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「うーん、これは、あー……アカンわ」  梅雨時に、長期間部屋を空けるべきではない。  そんな当たり前のことをしみじみと実感した伊都は、ため息を飲み込みながら手当たり次第にカビて腐った食材をゴミ袋に放り込んでいく。  ほとんど『避難』といった体で、慌ただしく必要なものだけを抱えて家を出た。冷蔵庫の中のものでさえ、生き残っているのは一部の調味料くらいのものだ。 「うお……玉ねぎ溶けとるやんけ……まじか……なんでおれ放置してったんや……」  勿論、玉ねぎどころの騒ぎではなかったからだが。今となっては、玉ねぎを無駄にしてしまったことの方が悲しく思える。  伊都が路上で梨江の命を勝手に救い、左腕を負傷した日から、二週間が経っていた。  結局、ネット炎上が燻っていることを除いて全てひと段落した……筈だ。  環を筆頭に柚葉、瀬羽や佐塚、伊都が依頼した弁護士など、皆が尽力してくれたから、と言いたいところだが、実際は織笠梨江が警察に被害届を出したからだった。  夜間外来に駆け込み、とりあえず骨に異常は無いけど一応明日整形外科に行くようにと言われ、腕を庇いながらどうにか無理やり寝た、その翌日。伊都の借りた部屋を訪れた警官に『織笠梨江さんへの暴行罪で被害届が出ていますのでお手数ですが署へ』と言われ、さすがに膝から崩れ落ちる思いを味わった。  梨江は言葉が通じるタイプの人間だと思っていたのだが、とんだ買い被りだったらしい。ここまで滅多刺しにされるとさすがに笑いも乾いてしまう。  なんの落ち度もない伊都は、顔面蒼白で心配する恋人に大丈夫やからと五回くらい言い含め、一応伊東弁護士に連絡を入れてから警察署に同行した。  伊都の証言と腕の怪我、今までの話をかいつまんで話し終えた頃にはマンション前の防犯カメラの画像も出揃い、見事伊都は夕方までに解放された。  その後、梨江には会っていない。  虚偽申告罪で勾留された梨江は、弁護士を通じて示談の申し入れをしてきた。ほとほと愛想を尽かした伊都は、これに応じるつもりはない。  勾留されたことでさすがにしおらしくなった梨江は、清水直と共に行った全ての嫌がらせを告白した。  曰く、清水直がルリ子の配偶者から請求された慰謝料を払うことができず、清水と関係を持ち続けていた梨江と共謀し、伊都に対して虚偽のパワハラをでっち上げて慰謝料として金をもらう計画だったという。  頭が悪すぎて頭痛がしそうな話だが、仕掛けた盗聴器の音声を合成し直し、伊都が梨江を貶めているように聞こえる音声ファイルをわざわざ作り、弁護士に提出したらしい。さすが映像編集が得意だった清水だと感心すべきか、その技術で真っ当に金を稼ぐ気持ちにはならなかったのかと呆れるべきか、伊都にはもうわからない。感情をもつだけ辛いので、この件に関してはひたすら無になるしかない。  強請り弱みを握るために、清水と梨江はひたすら伊都を監視した。きみたちほんま暇やなぁ、と伊都は呆れるが、現実から目を逸らすためになにか一つのことに集中していたかったのかもしれない。  その過程で撮ったスキャンダラスな写真をネット上に上げた理由を、梨江は『ムカついたから』だと告白した。  怒る気も、何もかもが失せた。  そうかぁ、ムカついたかぁーせやったらしゃーないなぁ、ムカついたんやもんなぁ。  半笑いでそう言う以外にどうしろと言うのだろう。  伊都に慰謝料の請求をしたのは『金を持っていたことを知っていたから』。  伊都の写真をネットに上げたのは『ムカついたから』。  更に伊都がスタッフに手を出したなどという根も歯もない噂を書き込んだのは、『さほど燃えずに腹が立ったから』。  呆れて声も出ない伊都だったが、伊都の周りの人間が伊都の分まで激怒してくれたので今ではどうにか笑えるくらいまでは回復した。  つくづく、自分の人の見る目のなさが恨まれる。  激変してしまった食材をポイポイとゴミ袋に投げ入れながら、長い長い反省タイムを終えた頃、階段を駆け下りる音の直後に玄関扉が開いた。 「伊都さーん、俺んとこはわりと平気っすよ。こっちどんな……うわぁ」  駆け込んできた環は、伊都の持つゴミ袋を一瞥すると身体ごと一歩退く。  