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第20話

次の日、颯太郎はゼミの研究室に向かうと、廊下の掲示板に小さな人だかりができていた。休講の知らせはメールでくるし、今はほとんど使われていないので、何か珍しいな、と思って研究室に入ろうとする。 するとその人だかりの中に、いつも颯太郎に絡んでくる女子学生がいた。彼女は颯太郎を見ると、あからさまに嫌な顔をする。 「うわ、来たよ」 彼女の声に周りの人も颯太郎を見ると、避けるようにして研究室に入っていく。何なんだ、と誰もいなくなった掲示板の前に立つと、そこにはパソコンでプリントアウトしたような文字で、A4用紙に大きく書かれていた。 【茅場颯太郎はホモだ】 颯太郎は思わずその紙を破り取り、手のひらでぐしゃぐしゃにして潰す。 顔が熱くて動悸がする。一体誰が、と思ってすぐにあけみを思い出した。彼女は陣の心の声を聞いたのだ、颯太郎と付き合っていることも知っていた風だったし、陣を奪うと宣言している。 颯太郎は一つため息をつくと、研究室に入った。中にいた全員が颯太郎を見て、それぞれの感情を纏わせる。 嫌悪、好奇心……室内の学生は無関心を装ってはいるものの、あまり良い感情はなかった。そんなものには慣れているはずなのに、出入口の辺りで立ち止まると先に進めなくなる。 「入って来ないでよ、変態」 先程の女子学生に睨まれて、颯太郎は表情を変えずに踵を返した。そして足早に三号館を出ると、一人で落ち着ける場所を探す。そのうちに胸が苦しくなって早足が駆け足になり、いつか来たキャンパスの敷地の端に来た。膝をついて胸を押さえると、頭が痛くなって目頭が熱くなる。 これは嫌な事を言われたからじゃない、強い感情にあてられたんだ、と言い聞かせるけれど、とうとう目からボロボロと涙が落ちてしまった。 どうして涙が出るんだ、と颯太郎は苦しくて地面を見つめながら喘ぐ。でも原因は分かっていた。こうなることが分かっていたから、自分が同性愛者だと認めたくなかったし、人を傷付けてでも一人でいたかったのだ。でも、後半は自業自得か、と颯太郎は心の中で苦笑した。 (あれだけ陣に、敵意は無いことを示せって言われてたのにな……) それなのに、彼はそんな颯太郎を受け入れてくれて、好きになってくれた。でも長年人を避けてきた颯太郎は、すぐに行動や考えを変えることはできない。 颯太郎は涙を袖で拭う。落ち着いたら帰ろう、授業をサボってしまうことになるけれど、幸い単位は足りる予定だからいいか、とその場に膝を抱えて座った。 しばらく頭を伏せ、落ち着くのを待っていると、颯太郎のそばに雀がやって来た。颯太郎を警戒することなく周りを歩き回り、ついには靴の上に乗って靴紐を噛んで遊んでいる。思わず顔を上げると、雀は靴紐を噛みながら首を傾げた。何か文句でも? とでも言いたそうなその態度に、颯太郎は思わず口元を綻ばせる。 「……靴紐、楽しいか?」 小さく呟くと、雀は反対の足に乗って、そちらの靴紐も調べ始めた。 動物の感情は見えないけれど、行動で何となく分かる。颯太郎は慰められているのだ。 「……ありがとうな」 思わず手に乗せたいと思い腕を動かすと、雀は驚いて飛んで行ってしまう。危害を加えるつもりはなかったので残念に思っていると、すっかり頭痛も息苦しさも無くなっていることに気付いた。やはり動物は良いな、と思っていると、横からいきなり声を掛けられて驚く。 「人前でも、それくらいの顔をすればいいのに」 「……っ、陣……」 何でここに、と気まずくなって視線を落とすと、陣は隣に座った。 「何でって……どこ探してもいないから」 陣の優しい声に、颯太郎は耳が熱くなるのを自覚する。そしてもう一度、何で? と聞いた。 先程陣は颯太郎を咎めていたはず。なのに今は穏やかな鴇色を纏って優しい声で颯太郎を呼ぶのだ。あのまま無視されるならまだしも、こうしてまた鴇色が見れるなんて思いもしなかった。 