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第5話

「ふにふに」  甲高い声を上げながら白い頬を軽く揉んだ。 「ツンツン」  唖然とする俺と二之宮を置き去りにし、白井は裏声のまま続ける。頬を揉んでいた指先を今度は肉の柔らかさを味わうように頬肉にゆっくりと沈めた。  隣のテーブルで起こる気色悪い事件に、俺は開いた口が塞がらなかった。俺の向かい側に座る二之宮はテーブルに視線を伏せたまま沈黙している。 「あの、ちょっと……」  眉を下げ、困惑を隠せないでいるのは同じクラスの能瀬(のせ)だ。長い睫毛の奥で瞳に戸惑いと不快の色を滲ませている。 「だめぇ?」  飴に砂糖をぶち込んでさらに煮詰めたような甘く粘った声が俺の鼓膜を直撃した。首筋にぞわぞわと悪寒が走り抜ける。  テーブルに身を乗り出していた白井は椅子に座り直すと、上目遣いで能瀬をじっと見つめ、唇を尖らせた。拗ねるその姿は、まるで母親の気を引こうとする二歳児だ。 「……あの、僕に聞いて欲しい話があるんだよね」  遠慮がちに言う能瀬の声には不審感が含まれていた。薄茶色の瞳が隣の席の俺達を見やる。俺と能瀬は同じクラスだが、ろくに話をしたことがない。突然の来訪者が顔見知り程度だったら用心するのは当然だろう。  ついてこいと言う白井に俺達は従った。絶望的に退屈な反復現象を謳歌する白井に興味が湧いたのだ。それと、もしかしたら、この現象から脱出する手がかりを得られるかもしれないと、一抹の望みを持ったのだ。白井に期待したことを後悔するとは知らずに。 白井に連れられたのは大通りから外れたエリアに構えた喫茶店だった。到着したのは午後八時、五分前。夕陽は沈み、細い路地では蛍光灯が路面を照らしていた。  出迎えた店員に空いている席へ促された白井は真っ直ぐに窓際の席へ向かった。俺達に気が付いたのか、レトロ風の照明の下で優男が顔を上げた。 同じクラスの能瀬修哉(のせしゅうや)だった。帰宅途中なのだろう、紺色のネクタイを固く結んだままだった。  ぞろぞろと現れた俺達に能瀬は戸惑いの眼差しを向けた。ただのクラスメイトがいきなりぞろぞろと現れたら、身構えるし、迷惑だろう。そんなことはおかまいなしに、白井は「こいつらがさぁ、お前に会いたいって言うから連れて来てやったんだ」と調子に乗った態度で能瀬の反対側の席を無断で引いた。  俺は能瀬に許可を得てから、足元の荷物置き場にリュックを詰め込み、隣の席に座った。 白井は呼び出した店員に飯を注文した。能瀬は飲み物だけを頼んでいるようだった。能瀬に合わせ、俺と二之宮も飲み物を頼んだ。  店員が戻った後、沈黙が訪れた。会話の糸口が見当たらない。向かいに座る二之宮は無表情を崩さなかったが、能瀬は伏し目がちのままだった。なんとも気まずい空気だ。この状況を作った張本人が取り持つべきではないか、そんな俺の思いが通じたのか、白井が動いた。  奴は身体をくねくねと捩らせた。「もぅ、なに硬くなっているんだよぉ」と甘ったるい声を上げるなり、能瀬へ手を伸ばした。  そして、頬の膨らみを摘んだのだ。 「聞いて欲しい話……なんだっけ?」  白井は額に皺を拵えた。とぼけ顔で能瀬からの質問をはぐらかす。 「鬱気味だから話を聞いて欲しいんだよね」 「ああ、そうだっけ。その話は終わったから、もういいんだ」 「ついさっきの話だよ。約束があるから今日は会えないと言ったら、鬱気味だから話を聞いて欲しいと言い出したよね」 「だから、終わったんだって。それよりさぁ、修哉は可愛いよなぁ」  上機嫌な笑みのまま強引に話を進める白井に能瀬は怪訝そうに眉を顰めた。  どうやら、白井は能瀬に好意を抱いているようだ。能瀬は迷惑がっているが。  先程、ガードレールに座りながら連絡を取っていたのは能瀬だったのだろう。断られた白井は能瀬の良心につけこんで無理矢理に時間を作らせたようだ。なんて、卑怯な奴だ。 「言われるだろ、可愛いって。その綺麗な二重瞼がいいよね。