平日は相変わらず忙しそうではあるが、土曜日である今日は朝から伊都の出戻り作業を手伝ってくれていた。 「なんやのそのすてきな反応。マキちゃんいま何にどん引いたんか言うてみ」 「え、だって玉ねぎ溶けてる……こわ……てかその緑色のやつなに……? 肉……?」 「ふふ、お肉てなぁ、腐ると緑色になんねんでぇ……」 「やっぱたまに掃除しに戻ってきたら良かったですね。俺の部屋はちょくちょく仕事で帰ってきてたんですけど。あと帰るのめんどうくさいとかいって、瀬羽さんがホテル代わりにしてたし」 「えええ……家まで辿り着く前のセーブポイントに使われてんのかマキちゃんち……いやたしかに、マキちゃんのお部屋は住み良いけども」 「女性もののランジェリーとコスプレ衣装がぶら下がってますけどね。それ捨てたら上で休憩しましょうよ。てか、そんな急いで頑張んなくていいよ。……せっかく全部終わって帰ってきたんだから、とりあえずゆっくりしたらいいと思います」  それはつまり、掃除は一旦保留にして恋人を構ってもいいということだろうか。言葉通りの意味だとしても、環の気遣いは伊都を上機嫌にさせる。にやける顔を隠さずに環を抱き寄せ額にキスを落とす。  左手も、昨日やっとテーピングが取れたばかりだ。 「はー……肩肘張らずに正々堂々ゆったりマキちゃん吸える幸せ、プライスレスやわぁー」 「猫みたいに言われた……」 「猫っちゅーか犬っぽいけどな。かわいさに置いては犬猫ちゃんよりマキちゃんの方がダントツ上やけどな?」 「……伊都さん、テンション高い?」 「そらウッキウキやわ。こっから裁判とかあんのやろけど、おれが被告人やないならなんでもええわホンマ。アレコレ思い出したくもないねんけどまぁ、うん、これで終いになるならつきおうたる。とりあえずの心配はゆずちゃんの暇がのうておれの仕事の撮影ができひんことくらいやからな!」 「あー……随分無理して休んでましたもんね……」  散々無理に休んだ皺寄せで、柚葉はコンビニバイトで連勤中だ。彼女にも苦労をかけたし、心配をかけた。それなりに仲の良かった元同僚の豹変っぷりは、若い柚葉の心にトラウマになっていないか心配だ。 「まぁ、ここまできたらもう焦ってもしゃーないわ。貯金無くなるまでにイトメシ再開したらええねん」 「撮影くらいから俺が手伝いますけど」 「アカン。マキちゃんが視界におるとおれがにやけてまうからアカン」 「……今日すごいかわいいこと言ってきますね……」 「ひっさしぶりのご自宅やからなぁ。そらおれの口も素直になるわ。避難所マンション、オートロックも防犯カメラもめっちゃ気合い入っとるのに、お隣さんの声丸聞こえやったからなぁ……隣のOLさんの愚痴が聞こえる部屋で、マキちゃん口説くわけにはいかんやろ」 「わりとイチャイチャしたと思うけど……」  たしかに、暇が有れば腕の中に引っ張り込んでしまったし、声出したらアカンよと囁いた上で大人気なく悪戯を繰り返したような気もする。  とはいえキスがせいぜいで、結局伊都は環と性的なスキンシップはしていない。壁の問題もあったが、なにより梨江の一件で気を揉みすぎて、そんな元気がなかったこともある。  きゅ、とゴミ袋の口を結び、一息つく。ついでのようにさらりと『せやってあの部屋エロいことできひんかったし』と口にすると、何故か環が固まってしまった。 「…………マキちゃん? どないしたの。えーと……おれなんか変なこと言うたか?」 「言……い、ました、あの、……伊都さんて、その、俺とそういうコト、してくれんの……?」 「はぁ? そらするやろ。え、なに、マキちゃんプラトニックがお好きな子ぉか? そんならべつに一人で抜くけどもそうやないなら触りた」 「待っ、まって! ほんと待ってください! 抜くとか言っちゃだめです! 伊都さんがエロいこと言うのびっくりするしヒェッてするしでもなんかうわー! ってするからダメ……っ」 「マキちゃんおれのことなんだと思っとんのや……」  なんとなく、若干、姫扱いされている気配は察していた。  どうも環は、伊都のことを心底『かわいい』と思っているらしい。べつにそれ自体は構わない。可愛い、かっこいい、優しい、これら全て伊都は言われて嬉しいし、伊都も環に対して可愛くて格好良くて優しいと思っている。  