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「スーパーってなんでも売ってるけど、でも季節によって野菜の値段って全然違うんですね」 『せやで。冬のナスなんか目ぇ逸らす高さやわ。夏の白菜もアカン。あの辺はまぁ、なくはないけども、季節モノやなぁ』 「日本のスーパーってもっと季節感ないのかなって思ってた。だいたいなんでも食えるイメージあるし。あの値段差見ちゃうと、キャベツ一個百円に群がる主婦さんの気持ち、ちょっとわかっちゃいます」  軽やかな笑い声が耳に響いて、疲労し切った身体に染みる。ようやく慣れた帰路で交差点に打ち当たっても、伊都の声を聞いているだけで赤信号を恨まずに済んだ。  伊都がウィークリーマンションに仮住まいを移してから、一週間が経った。  瀬羽と佐塚のサポートでさくさくとセキュリティ万全の住居を契約した伊都だったが、契約時に同行していた環の我が儘で、環もついでに同居する運びとなった。防犯カメラとオートロックでは守れないものだってある。というか、単純に伊都を一人にしておくことが不安だった。  弁護士に任せた慰謝料の件は、地道に進展しているようだ。織笠梨江の弁護士は彼女のことを信頼していた様子だったが、パワハラなど一切ないという伊都の主張を聞くと、再度本人に確認すると名言してくれた。伊都が提出した撮影動画のカット部分ーー皆で和気藹々と片付けをしている動画のおかげかもしれない。何点か残っていた動画内では、ルリ子の強い言葉をフォローしたり、清水のセクハラスレスレの冗談を軽く諌める伊都の姿が映っていた。  さすが伊都さん、普段の言動が聖人すぎる……と若干引きつつも惚れ直した環だったが、ネット炎上の方はあまり芳しくない状態だ。  一応セクハラの噂に関しては事実無言であることは明言したものの、訂正や反論の発言はそれほど拡散されず、今も『好きだったのに、ショックだ』『もう一生見ない』などの心無いコメントが届く。疑惑を投げかけることは簡単だ。それが無かったことを証明するのは、ひどく難しい。  挙句、どこかの炎上系インフルエンサーがLGBT関連でいっちょ噛みしてきたせいで、今度はそちらが大炎上している。伊都には関係ないのだが、火元であったせいでちょくちょく蒸し返される。 (伊都さん、まじで悪運の引きがすげーなぁ……)  とはいえ、他人の炎上に関してはどうしようもない。実際伊都自身も『運が悪いなら仕方ない』と割り切り始めたようだ。辛い、悲しい、と沈んでいるよりは、そちらの方がずっといい。  今日は深夜前に会社を出ることに成功し、零時まで営業しているスーパーに間に合った。  何があるかわからないから、と、相変わらず伊都は軟禁状態だ。手が開けば柚葉が、仕事が早く終われば環が買い物を担当している。  携帯を耳に当てながら、だらだらと歩く。最近やっと声に明るさが戻った伊都は、マキちゃんが帰りに電話してくれんの好きやねんと言った。防犯のための通話だったが、そう言われると満更でもない気持ちになる。 「えーと、エリンギと豚バラともやしとネギと……あと生クリーム? でしたっけ。ちゃんと買ったと思いますけど、生クリームってなんの料理に使うんです?」 『あーいや、生クリームはあれや。おれが食いたいだけ』 「……伊都さんが? 生クリーム食うの? え、てか伊都さん生クリーム好きなの!? そんな痩せてるのに!?」 『マキちゃんそれ偏見やで』 「甘いものそんな好きじゃないみたいなこと言ってたじゃないですか」 『間食はせぇへんよ。生クリームはあれやねん、おれの精神安定剤やねんな。こう、イラァってしたときに、ひたすらあわ立ててもっこもこにしてただ無心で食うねん。そういう儀式やわ。疲れた時は生クリームやねん。マキちゃんもあるやろ、こう、ぐったりした時に食いたいもん』 「んー……俺は、味噌汁かなぁ」  そういえば初めて会った日、環が階段を数え間違えたのは疲れすぎていて味噌汁の具のことを考えていたせいだった。  雑談ついでにこのことを告げると、おれたちのキューピッドは味噌汁やったんか、と伊都の笑う声が聞こえる。  ……しまった、この話は直接顔を見てした方が良かった。電話口からもわかる照れた気配に、ほんの少し後悔する。  さっさと帰って生クリームを泡立てる伊都を鑑賞しよう。