ここにいる女子よりずっと可愛いよ」  周りに聞こえるようにわざと大声を上げた。白井の背後の席に座る女性がこちらを一瞥する。 「失礼だよ。あと、大きい声を出さないでよ」 「オレ、はっきり言うのが好きなんだよねぇ」  慌てる能瀬の姿が面白いのか白井はニヤニヤと笑っている。俺は不快感に眉根を引き寄せた。 「おい、いい加減にしろ。周りの迷惑だ」  音量を絞った低い声を投げつけた。 「言いたいことを言いたいように言ってるだけだ。相手の気持ちを考えずにな」 「なんっ……んぐぅ」  反論に出ようとした白井を制したのは沈黙を貫いていた二之宮だ。 無言のまま腕を伸ばし、大きく開かれた口を掌で覆う。 「連れてゆくよ。悪いけど代金は払っておいてくれ。お金は合流した時に返す」  二之宮は簡潔に告げた後、無駄の無い動きで、喚く白井を外へ引き摺り出した。 白井を睨めつける周囲に、俺は申し訳ない気持ちで一杯になった。騒ぎを起こした張本人ではないとはいえ、周囲からすれば一緒にいた俺は仲間と見做されているだろう。さっさと退散したいところだが、そうしなかったのは、隣の存在が気掛かりだったからだ。 「ありがとう。助かったよ」 「いや、こっちが悪かった。急に押し掛けるわ、騒ぐわ」 「ううん。君は悪くないよ」  優しい笑顔を浮かべたまま能瀬は小さな頭を振るう。一つ間を置いたあと、冗談っぽく睨みつけてきた。 「ただ、友人は選んだ方がいいかも」  一緒にいたからだろう、俺を白井の仲間だと勘違いしたらしい。 「友達じゃない。たまたま会ってさ。ついて来いっていうから、とりあえず、ついてきた」 「……あぁ、それは災難だったね」  同情の眼差しを向けられ、俺は短髪を掻いた。 「お前程、酷い目に遭ってねぇけど。それにしても、とんでもねぇ奴だったな」  顔を顰める俺に能瀬は薄茶色の瞳に悪戯っぽい光を輝かせた。 「話のネタにはなるね。『戦慄・赤ちゃん返り男』って」  キャッチコピーに思わず吹き出した。面白い奴だ。 「お前、残るの?」 「うん。待ち合わせをしているからね。僕のことは気にしないで」  能瀬は爽やかな笑みを唇の端に添えていたが、気まずい空気の中、一人取り残すのは心苦しかった。 「あー、でも腹が空いているから飯でも食って行こうかなぁ」  待ち合わせの相手が現れるまでここに残ろうと決意した俺はメニュー表を開いた。  俺の思考を読んだのか、能瀬は「ありがとう」と目尻を垂れ下げ、いかにも人がよさそうな笑みを向けた。なんというか、能瀬には優しくしてやりたかった。 反復現象が始まる一ヶ月前。俺は、人気のない教室で能瀬が男とキスしているのを目撃した。相手は同じクラスの奴だった。 目撃者は俺以外にもいたらしく、噂はあっという間に広まった。一部は陰で中傷していたが、大半は他人事だと聞き流すか傍観していた。皆の前で二人を嘲弄したのは白井ぐらいだろうか。冷やかされるのを嫌がったのだろう、相手の男は能瀬を避けだした。 俺は人のセクシャリティを笑いものにする白井を嫌悪するのと同時に能瀬を励ましてやりたいと密かに思ったが、首を突っ込むのも野暮であろうと判断し、そっとしておくことにした。  俺の意識を回想から現実へ引き戻したのは、鼻腔を掠めるスパイシーな香りだった。 「大盛りカツカレーです」  白井の注文した飯が運ばれてきた。  食欲を誘う匂いに俺の腹がグゥと鳴る。思わず隣を見ると薄茶色の瞳と視線が合った。  能瀬は華奢な指を口元に添え、小さく吹き出した。 「よかったら、どうだい。さっきのお礼に奢るよ」  温厚そうな笑みに、好意を無下にするのも悪いと思い、俺は礼を告げると席を移動した。 「いただきます」  スプーンでカツを切り分け、ドロッとしたとろみのあるルーと一緒に口に運んだ。口の中でサクッと乾いた音が上がり、深いコクが舌にじわりと広がる。 「美味しいでしょ。ここは注文が入ってからカツを揚げてくれるんだって」 「そうなんだ。すげぇ美味いわ」  夕飯を食べていなかったせいか、咀嚼をしているうちに食欲がわいてきたせいか、俺は食事に夢中になった。