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 深夜に帰宅した環は、自室の廊下に鎮座する少女に出迎えられると、さすがに一瞬固まったようだ。 「び、っくりしたぁー……え、ゆずちゃんそんなとこで何してんの……?」 「おかえりなさいませ環先輩! お仕事お疲れ様です!」 「気にせんでええと思うで。ゆずちゃん、せんせーはわたしがまもるっちゅーてそっから一歩も動かへんのや。さすがにクッションだけは敷かせたけども」  だらり、とソファーベッドに座ったまま口を動かすものの、伊都は柚葉ほど元気に喋る気力はなかった。  疲れた。こんなに疲れることがあるのかというほど、とにかく疲労困憊していた。眠ってもうなされるだけだし眠りも浅い。ふらつく頭をどうにか支えているものの、目の下の不健康なクマは隠せない。  おとといは慰謝料や弁護士やネット炎上についてひたすら調べ、昨日は環の上司の紹介で民事訴訟に詳しい弁護士に話を聞きにいった。  同行してくれた瀬羽は、見た目の割に気安い男で助かった。普段の伊都ならば人見知りなくたいがいの人間に合わせることができるが、今は他人に気を遣える自信がない。  時間が取れないとかで最初の三十分で帰ってしまったものの、弁護士事務所など足を踏み入れたこともない伊都にとっては充分ありがたい同行人だった。  今日はその瀬羽も顔を出すと聞いていたが、ドアを開けたのは環一人だ。 「おつかれマキちゃん。先輩さんは?」 「あ、今下の部屋見てます。なんか気になることがあるとかで……伊都さん、大丈夫?」 「あー……まぁ、生きてはおるよ。腹は空かんけど、定期的にゆずちゃんがメシ突っ込んでくるしなぁ。おれ元々出不精やし、セルフ軟禁自体は問題ないねんけど、携帯震えるたびに若干胃が痛いわ……」  唐突にまったく身に覚えのない慰謝料を請求され、同時にまったく身に覚えのないスキャンダルでネット炎上した。以降、さすがに人間不信気味だ。  見ないように、と思っていても過去の知り合いや仕事相手などからも時折不躾な言葉が届く。多くは伊都の無実を信じるような激励とはいえ、何も解決していない今、声をかけられること自体がストレスに近い。  かといって連絡手段である携帯の電源を切るわけにもいかず、結局伊都の携帯は柚葉に取り上げられてしまった。大事な要件の時だけ先生にお繋ぎします! と意気込む少女に、何度救われたかわからない。  人前に個を晒す仕事だ。  肝心なのは料理の腕だと言うのは理想で、現実は見目も含めた人気商売だ。  伊都個人のイメージダウンは、イトメシチャンネルの人気に直結する。今は炎上の影響で一時的に再生数が伸びているが、比例して低評価や心無い書き込みも増えていた。 (おれが何したっちゅーねん)  鬱々と一人思い返してみても、決定的な心当たりはない。  幸いなことに梨江に関しては弁護士同士が話し合いを持ってくれることになった。引越しのために貯めていた金が飛んでしまうが、背に腹はかえられない。  撮影環境が悪くても、何度も撮り直せばいいだけだ。子供が泣き止むまで待てばいい、ギターと歌が終わるまで皿洗いでもしたらいい。回避すべきは、伊都と柚葉が職を失うことだ。 「伊都さーん。眉間にシワ寄ってます」  いつのまにか隣に腰掛けていた環に、覗き込まれて苦笑される。  仕事帰りで確実に疲れているはずなのに、環は伊都の手を取って最大限気遣ってくれる。伊都には勿体無いほどの理想的な恋人だ。 「……アカンわー、考える時間があればあるほど鬱々としてまうわー」 「じゃあ俺と話してましょ。あ、てーか、今日わかったことからお話ししていいですか? ちょっと憂鬱な話題なんで、先にパパーっと終わらせちゃいたいし」 「わかったこと?」 