷たい壁の感触が心地よく、己の熱が容易に上がっていたことを知る。 「……なんやのあれー……かっこよ……すき……」  主人のいなくなった401号室で、伊都はしばらく骨が抜けた屍だった。  昨日は人生の転機イベントが山盛りすぎてまだ、現実感がない。  環の手を取り、デートと称して好き勝手連れまわした。素直な青年は何を食べても美味しいと笑い、どこに行っても大らかに楽しんでくれる。ええ子やなぁ好きやなぁかわええなぁと散々思っているうちに日は傾き、名残惜しく解散となる予定だった。  今思い出すと少し悔しい。結局勇気を出して言葉を告げてくれたのは環の方で、伊都はありがたく差し出された手を掴んだだけだ。  訳がわからないほど幸福で、昨晩の記憶がぼんやりとしている。  かわいいと言いすぎて途中からNGワード扱いされたことは覚えているが、潜り込んだベッドの中で口説きまくったのは夢だったのか現実だったのか、どちらだろうか。ちょっとだけ、と誘われて理性を保てずに少々手を出してしまったのは残念ながら現実だろう。 不甲斐ない、しかし環が可愛かったので仕方ないと思ってしまう。 (……ダメな大人やなぁ)  よろりと立ち上がると頬を叩いて理性を呼び戻す。  いつまでもぽやぽやしているわけにはいかない。ほぼ在宅ワーカーのような生活をしている為、自由になる時間は比較的多いものの、暇というわけではない。働かなくては食っていけない。 「……ま、そんな急がんでも死なへんか」  それでも、珈琲を飲み部屋を片付ける時間くらいは取っても良いはずだ。  ほぼ始発で出勤した環を送り出し、まったりと自分の珈琲を淹れなおしてパンを齧る。好きに食べて飲んでいいですから、という言葉をありがたく受け取り、伊都はゆっくり朝食を取った。  後でパンを補充しておくことを忘れないように、携帯にメモする。ついでに今日作るメニューを考えていたらあっという間に陽が昇り出し、気がつけば九時をすぎていた。  そろそろ降りるか。そう思ったものの、釣り下がっている下着のジャングルが気になって仕方ない。  結局全て取り込んで、畳んで重ねていたとき、放り投げてあった伊都の携帯が鳴った。 「月曜の朝から誰やねん…………ゆずちゃん?」  環が本当に忘れ物をしたのか、と思った。しかし画面に表示された名前は、下の部屋に出勤しているはずのアシスタントのものだ。 「はいはいはい、おはようさん。ゆずちゃんどないしたの、鍵忘れて入れなかっ」 『せんせーーーーー!? いま何処ですかーーーー!』 「……上やけど、どないしたんやホンマ」  耳をつん裂く柚葉の叫びに、思わず携帯を遠ざけて眉を寄せる。ご近所迷惑やで、という言葉を遮って、柚葉はあわあわと言葉を並べた。 『ゆ、ゆうびん、かきとめが届いて……っ』 「書留? なんや、おれのサインが必要ってことか?」 『それはもういいです……! 事務所宛だったんで、わたしが代筆しました、そんなことより中身ですよ……っ、せんせ、いつもめんどいから全部開けてえてよって言ってたから、その、あけちゃったんですぅ……っ!』 「別にええよ。届いて恥ずかしいモンなんか通販せんし。で、その書留がなんかトラブルなんか?」 『トラブルもトラブルでトラブルすぎます! いますぐ帰ってきてください! これ、辞めた梨江ちゃん先輩からの慰謝料請求の内容証明です〜〜〜ッ!』 「……………はぁ?」  何を言われたのか、さっぱりわからない。頭が言葉を理解してくれない。  ただ泣き出しそうな柚葉の声だけがやけに耳に痛く、伊都の内心を掻き乱した。のっそりと、重くて暗い感情が腹の奥に芽生える。  ずしり、ずしり、それは時間がたち、伊都があれこれと思案するにつれ確実に重く大きくなった。 「……ゆずちゃんとりあえず落ち着き。いますぐ行くから」  畳み掛けの下着を放り投げて、環から預かった鍵を掴む。慌ただしく鍵だけしっかりかけると、その勢いで階段を駆け降りた。  織笠梨江は伊都の元アシスタントで、二十五歳の独身女性だった。  化粧っ気のない地味な印象だけが残っている。我の強いスタッフの中ではいつも静かに苦笑していた。