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第15話
部屋に入ると、ホッとしたのか足の力が抜けた。やっと、正臣から逃げられたと思うと涙が溢れて止まらなくなる。今までどんなに訴えても聞いてもらえなかったことを、陣が解決してくれたと思うとどうしようもなく嬉しかった。
「颯太郎……」
陣が隣に座った。
「疲れただろ? 今日は休むか?」
「いや……」
颯太郎は首を振った。しかし陣は無理しなくていい、と苦笑する。
「全部話せって言ったけど、さっきは頭に血が上ってたし……颯太郎?」
陣の言葉の途中で、颯太郎は膝を抱えて顔を伏せた。
「……ありがとう」
小さな声だったけれど、陣にはきちんと伝わったらしい。颯太郎は聞いてくれるか? と尋ねると、できる範囲でいいからな、と言われて更に涙が溢れる。
「……アレが、血の繋がらない兄だよ」
「だろうね。俺が入った時に独占欲丸出しの目をしやがった」
一応聞くけど、本当に同意であんな事してないよな? と言われて、顔を伏せたまま頷いた。正臣はずっと恐怖の対象だった。心を許すなんてありえない。
颯太郎は少しだけ顔を上げる。
「……いつから?」
「……一人暮らしを始めてから。でも同居してからずっと、お風呂やトイレを覗こうとしてきてた」
陣が息を飲む気配がした。怒りの赤が陣から出てきて、颯太郎はまた顔を伏せる。
「親父さんは? 何してたんだよ……っ?」
陣は振り絞るような声で言った。優しい陣だからこそ、言いたくなかったし、逆に知って欲しいとも思っていたのだ。
「おとうさんは……俺が連れ子だからあまり関わりたくなかったみたい。義兄が既に二回も家族に手を出していたし、そんな義兄に嫌気がさして家に帰らなくなっていった」
すると陣の感情が一気に青くなった。そしてすぐそばまで来ると、抱きしめてもいいか? と尋ねてくる。
颯太郎は頷いた。この時は何故か、陣のことは受け入れられると思ったのだ。
陣は隣に座って颯太郎の肩に手を回す。そしてその手で、頭をポンポンされた。
「……その頃はもう、颯太郎の母さんはいなかったのか?」
「うん……。再婚して一年くらいで事故で……」
そもそも前夫の面影がある事や、前夫の浮気を理由に離婚したことから、母からも厄介者扱いされていたことを話すと、陣は長く息を吐く。彼の感情は青だけれど、途中から白が混ざり始めていた。
颯太郎は一つ深呼吸をすると、あの話をするか、と決意する。陣がどんな反応をするのか分からなくて怖いけれど、全部話すという約束をしたんだ、できる限り話してみようと思う。
「黒い色だらけの家だった……母は俺が感情が見えることを認めたくなかったみたいだし、いくら訴えても聞いてもらえなかった」
義兄は初めから自分に対してマゼンタと黒色の感情を向けていたと話すと、陣は苦しそうな顔をした。まるで自分の事のように苦しむ彼を見て、胸に温かいものが広がる。
「母は義兄が妹に手を出したから、義父は離婚した事を知ってた。けど俺は男だから大丈夫だと、あんな危険な色を出す義兄と俺を残して、母と義父は家を出て行ったんだ」
陣は舌打ちをした。どこまで鬼畜な野郎だ、と悪態をついている。けれど颯太郎の頭を撫でる手は優しかった。
「けどそれからすぐに母が亡くなって、義父が代わりに一週間分の食費を渡しに来た。その時も義兄の事は訴えた、けど……」
義兄は母にまで手を出していた事を知り、そんな母を愛しながらも憎んでいた義父は、颯太郎の事を相手にしなかった。
颯太郎は腕に力を込める。手が震えていて、再び顔を伏せた。陣は何も言わずに、ずっと頭を撫でていてくれる。
「段々食費は減らされていって、しかも次はいつ来るか分からない状態になった」
颯太郎がそう言うと、陣は「ああ」と声を上げて両腕で颯太郎を包む。
「ひょっとして、颯太郎が偏った食事するのも、その時の癖が抜けてない? 俺の野菜炒めに感動してたのも、そのせいか……」