しゃきしゃきと手を動かす伊都を眺めるのが、このところの環の楽しみなのだ。  だるい体を気力だけで動かして、伊都の待つウィークリーマンションを目指す。  やっと建物が見えてきたあたりで、視界の端に違和感を覚えた。  周辺は住宅街で、マンションに隣接する道路は思いの外車通りが激しい。  朝夕は早足で行き交う人間もまばらにいるものの、環が帰宅する時間に通行人などほとんどいないのが常だった。  時折車のライトで照らされる景色の中に、ぽつん、と立つ人影が見える。うつむき加減のその人物が誰かわかったとき、思わず足を止めてしまった。 「……伊都さん、すいません。ちょっと帰るの遅れます。生クリーム、ちょっとだけ我慢してください」  それだけ携帯に向かって言うと、通話は切らずにパーカーのポケットにつっこむ。  ゆるく、息を吸う。声に出さないように細く、吐く。よし、と気合いを入れてから、環はマンションの前で佇む人物ーー織笠梨江の前に立った。  ドラマみたいだな……などと笑えたのは後の事だ。この時は、おかしな緊張感で手足の先が冷えて震えそうだった。 「えーと、……織笠さん、こんなところに何のご用事ですか?」  織笠梨江は、弁護士を通じて内容証明を送ってきた。弁護士に一任している筈の彼女が、自ら動いて伊都に接触してくる理由など、環にはさっぱりわからない。  実際、伊都は依頼した弁護士に『なにもしないように』と言い含められたという。  勝手に動き、勝手に発言されては、弁護士の仕事に支障をきたすのだろう。現在伊都のSNS全般はすべて更新を止めており、話し合いが終わるまでは動画の更新も一旦休止している状態だ。  織笠梨江は俯いていた顔を少しだけ上げる。一瞬の戸惑いのあとに浮かび上がった表情は、明確な憎悪だった。  ……走って逃げた方がいいかな、と、考える。しかし彼女は見たところ手ぶらだし、武器のようなものは見当たらない。伊都が『ホンマなんでも入っとるなぁ』と呆れるボディバッグの中に、防犯用のブザーが入っていた。いざと慣れば、助けを呼ぶことは可能なはずだ。  知らない女からぶつけられる嫌悪の視線に怯みつつも、環はなるべく感情的にならないように言葉を選ぶ。 「伊都さんになにか御用の場合は、弁護士さんが間に入ってくださると思います。なので、織笠さんが依頼している弁護士さんにご相談した方が……」 「あの……伊都先生に、依頼を取り下げてほしいんですけど」 「…………は?」 「だから……! 迷惑なんです! 弁護士から電話すごいかかってくるし! 疑われるし! 全部伊都先生のせいですよね!? ほんとにやめてほしいんです!」 「ちょ、……ちょっと、すいません、落ち着いてもらっていいですか?」  彼女が何を喚いているのか、本気でわからず一度発言を止める。  まさか、諸悪の根源と思われていた女性から『迷惑だ』などと言われるとは、思ってもみなかった。なにか、環や伊都が思い違いをしていたのだろうか? 本来は彼女も被害者なのだろうか? 「……えーと、伊都さんはあなたから慰謝料を請求されたので、その訴えは事実無根ですよーって事を証明するために、弁護士に依頼をしました。そして伊都さんから依頼を受けた伊東弁護士は、あなたの代理人である渡辺弁護士と話し合いを続けています。……この過程で、何か不都合がありましたか?」 「だからそれが困るって言ってるんです! 昼はやめてほしいって言ったのに、電話かかってくるから親にもバレちゃったし、ほんと最悪……さっさとお金払って終わりにしてくれたらいいじゃないですか! なんでそんな簡単なことができないんですか!? 伊都先生、お金持ってるくせに……っ」 「…………うん……?」  環はいま、なにか聞き逃しただろうか。  彼女が喚いた言葉をそのまま受け取るのならば、『自分が請求した慰謝料についての正当性を弁護士から尋ねられ、非常に迷惑している』ということになる。  割合様々な人間と触れ合う職種だ、という自覚はある。怒鳴られることもある。わけのわからない侮辱を受けることもある。けれどこの日環は初めて『びっくりしすぎて言葉を失う』という感覚を味わった。  知らなかった。呆れすぎると、人間は、言葉を忘れるのだ。 「だいたい、ルリ子さんと直くんのことも、先生が悪いんですよ。先生がルリ子さんなんか雇うから、全部おかしくなっちゃったんだ。