「はい。あのー、仕事合間にこの前の日曜日の映像を確認してみたんですよ。ほら、俺ピンホールカメラで色々記録してたじゃないですか」 「ああ……せやったな……」  当日の幸福度が振り切れていたせいで、環の笑顔と可愛さと繋いだ手の汗ばんだ感触くらいしか思い出せないのだが、言われて思い返せばそんなオプションもついていた。  撮影禁止と思われる飲食店や販売店などでは外していたが、外にいるときの環は基本的に小型カメラ内蔵のメガネをかけていた。  ロケハンの代わりだと笑う環の職業病とも言える行動は、若干引いてしまってもよさそうなものだが、伊都は『真面目やねぇ』と好意的に捉えていた。恋など、落ちてしまえば息をしているだけでも愛おしいのだから仕方ない。  思わずあの日の環の可愛さを思い出しそうになるが、慌てて気持ちを現実に戻す。憂鬱な、と前置きしたということは、うかれるような話ではないはずだ。 「SNSに貼っつけられてた写真、あれって日曜日のデート最中のやつですよね。俺がちょっと新しいホテルの外観見たいって言ったときのやつ」 「あー……せやったねぇ。インスタで人気やから見てみたい言うとったやつな。そないな人気のタピオカドリンク店寄りたいねんみたいなライトさで……? ておもたわそういえば」 「インスタ映えするラブホは気になりますよ! ちょっと思ったより個性的だったから撮影に使ったら一発でバレそうだし保留にしましたけど! いや俺のロケハンはどうでもいいんですえーと、それで、もしかしたら俺の撮った映像の中に、盗撮犯がいたりしないかなぁーって思って……」 「え、まさかおったの? マキちゃん、盗撮犯を逆盗撮しとったの?」 「盗撮犯かはわかりません。けど朝から晩まで、至るところで同一人物と思われる女性が映像に映っていました。尾行ってほど物々しい感じじゃないですけど……ほら、これです」  そう言って環がタブレットで示した画像は、五枚。  街を歩けば五人に一人くらいの確率で着ていそうなありきたりな流行りのトップスに、スカート。なんの変哲もない普通すぎる顔立ち。  黒縁の眼鏡のせいでしばらくわからなかったが、伊都はその人物に見覚えがあった。 「……いやこれ、梨江ちゃんやんけ……」 「え、マジで? 織笠梨江さん? ……伊都さんにパワハラ慰謝料請求してきた、あの織笠梨江さん……?」 「その織笠梨江ちゃんにしか見えんわ。ゆずちゃんちょっと、もう門番はええからこっち来ぃや。ほら、これ見てみぃ。誰やかわかるか?」 「……梨江ちゃん先輩、です。なんか髪の毛の色違いますけど……こんな服着てるの見たこともないけど……」 「ほらな?」 「……この女性が織笠さんだとして、えーと、じゃあSNSの盗撮写真も彼女が投稿した、もの?」  そうなのだろうか。そうだとしたら、梨江にはどういう意図があったのだろうか。  他人の考えていることなど、聞いてみないことにはわからないことばかりだ。けれど織笠梨江が伊都に対して明確な悪意を持っていることは確実だろう。  ぐるぐると考え込むと、胃の辺りが重くなる。  息を吐く。どうにか気持ちを立て直す。  黙り込んだ伊都を心配してか、環が口を開きかけたとき。 「ッシャオラ! 収穫だぜ!」  唐突に部屋のドアが開き、無遠慮気味に登場したのは環の上司である瀬羽だった。  部屋にいた三人が、猫のように飛び上がる。心臓を抑える伊都の横で、環は割合本気で迷惑そうな声で瀬羽を嗜めた。 「いや瀬羽さんあの、静かに。扉は静かに開けてください、結構ど深夜なんで」 「あぁ? いーだろ隣居ねーんだろ、下も辻やんの部屋なら問題ねーだろ」 「普通にうるさ…………辻やん……?」 「……なんだよ。