うん、と颯太郎は返事をした。約十年ぶりくらいに、自分の為に作ってくれた料理を食べたので、思わず泣くほど感動してしまったのだ。
「その日食いつなぐのがやっとで、学校の給食が頼りだった……」
「颯太郎、……颯太郎、もういい」
それでも、誰かに助けを求められる環境じゃなかったんだな、と泣きそうな声で言われ、颯太郎は陣にすがりついてしまいたかった。しかしそうしたら、肝心な話ができなくなりそうで、グッと堪える。
「でも、夏休みはしんどかったな……だからいつも行くスーパーより安い、商店街のスーパーに通ってた」
「颯太郎……」
話を止めない颯太郎を、陣は不思議に思ったようだった。少し離れて顔を覗き込んでくる。陣の色はまだ青があったけれど、白や薄桃色があって、彼も落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
「十歳の誕生日に、小銭握りしめてそのスーパーに向かったんだ。けど、嫌な予感がして振り返ると、どす黒い感情の男がいた」
「……え?」
男はもう完全に黒く覆われていて、目だけ出ていた状態だった。大きく膨らませた感情を、誰にぶつけるか探していたあの目を思い出して、身震いする。
「俺……その男と目が合ったんだ。反射的に走り出したら、次の瞬間には違う人の呻き声が聞こえた」
「……っ」
「それでも怖くて、走って逃げたら……聞こえたんだ」
颯太郎はまた涙が溢れて顔を伏せた。
「お父さん、お父さんって……あの騒然とした中その声だけはハッキリと聞こえて……俺が最初のターゲットだったはずなのに、逃げたから違う人が犠牲になってしまったって……っ」
そこまで言うと、陣の腕が颯太郎から離れる。そんな、と陣の震える声がした。
「俺は通り魔の感情に気付いていながら、自分だけ逃げた。声を上げていれば、被害は抑えられたかもしれないのに……っ」
結局、その時生きるのに必死だった颯太郎は、自分だけが助かる事を考えた。
「そっか……」
陣の泣き声が聞こえる。顔を伏せているので感情は見えないけれど、きっとまた青が強く出ているに違いない。
「ごめん……陣のお父さんを殺したのは俺だ、お前をスリから助けたのも、自分が後悔しないようにしただけなんだよっ、人のためなんかじゃない……っ」
俺は優しくなんてない、と颯太郎はギュッと拳を握った。
「よりによって、何で陣のお父さんだったんだって思った。こんな風に出逢わなければ良かったって……っ」
感情を爆発させるように、颯太郎は泣きながら話す。こんな風に感情を出すのは、子供の時以来だ。
「……だから俺が告白した時、急に態度を変えたのか……」
でも、と陣はそっと颯太郎の肩に手を置いた。
「よりによってって事は、そうじゃなかったら良かったのに、って思ってるって事だよな?」
「……」
颯太郎は黙る。じわじわと耳まで熱くなり、耳を隠そうと、もっと深く頭を伏せた。肩に置かれた手が熱くて、この手を振り払う事ができたらどんなにいいか、と更に泣けてくる。
「颯太郎……」
顔を見せてよ、と優しく言われ、颯太郎はゆっくりと顔を上げた。目元を赤くした陣の顔が見えて、また涙が出てくる。
「颯太郎が逃げたおかげで、……親父が俺を庇ったおかげで……俺たちは出逢えたんだ」
俺は親父の事、颯太郎のせいだとは思わないよ、と苦笑して言われ、陣が纏った色に目をみはる。
そこには時折見せていた、あの黄みがかった薄桃色があった。白と桃色と黄色が時折ふわりと動き、光を放っているかのように輝いている。
陣が颯太郎の頬に触れ、目尻を拭った。
「颯太郎、俺はやっぱり颯太郎が好き。俺じゃ支えになれない?」
その言葉に、颯太郎は胸が苦しくなるほど嬉しくなった。目を伏せるとまた涙が一筋流れ、首を小さく横に振る。
「俺も、陣が好き……」
喘ぐようにその言葉を口にすると、陣は優しく笑った。
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