わたし、すごく辛かったんですよ! 傷ついたんです! じゃあその原因を作った先生が悪いですよね!?」 「いや、何言って……」 「さっさと金払ってください! 先生のせいで直くんは慰謝料なんか請求されて困ってんの! なんでわたしがこんなに泣いてるのに、あの男はホモといちゃついてんだよ! 気持ち悪い……っ!」  手を、あげなかったことを褒めてもらいたい。誰でもいい、伊都でも、瀬羽でも、佐塚でもいい。えらいなぁと言われて然るべきだ、と思う。  環は手を上げなかった。殴らなかったし叩かなかったし肩も掴まなかった。  そのかわり、一歩退がってから、息を吐く。 「……あのですね、あなたがここにきた理由、結局よくわかりません。金の催促かな? ってことくらいしか理解できないです。でもこれだけは一応言っときます。気持ち悪いとか腹が立つとか、それは勝手に思っていただいて結構です。個人の感情なんか自由ですから。でもその言葉で伊都さんを傷つけるつもりなら、俺はあなたに容赦しません」 「は? ……なんですか、それ。あんたになにができんの?」 「俺はまぁぶっちゃけ役立たずなんですけど、うちの先輩のアホみたいな特技がすごい役立った話しますね? その先輩異常な足フェチで、足エロが好きすぎてAV監督になっちゃった変人なんですけど。その人、一度見た足は忘れないんですって」 「……AV……?」 「織笠さん、あなた五年前に一度、素人もののAVに出演してますよね。その時に一緒に出演していた女性は、キャバクラの同僚だった筈です。元同僚の彼女から辿って、当時あなたがハマってたホストくらいまでは調べました」 「な……なん……っ」 「て言っても、まぁ、織笠梨江は金遣いが荒い女性だってことがわかっただけです。なんであなたが伊都さんを憎むのか、俺にはさっぱりわかりません。……だって、あなたが好きだったホスト、伊都さんにそっくりじゃん。顔も、背格好も。あなた、伊都さんのこと好きだったんでしょ? 好きなのに、なんで困らせるの?」  環には本当にわからない。  好きでストーカーするだけなら、理解できる。けれど彼女は傷ついたと喚き、架空のパワハラをでっちあげ、挙句伊都に金を要求した。環たちの推測があたっているならば、『辻丸伊都はスタッフに手を出した』などという事実無根の噂でネット炎上を招いたのも、おそらくは彼女なのだろう。  織笠梨江の口ぶりでは、清水直との関係はまだ続いている様子だ。とすれば、清水直もこの件に関わっている可能性もある。  環はわからない。考えても、理解に苦しむことしかわからない。叶わない恋愛感情は、こうも容易く憎悪になり変わってしまうものだろうか。  震えている織笠梨江には、おそらく環の言葉は何一つ届いていない。何故ならば彼女の震えの原因は、屈辱だからだ。 「あ、あんた、それ、伊都先生に言ったの……!?」 「は? それって、あー、AVとかキャバ嬢とかホスト狂いの過去ですか? そりゃ言いますよ、これ以上悲しい顔させたくないけど、情報は共有しないと意味ないですし。そもそもなんであなたに恨まれてんのか意味不明だったから、調べられるとこは全部調べるしかないんです」 「ひ、ひ、ひど……っ、ひどい……」 「いやひどくないですよ。べつにあなたの過去を侮辱しているわけじゃないですし。ひどいと言うなら、してもいないハラスメントをでっちあげて金をせびってきたあなたのほうがひどいです」  段々と言葉のオブラートが溶けてくる。  彼女を詰っても仕方ない。なんの解決にもならない。むしろこじれるだけだろう。  わかっていても、冷静になろうとしても、苛立ちと腹立たしい感情は隠せない。  どうして伊都のことが好きなのに、伊都の優しさを慮れないのか。何を言われても気にしない、自分は悪くない、と突っぱねられる人ではない。そんなことくらい、伊都を見ていればわかる筈なのに。  ……このままでは本当に掴みかかってしまいそうだ。  ひとまず冷静になるために、環はさらに一歩下がる。 「……こんなとこで話してても、お互い感情的になるだけですね。すいません、言いすぎました。今後伊都さんにご用がある際は、渡辺弁護士にお願いしてください。明日からはなにを言われても俺も無視します。それじゃ」 「……なきそれ。じゃあ、死にます」 「え」  ふ、と目の前で女性の体が揺らいだ。  