柚葉を含め皆言いたいことを勝手に叫んでいるような職場だったので、必然的に伊都は梨江を気遣いフォローすることも多かった。  別に個人的に梨江を贔屓していたわけではない。なんとなく大人数が集まった場にいると、均衡を保とうと努力してしまう癖があるだけだ。  とはいえ、特別な思い出も碌にない人物だ。  男性スタッフの清水直と、主婦スタッフだった有坂ルリ子が肉体関係を持ち有坂の配偶者を含めて泥沼になっていた、ということが発覚しても、柚葉と梨江には関係のない話だった筈だ。伊都はそう思っていたのだがしかし、清水と有坂が辞めたタイミングで、梨江もひっそりと顔を出さなくなった。  どうも柚葉が言うには、清水は梨江にも手を出していたらしい。  狭い職場内で泥沼二股不倫劇が繰り広げられていたことを、伊都は一切知らなかった。あまりにも人を見る目がない。自分の交友関係のひどさに眩暈がする。  しかし、伊都個人が織笠梨江に対して恨まれるような事柄は、どう考えても全く思い当たらない。  慰謝料とは、精神的苦痛に対して支払われる損害賠償金だ。  梨江が精神的に苦痛を受けたとしたら、相手は伊都ではなく清水ではないのか。  そもそも相手を清水と仮定しても、『辛かったのでお金を払え』と請求できるものではない。今回の件で言えば、婚姻関係があるにもかかわらず不貞を働かれた有坂ルリ子の配偶者がルリ子、清水の両名に慰謝料の請求をすることは可能だろう。  だが清水と梨江はどちらも独身で、法律的な家族関係もない。そして結局ここに戻ってくるのだが、彼らの泥沼恋愛劇に、伊都は一切関わっていないのだ。 「なんやの、ホンマ……」  急いで駆け降りた自室にたどり着いた時には、吐きそうなほど憂鬱だった。  嫌なことには蓋をしたい。見なかったふりをしたい。けれどそうやって現実から逃げていられるのは子供だけだ。伊都は大人だ。個人事業主だ。わからない、知らない、見たくないというわがままで何もかも放り出すわけにはいかない。  伊都個人が破滅するだけならまだしも、バイトとはいえ柚葉の人生も左右してしまうのだ。 「ゆずちゃん、なに、梨江ちゃんが何しはったて……ちょ、大丈夫かいな!?」  玄関先で座り込んでいた柚葉に、慌てて駆け寄り顔を確認する。とりあえずは泣いていない。だが、顔色がひどすぎて笑えない。 「せんせ〜〜〜オエッてします〜〜〜なんか色々考えちゃって気持ち悪くなってきました……人間怖い……おんなのひとこわい……」 「とりあえず深呼吸しぃや。それ、届いたっちゅーやつか? ちゅーかなんでやねん。おれ、金請求されるようななんかをした記憶ないねんけど」 「わたしもわかんないです〜〜〜ルリ子さんなら、まぁ、そういうのしそうだけど、えー……梨江ちゃん先輩、なんか気がついたら居なくなってませんでした……?」 「せやなぁ……無断欠勤続いて心配なって連絡したらもう行きません言われたわ。たいした金払えてなかったからなぁ、気まずい職場で頑張りたくないなら仕方ないわーて思とったけど、慰謝料てなんやねん」 「……なんか、ええと、パワハラ? があったとか書いてありますけど……」 「いやいやいやしてへん。してへんわ。え、おれそんなんしてへんよな!?」 「むしろイト先生は梨江ちゃん先輩に甘かったと思いますよぅ……先生、全人類に甘いですしぃ……」  伊都はそこまで自分のことを優しい人間だとは思っていないが、決して厳しく他人に当たる性格ではないことくらいは断言できる。  柚葉が握りしめている内容証明を奪い取り、ついでに柚葉を抱えあげてベッドに座らせる。この部屋には仕事用の椅子とテーブルとデスクしかなく、ソファーのように寛げるスペースはない。 「……しっかり弁護士から来とるやんけ。ガチのやつやん」  おおごとになってきた。キリキリと重くなる内臓を慮り胸を摩る。伊都も柚葉も、二人とも酷い顔色だった。 「あのぅ……わたし馬鹿なのでよくわかんないんですけど、慰謝料? って、裁判とかで払いなさい! って言われるやつじゃないんですか? 先生、裁判されちゃうの?」 「あー……いや、これは裁判のお知らせちゃうよ。あくまでこういう理由で傷ついたから金払えやオラっちゅー督促やな。