玄関あたりに立っていた環を、ずいずいと壁に追い込みながら、逃げ道を潰して行く。  両手を壁に縫い付けて見下ろすと、視線のやり場に困ったらしい環がひどく気まずそうに視線を彷徨わせていた。 「マーキちゃん。……こっち見ぃやー」 「だめ、むり、近……伊都さんが、エロいこと言うから、なんか意識しちゃって駄目……」 「なんでやの……散々チューしたやんか」 「キスとセックスは別物です。つか、伊都さんにそんなふうに触りたいとか思われていた、なんて、思ってなくて」 「いやだからなんでや……好きやて言うとるのに……あー、まぁ、セックスしたいですーとは言うてへんか。言うてへんな? せやったら言うわ」 「伊……」 「おれ、マキちゃんとエッチなことしたいねんけど。……だめ?」  至近距離で声を顰めたのは、わざとだ。伊都本人はそれほど特徴的な声だとは思っていないが、どうやら環は、伊都の顰めた声が性癖にささるらしい。 「…………っ、……う、ひ……っ、し、しぬ……っ! 耳から! なんかが出て! 死にそうだから離してくださ……っ」 「なんやそれ斬新な死因やな。マキちゃんがええよーて言うてくれへんなら離さんよ。な? しよ? おれべつにエッチに自信あるタイプやないし男は初めてやけど、たぶん優しいとは思うねん。たぶん。多少は器用な自信もあるし。マキちゃんが教えてくれたら頑張れる筈やからー、ほら『伊都さんとエッチしたい』て言うてええよ?」 「……伊都さん、その、俺の事になるとわりと積極的なの、グッと来るからよくない……」 「それ、むっちゃ好きってこと?」 「うん。……伊都さんに、」  伊都さんに、食べられたいです。  耳に甘い言葉が、脳みそをどろどろに溶かして熱だけを上げていく。理性はある。あるにはあるが、いまやふわふわでとろとろになってしまったソレは、伊都の頭の角で本能を傍観するだけだ。  耳まで赤い環の唇を、自分の唇で塞ぐ。舌が熱い。口説く言葉が浮かんできては、キスの熱で溶けて消える。零れるのは荒い息継ぎの音だけだ。 「………、っ……伊都さ……あの……えっと、ほんとに、大丈夫……俺、男……」 「いまさらダメとか言うわけないわ。なんやの、股間グッと押しつけてこんなに硬いんやでぇとかやったほうがええの?」 「え。やってもらえるならちょっとやってほしいですけど」 「……やってほしいんか」  ふは、と息を零してしまってから、アカンマキちゃんかわええなぁといつものように笑った。 「はー、かわええ……かわええかわええ言うとったら日が暮れるわー、ほんなら上行こか」 「え!? 今からすんの!?」 「ほかにいつすんのや。夜やとマキちゃん明日の仕事に差し支えるやろ。ホンマはおれのでかいベッドがええねんけど、なんかかびくさいねんなぁ……あとあのベッド、よう考えたら不倫カップルどもがつこてたかもしれへんし。マキちゃんとこはお隣も空室やしちょうどええ……あ。ラブホとかの方がええか? 男同士で入れるか知らんけども」 「入れるとこ、知って、ますけど、いやその…………お……俺の部屋で……いいです……」 「うん。来週までには部屋再構築しとくわ。あーでも、これを機に引っ越したらええのかなぁ……マキちゃん、一緒に新居探さへん?」 「…………は!?」 「あ、いやこの話アカン、長なるわ。後でええわ。とりあえず上行ってエロいことしてからにしよ」 「な、なんか重要な話よりセックス優先された……っ」 「せやって、したいし」  手を繋ぎ欲望を隠さず耳を噛むと、赤くなった環が睨むように見上げてくる。かわいい。本当にひたすらかわいい。きっとベッドの上でも伊都は、かわいいと何度も言ってNGワード指定を食らってしまうことだろう。 「伊都さんがその、真っ当にエロいの、ほんとぐっとくる。ずっるい……」 「マキちゃんは毎日毎秒かわええからもっとずるいわ」  しれっと繋いだ手を離さずに、伊都は環を引きずるように部屋を出た。  この先、面倒は山積みだ。仕事も再開できるかわからない。  それでも伊都には、心強いアシスタントと、恋人がいる。この縁に感謝し、自分の良運の使い所を『そこだけはホンマようやった!』と称賛した。

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