だって柊也おめーあれじゃねーか、彼氏の下の名前呼ぶと微妙な顔してくんじゃねーかよ……」 「しませんよ! たぶん! ちょっと凝視するかもしんないけど!」 「オレァ凝視されたくねーんだよ。いーからさっさと要件終わらすぞってことで大収穫だ。褒めてもらってかまわねぇぜーほいこれ」 「……なんすかこれ」 「あ? おまえ、見たことないの? 何って決まってんだろ盗聴器だよ」 「…………は!?」  誰のものともわからない驚愕の声が重なる。  それはあまりにも耳慣れない、自分とは関係ない世界の言葉に聞こえた。  盗聴器。盗撮。慰謝料。内容証明。ネット炎上。映画か小説じゃないのかと笑えるような非日常ばかりが、一気に押し寄せてきて流されてしまいそうだ。 「えっ、瀬羽さん、あの、……盗聴器? ってそんなさくさく見つかるもんなんすか……」 「見つかんだよ。つーか盗聴盗撮はストーカーの基本のキの字だろ。まぁ、オレが見つけらんなかったやつがまだどっかに残ってるかもしんねーし、しばらくはあの部屋使わねー方が無難だな」 「……誰が、そんな、盗聴なんて。伊都さん、心当たりあります……?」 「えええ……心当たり、て言われても、あー……いや、わからん、悲しいことしかわからん……」  何から何まで、寝耳に水すぎることばかりだ。  呆然とする伊都の前に小さな機械を転がした瀬羽は、頭の後ろをわしわしと掻きながら眉を跳ね上げた。 「ま、自室っつっても職場扱いだったんなら、人の出入りも激しかったわけだろ。今更特定すんのは難しいだろーが、弁護士先生にご報告はしといた方がいいだろうな。この部屋はまぁ、平気だろ。……一応ホテルとかに避難しとくか?」 「あー……うん、せやな……いつまでもマキちゃんの部屋の居候すんのもアレやしなぁ。おれがふらふらしとると、ゆずちゃんも安心して帰れへんみたいやし……」 「わたしは! 好きで! 先生の盾を買ってでてるんですよぅ! でも先生ほんとにしんどそうだから、別の場所でちょっとリフレッシュした方がいいのかなぁって思います……」 「いやほんまようできたアシスタントちゃんで涙出るわ。涙出てきたから台所借りるわマキちゃん……」 「え。いや、構いませんけど、大丈夫ですか?」 「うん。なんやいろんな感情ごっちゃまぜになってきてわけわからんから、ちょお落ち着こかなーと思うて。おれ、メシ作ってるときがいっちばん無やねん。ちゅーわけで夜食作るわ。……こんな時間にメシ食わせてええかわからんけど、男連中は仕事帰りでお疲れやろ。瀬羽くんも食ってくか?」 「まじか。食っていいならありがたく食うぜ! 正直夕飯食ってねぇ! 忘れてた!」 「夕飯忘れてる職場てなんやねん、もうちょいホワイト寄りにしてもらわへんとさすがに心配やわ……」  部屋を出て、キッチンに立つ。  腕まくりをして、ハンドソープでしっかり手を洗う。  慣れない他人のキッチンだが、この数日で器具の場所くらいは覚えた。なんなら足りないものを勝手に運び込んである。  ホテル暮らしだと、不便なのは食事だろう。べつに三食牛丼でもコンビニ弁当でも生きていけるが、料理をする時間がないのは少し不安だ。  キッチンで手を動かしている時が、一番、心が凪ぐ。無心で材料を切り、頭に描いた通りの味になるように考え、配分し、火に遅れを取らないように過程をこなす。好きかと言われたら少し迷う。けれど伊都は、料理を組み立てる時間は気持ちいい、と思う。  セキュリティしっかりしたとこなら、ウィークリーマンションとかでええかなぁ。  値段を優先していのちが脅かされては元も子もないので、この際金のことは考えないことにする。荷造りの算段を考えながらまな板を取り出す。環の家のまな板は、百円均一製の薄いプラスチックの板だ。 「……伊都さん、手伝います」  冷蔵庫から卵を取り出したタイミングで、背中に声がかかった。