棚の上の人形が倒れるように、ぐらりと織笠梨江は車道に向かって倒れる。  車道を走る車のクラクションが響き、思わず駆け出した環が手を伸ばす前に、目の前に長い腕が飛び出す。  びっくりした。  唐突に織笠梨江が車道に飛び出したことにも、いきなり目の前に伊都が現れたことにも。 「…………、っ、いっ、てぇー……!」  彼女の腕を無理やり引っ張り、力任せに歩道に引き寄せた伊都は、支えきれずに尻餅をついた。  やっと正気に戻った環は、慌てて駆け寄り、伊都の側にしゃがみこむ。 「い、伊都さん大丈夫……!? う、腕痛い!?」 「っあー……うっかり左腕やってもうたわ……ちょ、マキちゃん、触んな、いたたたたッ!」 「救急車呼びます! 骨折れてるかも……!」 「いや呼ばんでええて、深夜外来探してタクシー呼ぶから落ちつきや……ちょっと、今日メシ作ったげれんけども」 「俺のメシなんかどうでもいいです! つか俺も着いていきます!」 「うーん三十一歳児扱いやなぁ、ええけども」  ふにゃりと苦笑いをこぼしてくれる伊都は、いつも通りのテンションだ。  一体いつからそこにいたのだろう。環が通話を切らなかったのは、いざとなったら伊都が通報なりなんなりしてくれるかも、という算段があってのことだが、まさか本人が出てくるとは思わなかった。  結果、目の前で起こったあまりにも軽々しい自殺は未遂に終わった。伊都がいなければ、織笠は死んでいたかもしれない。  その織笠梨江は、伊都が投げ出したままの状態で、地面に座り込んだままぴくりとも動かない。  彼女を轢きそうになった車の運転手がわざわざ車を止め、大丈夫かと声をかけてくれる。めまいがしただけだから、と環が謝罪している間も、織笠は微動だにしなかった。 「……あー……梨江ちゃんあんなぁ、」  伊都の声に、織笠の身体が反応する。  何度か何かを言いかけて、結局伊都はすべてを飲み込み、息を吐く。 「アカン、おれから言えることなんかなんもなかったわ。恨んでへんよってのは嘘やし、恨んでええよってのも嘘や。なんもコメントできん。マキちゃんも言うてたけどな、あとは弁護士先生に言うてやーとしか言えんわ。おれな、梨江ちゃんには結構感謝してんねん。イトメシって名前つけてくれたのも梨江ちゃんや。けど、何されてもずーっと好きでおるっちゅーのは、無理やわ」  ごめんな、と伊都は零す。  その柔らかな言葉にこもるなんともいいがたい無感情が、環には辛い。 「でもあれやわ。もうおれは梨江ちゃんの人生になんも物申さんけど、これだけはすまんけど頼むわ。マキちゃんの前でしぬとかやめぇや。梨江ちゃんの人生どう終わろうと知らんけど、マキちゃんを巻き込んだらな、おれは一生死ぬまできみのこと恨むわ」  好きで助けたわけではない。環のために助けたのだ、と案に仄めかす言葉だったが、果たして織笠梨江に伝わっていたのかはわからない。  そのうちふらりと立ち上がった女は、一言の謝罪もなく立ち去っていった。もうなにも聞きたくなかった環は、それを不躾とは思わない。自殺しないといいけどなぁ、とは思ったが、ここから先は自分がお節介を焼く問題ではない。  環が優先すべきは、怪我をしたいとかだ。 「……ほんとに大丈夫なんですか。緊急外来って歩いて行ってすぐ見てくれんの……?」 「いや知らんからいまからググるわ。まぁ、いけるやろ。ぷらぷらしてへんから折れては無……痛いっちゅーてんねや! 痛い! なにしはるのマキちゃ……っ」 「あ、うん、折れては無いみたいです。ヒビ入ったか捻挫かはわかんないな……」 「痛いて。握るなら右手にしたってや」 「またスキャンダルされちゃいますよ。俺と手とか繋ぐと」 「ええよ。べつにおれはアレ、スキャンダルやと思うてへんよ。あえて言わんけど、おれがマキちゃんと付き合うててなにが悪いねんて思っとるわ」 「…………伊都さん」 「うんー?」 「無事でよかった、です。……はー……びびったぁ………ほんと、なに、あれ….」 「あー……いや話聞いてたけどおれもわからんわ。マキちゃんも無事でよかったわ。そんじゃ、えーと」  病院探そか。  ふにゃり、と苦笑する伊都の右手を握りしめ、今日はもうなにも考えずに伊都を抱きしめて眠りたい、と心底思った。

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