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 心地よい速さで耳に届く包丁の音。  手際よく切り揃えられた材料は、フライパンの油を纏って艶々と輝いた。  環は、伊都の調理風景を見るのが好きだ。たいした手伝いはできないが、それでも暇があれば一緒にキッチンに立つ。あれこれと雑談をしながら、時折料理を教えてもらいつつ過ごす台所ライフは最高なのだが、今日ばかりは伊都の隣に立つわけにはいかない。  なぜならば今伊都が料理の腕を奮っている場所は撮影スタジオ内のキッチンで、環は絶賛AVの撮影中だったからだ。  昼休憩とはいえ、ADの仕事は山ほどある。昼食の手配が減った分、少しは楽になった筈だが肝心の昼食担当である伊都が、先程から女優二人に囲まれているせいでまったく仕事に身が入らない。 「すごーい! 伊都さん野菜切るのはっやーい! えーあたしピーマンとかもっとこう、ボロボロになんだけど……」 「安心しぃや、おれも最初はボロボロやったわ。こんなん慣れや。ちゅーかべつに料理は速けりゃなんぼっちゅーわけやないし、ゆっくり作ってええやん」 「あたしたまにダラダラ料理してるとさ、彼氏が『まだチンタラやってんの?』って文句言う」 「なんやそれ。ピーマンの種とワタ口にぶちこんで黙らせとけ」  なんだか物騒な会話をしているようだが、やたらと楽しそうというか、妙に距離感がない。  女優の方はコミュニケーション能力が高いせいだと思うが、そういえば伊都は大して他人に興味がない分、人を嫌ったり距離を取ったりするタイプでもなかったことを思い出した。  伊都が柚葉と楽しそうに騒いでいても尊いなぁと思うだけでも、薄着の美女に挟まれている姿は流石に精神的によろしくない。  あえてそちらを見ないように、仕事に集中しようとするものの、やはり伊都の存在が気になってしまう。AV撮影現場に颯爽と現れた料理チャンネルのお兄さんは、女優を含め他のスタッフにも大人気で困る。  だから嫌だった。自分はそれなりに嫉妬深い自覚はあったし、仕事に身が入らない未来など容易に予想できた。そもそも伊都はこの依頼を断ると思っていたのだ。まさか、二つ返事で快諾するだなんて、あまりにも予想外すぎた。  瀬羽の肝入り企画『料理上手な彼女スペシャル・対決!お隣のお姉さんvs向かいの幼馴染編』の撮影日、伊都に任されたのは全料理の監修と調理だ。  わざわざこの日の為に伊都のスケジュールを押さえ、調理可能なスタジオをおさえた瀬羽の執念が恐ろしい。 「いや、つか、AVで料理対決ものって需要あんです……?」  次の衣装であるフリルのエプロンを用意しながら、環は撮影のチェックをしている瀬羽に疑問を投げかけるも当の監督は絶好調すぎて聞く耳を元気に塞いだ。 「うるっせーよ、男の子は対決ってついてりゃ大体好きなんだよ。貞子と伽倻子だって対決してんだから料理上手な彼女だって対決していーだろ」 「そう、なのかなぁ……」  そうなのだろうか。やはり納得できないものの、企画が通ってしまったのだから環はひたすらアシスタントに徹するしかない。  どうやら瀬羽はパワハラプロデューサーに抑えつけられた鬱憤が溜まりに溜まり、己の欲望に忠実に振り切れてしまったらしい。環も含め、アッパーズキャストのスタッフを散々いじめ抜いた諸悪の根源は、先月あっさりと新しいレーベルに移っていった。  どうやら陰で瀬羽や佐塚が相当頑張って上に抗議をしていたようだが、努力が実を結んだのか、単に元からその日付が決まっていたのかはわからない。結果、環は一人で撮影現場を任されるという機会を得たし、間接的とはいえそのお陰で伊都と付き合うことができたのだから、最悪というわけでもなかったのかもしれない。  過ぎてしまった日々は、徐々に感情が薄れていく。吐くほど辛かった記憶も今は少し、遠い目をしてしまう程度のものだ。  伊都にとっての過去も、同じようにさっさと思い出になってほしい。  伊都の仕事や生活を脅かした一組の男女とは、まだしばらくは交戦が続くようだ。間に警察が入り刑事事件となったため、伊都の疲労は若干ながら軽減された様子だ。  頼って欲しいという気持ちは本当だし、自分に出来ることならなんでもやるつもりではある。ただ、伊都の心労までは肩代わりできない環としては、本当にさっさと終わらせてさっさと無かったことにしたいと心底願っているところだった。  先日、イトメシチャンネルも無事再開した。  なにもかも元通り、とはいかないようだが、一応職なしの危機は脱出やわ、と笑っていたので多分、残っている視聴者もそれなりにいるのだろう。  飲み物を配り、紙皿を用意してからようやく伊都に声をかけると、ちらりと振り返った恋人はいつものように目を細めた。 「お、マキちゃん今日も気ぃ利くなぁ。ええ旦那さんになれるでほんま」 「嫁はいりませんよ。料理上手な旦那ならほしいですけど。……良かったんですか、伊都さん、ほんとに。瀬羽さんパッケージに『料理チャンネルイトメシ監修!』って入れるつもり満々っすよ?」 「あー。ええよ、ちゅうかこっちも帯書いてもろたしなぁ」  発売したばかりの伊都の料理本の帯には、人気AV女優にして本日の主演女優のひとり、甘里リンネの推薦文が入っていた。  現役AV女優の写真入りの帯は、よくも悪くも話題になった。