気遣いからだろうか、能瀬は話し掛けてこなかった。  カランと氷の涼やかな音が鳴って、俺は視線を移した。  能瀬はそっとグラスをコースターの上に戻すと、待ち合わせの相手を待っているのだろう、視線を窓の外に向ける。  つられて俺も外を眺めた。電柱の蛍光灯のもとを歩く二人組の女性が一瞬立ち止まった。再び歩き始めたかと思いきや、振り返って、こちらを見やる。正確に言うと、能瀬に熱い視線を注いでいた。 俺はカレーを食べながら能瀬を盗み見した。  長い睫毛に縁どられた大きな目。つんと尖った鼻先。上品に整った薄い唇。卵型の輪郭の中に美しいパーツがバランスよく配置されている。背は俺より低いが、手足は長く、均整の取れた身体はモデルのようだった。 清楚な美少年が窓際に座っていたら、誰だって立ち止まりたくなるだろう。  俺は背が高く、顔も整っているため告白を多く受けてきた。だが、所詮はクラスで二番目に見目良い程度だ。能瀬の前では霞んでしまう。 「なんだい?」  じっと見過ぎようだ。俺の視線に気が付いた能瀬はかたちの良い唇に笑みを浮かべた。  清潔感のある前髪が揺れ、微かなシャンプーの匂いが散る。 「……え、えっと」  観察していたとは言えず、俺は間抜けな声を出しながら話題を探した。目に留まったのは能瀬のスマホの液晶画面だ。待ち受けが話題のマンガのイラストだった。 「それ、好きなの?」 「うん、好き。更新する度にトレンド入りするから、どれだけ面白いのか読んだらハマったよ」 「だよなー。怪獣対防衛隊って、ところでもう熱いよな」 「うん、熱い。あと、夢敗れた主人公が仲間の熱意に当てられて再び夢を追うってところが熱かった」 「そこ、泣いたわぁ。感動して、全巻揃えた」 「僕も。あっという間に読み終えなかった?」  同じタイミングで一呼吸したのは無意識だった。 「「体感十秒」」  二人の声が重なった。俺達は笑い合った。 「好きなキャラは誰だい」 「主人公。熱い漢ってところが良い」 「何度でも立ち上がる」 「そう! そこ」  的確な意見に俺は拳を握りながら頷いた。 「お前は、副隊長?」 「そう。待ち受けにするくらい好きなんだ。二刀流ってところがいい」  共通の話題に会話が次々と溢れた。  能瀬は癖がなく、柔和な雰囲気も相まって話しやすい。誰とでも友達になれるタイプだろう。 「お客様、ラストオーダーのお時間です。追加注文はございますか」  伝票を手にした店員に能瀬はそろそろ退店する旨を伝えた。   腕時計を見ると午後九時半を回っていた。一時間以上も話し込んでいたらしい。  ガラス張りの壁の向こう側では、夜が深くなっていた。 「待ち合わせの相手、遅いな。何時に待ち合わせしてんの」 「それがさ、七時なんだ」  能瀬は苦笑した。二時間半も遅刻しているではないか。笑っている場合ではない。 「え、連絡は?」 「したんだけどね。返信はない」    微笑みは絶やさないが、長い睫毛に沈む瞳に寂しそうな光が帯びるのを俺は見逃さなかった。特別な人なのだろうか。友人だか、恋人だか、誰だか知らないが、早く来いよ。悲しすぎるだろう。来ない相手を待ち続けるなんて。 「……待ち合わせ場所を間違えたとか」  元気づけてやりたかったが、気休めしか出てこない。無力感に唇を噛む。 「だったら良かったんだけどね。七月十日の七時に、この場所で待ち合わせしてる」  優しい笑顔の能瀬に反して俺は眉間に皺を刻んだ。 「……え、七時? 七月十日の七時?」 「そうだよ。十時までしかいられないから、それまで待とうと思ってる」  瞳に寂しい光を揺らしながら、能瀬は微笑んだ。 「悪い。二之宮達に用があるんだ。ああと、これ、俺達の飲食代な」  財布から取り出した千円札をテーブルに置くと俺は荷物置き場から素早くリュックを引っこ抜いた。  認めたくはない。認めたくはないが、白井のおかげで解決の糸口を掴めた。

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