これを無視したり蹴ったりしたら向こうが訴えて、そっから裁判になる……んとちゃうかな……? いやおれも詳しくないねんけど」  身の回りで裁判やら慰謝料やら、実際に揉めていた人物はいない。料理に使うからと購入している新聞をざっと読む程度の伊都には、民事の争いごとの知識などほとんどなかった。  こういうものは、いざ己が当事者になりその時に調べて初めて知るものなのだ。 「とりあえずおれ単品じゃわからんわ。正直これもろてその後どうしたらええかもわからん。えーと、弁護士……か? 無料相談とかって予約いるんかな」  検索して出てくるだろうか。月曜日などどの職場も忙しく予約は埋まっていそうなものだ。  携帯片手に唸る伊都の目の前で、柚葉はぽすん、とベッドに横たわる。 「……なんか、すごい、疲れちゃいました……郵便屋さんが来るまではすっごいハッピーだったのにー」 「なんや、ゆずちゃんなんかええことあったんか?」 「わたしじゃなくてイト先生ですよ〜〜〜イト先生が午前中に外出してることなんか稀なんだから、絶対にお泊まりだって思ってたんです〜〜〜! 昨日はデートだったじゃないですか! それって! もう! おめでとうございますってことですよね!?」 「お、おん。……ええと、まぁ、たしかにそういうコトやけど……」 「ほらぁー! もう、絶対ニコニコしてお祝いする気でいたのに!」 「……ゆずちゃん、恋愛とか興味ない子やろ?」 「自分が恋愛しないだけです。羨ましい〜とかも思いませんけど、大好きなお兄さんの恋が実ったらわたしだってハッピーです! それはそれ、これはこれ、祝い事は祝います! 先生だって結婚願望なくても友達が結婚したらおめでとう〜ってなるでしょ!?」 「はぁ。まぁ、うん。せやな。なるわな」 「わたしの幸せと先生の幸せは別です。別だけど、先生が幸せだと嬉しいんです」  おめでとうございます、と小さくつぶやく声が聞こえる。書面と携帯の画面を見つめたまま、伊都も小さく年下の友人の祝福に答えた。 「……あんがとうな。ゆずちゃんに、そう言ってもらえるとなんやこう、あー……」 「…………先生、泣いてる?」 「泣いてへん、です」 「泣いてるじゃないですかぁ……相変わらず涙もろいですよね……」 「うっさいわ。心の汗が滲みやすい体質なんや。……泣いてばっかのおれは愛想尽かされてまうかなぁ……」 「いえ、大丈夫だと思います。環先輩は多分そういう可愛いイト先生のこと可愛いとしか思ってないと思います!」 「……そうなん……?」 「はい!」  元気に断言されてしまった。  そうなのだろうか。書状ひとつで慌てるような頼りない大人でも、環は受け止めてくれるだろうか。  ふと脳裏に浮かんだ顔とともに、そういえば彼はいささか特殊な業界で働いていたことを思い出す。  環は今日から忙しい。それは重々わかっているが、仕事の邪魔にならない程度にメッセージを残すくらいはしてもいいだろう。今の伊都は藁をも縋りたいし、可能性があるならどんなツテでも当たりたい。  環が帰ってきたら、弁護士に知り合いがいないか訊こう。疲れているタイミングで申し訳ないと思うものの、ほったらかしするわけにもいかない。 「っあー……見栄張っとる場合やないか……—ーッヒ!?」  ため息を吐いたタイミングで唐突に、手にしていた携帯が伊都の手の中で唐突に震えた。  ポップアップで表示されるのは、SNSの通知だ。普段は大して鳴らないそれが、堰を切ったかのように連続して表示される。  いいねやRTの通知は切ってある。伊都の携帯に表示されるのは、全て誰かからのメッセージ。ぶつけられる言葉だ。  一体何ごとだ、と慌てて目を落とした文字列には、あからさまに侮辱するような言葉があった。もちろん伊都は、誰かに喧嘩を売られるような物騒な投稿をした記憶はない。昨日も今日も、SNSなどほったらかしだった。 「いやいやいや……なんでおれ急に燃えとんのや。次から次に、ほんまなんやの……!」  久しぶりに荒げた伊都の声に、答えてくれるものはいなかった。

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