冷たい卵を環に渡しながら、気を遣ってくれる年下の青年に感謝する。  自分は盗聴されていたことにも、盗撮されていたことにも気づかなかった。スタッフに恨まれていたことにも、スタッフ同士が不倫をしていたことにも。  それなのに年下の恋人とアシスタントは、都度声をかけて支えてくれる。大丈夫ですか。ちゃんと食べましたか。寝ましたか。  環も柚葉も、伊都を慮る言葉ばかり口にする。 「なんか、あれやなぁ……ほんま申し訳ないわ……」  キッチンで環が手伝えることなど限られている。それでも、隣に立ってくれているだけでも伊都の呼吸は楽になった。  思わず口からこぼれた謝罪に対して、ボウルに卵を割り落とした環は首を傾げる。 「え。べつに伊都さんが謝ることないですよ、本当に。だって伊都さん、何にも悪くないじゃないですか」 「せやけど、なんちゅーかこう、おれの人を見る目がないばっかりにみんなに迷惑かけてもうて」 「そんなことないですって。えーと、世の中山ほど人間がいるから、いろんな奴がいます。そんでその中で言葉が通じないヤバいやつに出会う理由なんて、運以外の要素ないですよ。運です。伊都さん個人が悪いんじゃなくて、どシンプルに運が悪いんです」 「……運」 「はい、運です。伊都さんは運が悪いだけです」  そうなのだろうか。  環にさっぱりと断言されると、その言葉の優しさに寄りかかってしまいそうになる。 「山ほどいる人間の中から、最終的に気の合う人が残ればいいと思います。伊都さん優しいから、都度傷ついちゃうかもだけど。えーと……俺でよければ、その、慰めるんで。辛いときとか悲しいときは頼ってほしいです。……若干、頼りないって自覚はありますけどー……」 「何いうてんの。マキちゃんめっちゃ頼り甲斐あるイケメンやん」 「へへ。口だけ野郎にならないように、頑張りますね」  恥ずかしそうに笑う環が愛おしくてたまらなくなり、キッチンに立ったまま軽くキスをした。  環がいてくれてよかった、と思う。  環が上の階に住んでいて良かった。伊都を選んでくれて良かった。柚葉が、スタッフとして残ってくれていてよかった。瀬羽が、環の上司で良かった。  身の回りの人間に感謝していたら、うっかり涙が滲みそうになった。環はともかく、柚葉にまた涙もろいと言われてしまう。 「おっ、カップルがいちゃついてる予感がするぜ〜〜〜」 「予感が! します! いいぞ! もっとやったらいいと思います! え、ていうか先生また泣いてません!?」  ドアから顔を出した外野が、好き勝手に喚く。思わず笑ってしまってから、玉ねぎ切っとんのや黙って待っとけと言葉を投げた。  久しぶりに、くよくよせずに笑えたと思う。  運が悪い。ただそれだけだ、と言われてしまえば、そっかぁ運かぁならしゃーないなぁと納得する他ないのだから。 「……ところで伊都さん、これなに作ってんの?」 「親子丼にしよかなぁと思とったけど、うーん鶏肉ないねんな。ハイカラ丼にしよかな」 「なんすかそれ」 「柔らか卵と天かすの丼」 「え、すごいうまそう。……それ、笹かまぼこ入れたら不味い?」 「いや、かまぼこ入れるレシピ見たことあんで。マキちゃん、笹かまなんて珍しいもん常備しとんの?」 「いや、ちょっと前になんかのお土産でもらったやつを……たぶん冷凍庫にぶっこんだ……と思う」 「せやったらそれもぶっこも。マキちゃん卵しゃこしゃこしといて。調味料ぶっこんでくでー」  部屋から持って上がってきた白だし、砂糖、醤油をすこし。目分量でほいほいとボウルの中につっこみながら、憂鬱を後回しにした伊都はひとときの幸福を噛み締めた。

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