「……俺だって颯太郎とケンカしたい訳じゃない。仲直りしにきたの」 「……ごめん」 颯太郎は謝ると、陣は、謝るならあけみちゃんにな、と笑う。颯太郎は素直に頷けなくて、また顔を伏せた。 「あ、人を傷付けたら謝らないとダメなんだぞ?」 「……」 「そーたろー」 陣は颯太郎の頭を両手で掴み、無理矢理顔を上げる。目の前に陣の切れ長な目が見えて、視線が泳いでしまった。ともすれば鼻先が触れそうなくらいの距離なのに、陣の纏う色は鴇色で、颯太郎は落ち着かなくなり目を閉じてしまう。 「陣……近い」 カーッと顔が熱くなった。心臓が忙しく動き始め、颯太郎はそろそろと息を吐くと、唇に柔らかいものが触れる。驚いて目を開けると、綺麗な瞳がうっすらとこちらを見ていた。そしてその周りには、鴇色に似たピンク色がほのかに見える。 「こら、キスする時は目を閉じるんだよ?」 顔を離した陣は困ったような笑顔をしていた。それでも彼の手は颯太郎の頭に触れていて、親指の指先で颯太郎の耳をくすぐる。 「ふふっ、颯太郎耳真っ赤……」 「な、な、何で……っ、てか、近いから……っ」 颯太郎は陣の両手を掴んで払うと、彼は大人しく離れた。心臓がまだバクバクしていて苦しい。このまま爆発してしまいそうだ、と胸を押さえると、その様子を見て陣は微笑んでいる。 「何でって……颯太郎が目を閉じるから」 何だかからかわれているような陣の表情に、颯太郎は恥ずかしいやらムカつくやらで、更に顔を熱くした。 「何だよそれっ……ってか、からかってるのに鴇色してるとか、どういう事だっ」 「え、そうなの? だって、可愛いなー、好きだなーって思いながらからかってるもん」 「……っ」 しどろもどろだった颯太郎は、ますます言葉が出なくなる。今までそんなからかい方をされた事がなかったので、戸惑うばかりだ。そして、先程の鴇色に似たピンク色は、やはりその延長で颯太郎に欲情したのだと分かると、本当に顔から湯気が出そうだった。 「こういうことすると、すぐに照れてテンパっちゃうところ、可愛いよ?」 「分かった……分かったからもう離してくれ……」 颯太郎は陣の両手を掴むと、逆にギュッと握られて慌てる。 「手を握ってるだけだよ? ……これもダメ?」 颯太郎は無言で何度も頷いた。耐性が無いので、これだけでも蒸発しそうな程恥ずかしいのだ。 「だ、誰かに……見られたら……」 ただでさえ先程、颯太郎はゲイだと拡散されたばかりなのだ、自分はともかく、陣まで巻き込みたくない。 「そっか。颯太郎は見られるのは嫌なんだな」 そう言って今度こそ離れた陣は、まだまだ先は長そうだな、と笑う。それを聞いた颯太郎は、思い浮かんだ疑問を口にした。 「陣……俺相手に……その、そういう事したいと思ってるのか?」 すると陣は、鴇色を濃くして微笑む。どうやら聞かれて嬉しかったらしい。どうしてだろう、と思っていると、陣は答えを話してくれた。 「……そうだね、颯太郎に触りたいと思うよ。こうやって、お互いどう思っているか、話し合えるのも楽しいし」 陣はお互い本音を打ち明けて、受け入れる行為に喜びを感じるタイプのようだ。本音を隠して他人を寄せ付けない颯太郎とは真逆だ。 「陣……お願いだ」 颯太郎はまた顔を伏せた。そんな陣なら、少しは本音を言ってもいいかもしれない。 珍しい颯太郎からのお願いに、陣は嬉しそうに返事をする。本当に、この人は真っ直ぐなんだな、と颯太郎は顔を伏せたまま苦笑する。 「こういう事は、誰にも見られないところでして欲しい」 また耳まで熱くなっている自覚はある。けれど、陣の顔を見ながらなんて、とてもじゃないけれど言えなかった。それでも、陣はちゃんと聞いてくれる。 「……分かった」 仲直りな、と陣は優しい声で囁いた。その声に颯太郎は、身体まで熱くなりそうだったのは黙っておく。

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