当の伊都は『若い子の宣伝はありがたいねや』と、リンネ含め逐一ネットで宣伝してくれる女優たちに好意的だ。 「ぶっちゃけおれがなにしても気に入らない奴は叩いてくるわ。そんなん配慮してられへん。こっちはこっちで好きなことしたるわーて思うやんけ」 「まぁ、アンチってそういうモンですけど……」 「だいたい料理に性別も職業も関係あらへんわ。ゲイが作ったかて、AV女優が推薦したかて、メシがマズなるわけやなし。瀬羽くんにも恩返しできたしなぁ、一石二鳥やな」 「いや瀬羽さんはこの前の焼肉で人一倍食ってたんでアレでチャラだと思、イタッ」 「柊也ァ、彼氏といちゃついてねーでスタッフ集めてこい! さくさく食って午後はバトル撮影からはいんぞ!」 「うぃっす」  いちゃついているつもりはなかったが、たしかに今は仕事が優先だ。  別場所にいたカメラマンとそのアシスタントに声をかけ、ついでに浴室に顔を出す。 「ゆずちゃん、お風呂掃除終わった? メシの時間だけど来れる?」  先程のローション撮影後に女優が使った風呂を掃除していた少女は、ちょうど湯で洗い流していたところらしい。 「あ! はい! いま行きます! てかぬるぬる取れたかわかんないです……!」 「あー、ローションわりときついよねわかる……あとで確認するよ。原状回復もうちらの仕事だし。まぁもっかい終わったらシャワーしてもらうと思うし」 「そっか、午後の撮影ありますもんね。……大変ですよね、撮影日……」  柚葉は瀬羽に気に入られ、撮影日のバイトとして時折雇われている。コンビニバイトよりは幾分か楽らしく、積極的に現場に顔を出していた。  女性スタッフの存在は、女優に安心感を与える。もちろん出演契約をしていない柚葉がAV本編に出ることは絶対にない。それをきちんと説明し納得させるのが大変だったのは、柚葉本人よりも伊都の方だったのだが。 「はー……いいにおいがしますー……ピーマンのにおい……青椒肉絲かなぁ、鶏肉炒めかなぁ〜おなかすいた……」  柚葉を伴いキッチンに戻ると、すでに完璧な食卓が用意されていた。  撮影に使う料理だけで良かったものの、昼食まで用意してくれたのは伊都なりのサービスだろう。  各々、好き放題料理に手を伸ばす。  基本的に下っ端の環は椅子やソファーを譲り、荷物が散乱する壁際に腰を下ろした。  疲れた。なんだか無駄に疲れた。  伊都が人気なのは良い事だが、女性にちやほやされている姿を直接見るとどうもモヤモヤした気持ちが腹の奥に溜まってしまう。  はぁ、と憂鬱を吐き出し蟹玉を口に入れた時、当たり前のように隣に伊都が座り込み、思わず腰を浮かしそうになる。 「……ん、ぐっ……!? ……い、いとさん、どうし」 「え。おれのお仕事とりあえず終了やろ? 好きなとこでメシ食ったらあかんの?」 「いや、いけなくはないですけど……その、甘里さんとか瀬羽さんとかとおしゃべりすることないんですか?」 「普通におもろいけどずーっと他人と一緒やと疲れんねや。マキちゃん補充したってええやろ。キミはあるや、おれのストレス発散精神安定剤や」 「……生クリームじゃなかったの?」 「んー……生クリームがっしゃがしゃ泡だてんのも好きやけどなぁ、マキちゃんとイチャイチャする方が好きやな。ちゅーわけてほら、あーん」 「いやしません。職場なんで。……しないってば」 「ふふ。照れとる顔がかわええねー」 「…………ほんとに、俺でよかったの?」 「うん?」  ふと、今更なことを尋ねてしまう。  環はもちろん後悔していないが、女性に囲まれる伊都を目にしてしまうと、彼の人生を台無しにしてしまったのでは……と、思ってしまう。  けれど伊都は、ふは、と笑う。  なんでそないなこと言うの、と怒らない。環の不安など、伊都が笑えばそれで吹き飛ぶと知っているのだ。 「良かったもなにも、おれはマキちゃんがおれを選んでくれてほんまラッキーやったなぁ、今後一生他の男にも女にも渡したないからどうにか大金手に入れて一生軟禁できひんかな〜くらいには思うとるで」 「……告白内容がえぐいです。もっとこう、ぬるい感じでお願いします……」 「なんやの。マキちゃんかてわりとえぐい事言うやん。せやけどほんまにマキちゃんがええよ。マキちゃん、味噌汁好きやろ? おれは生クリーム好きやけど、べつにマキちゃんの口に生クリームぶちこもうとは思わへんよ。マキちゃんが好きなもの食うてたらおれは嬉しいし楽しいし幸せや」  これってまぁまぁ、愛してるっちゅーことやろ。  そんな言葉の後に軽く耳元にキスを落とされ、一瞬職場だということを忘れた。  ぐわっと熱が上がりそうになり、慌てて膝の間に顔を埋めていたら、頭の上から瀬羽の声が落ちてくる。 「そこ! 壁際でイチャつくんじゃねぇ! ここは神聖なAV撮影現場だっつの!」 「じゃかあしいわ。映えるメシ作ってやったんやからちょっとくらい目ぇ潰れ」  頭の上で言い合う上司と恋人の声を聞きながら、どうしてこうなったと思いながらも幸福を思い知った。  味噌汁と生クリームは別の方がおいしいのだから、無理に一緒にしなくていい。  好きなものが違ってもいい、なにが好きかどう好きか、伝わらない方が嫌だと伊都は言う。  きみが幸せだとぼくはうれしい。  その言葉が、環の世界をほんの少し明るくした。 終

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