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第9話
金切り声で泣き叫ぶ子供、大笑いする大学生グループ。賑わう店内の座席は半分が埋まっていた。交差点付近のハンバーガーショップは夕飯時のため混雑していた。
「能瀬は野田を待っていたのか」
一人掛けの席に俺と並んで座っていた二之宮が呟いた。その横顔は相変わらず表情の色がなかった。
俺はストローから口を離した。トレイの上にあるのはコーラのカップのみだ。夕食の時間帯であるが食欲は無かった。一つ前の時間帯で能瀬を映画に誘ったが断られた。それが尾を引いている。
「ああ。野田と映画を観る約束をしていた。待ち合わせは『シネマ・スペース』前の喫茶店だ。でも能瀬がいるのは『シネマ・エックス』前の喫茶店だ」
力のない声で俺は二之宮に返答した。
「劇場の名前が似ているね。ややこしい」
「喫茶店だけど、両方の劇場前に同じのがあるんだ。チェーン店だから。似た劇場名に、同じ喫茶店。これは間違えるな」
能瀬は抜けているところがあるし、と付け加えた後、俺はコーラを飲んだ。二之宮はポテトを口に放り込む。
「能瀬は野田が好きだった。というより、両思いだった。一ヵ月前か。二人が噂になったのは」
俺は黙ったまま頷いた。
それは、木の葉が青々と茂る六月初旬に起きた。放課後の人気のない教室で俺は目撃した。窓から差し込む夕日に照らされた能瀬と男がキスをしているところを。逆光で相手の表情までは見えなかったが、あの大柄な体躯は野田だ。
目撃者は他にもいたらしく、あっという間に噂は広まった。一部は陰で侮辱していたが、大半は無関心に聞き流すか傍観していた。「あいつらホモだぜー」と表立って囃し立てたのは白井くらいだった。屈辱に耐えきれず野田は能瀬と距離を置くようになった。
「野田に目星を付けていたけど、予想通りだったな」
そう呟いた俺に二之宮が続けた。
「二人を引き合わせよう」
「どうやってだよ。連絡先を知ってんのか?」
「いや、知らない」
二之宮は首を横に振るう。
「が、心当たりがある。『シネマ・スペース』前の喫茶店に行ってみよう。野田はそこで能瀬を待っているかもしれない」
「そんなはずないだろ」
「何故だい?」
「何故って、野田は言ってただろ。皆の前で白井に揶揄われた時に『見間違いだ』ってさ。能瀬との間に壁を作っているようだったし、疎ましく思ってんだ。あいつは来ない」
そうであってくれ。心の奥底でもう一人の俺が地に膝をついて必死に懇願している。
「ずいぶん、否定的だね」
真っ黒な瞳が俺を見据える。心中を見透かされたような気がして俺は肩を竦めた。
「そんなことねぇけど」
俺は顔を伏せたまま顎を掻いた。二之宮を直視できない。
「なら、行こう。反復現象を終わらせなければ」
二之宮は空になったトレイを持ち上げ、席を立った。
『シネマ・スペース』は大通りから脇道に入り、坂を少し上がった場所にあった。二之宮のスタート地点である書店の裏側に存在していた。
劇場の反対側に喫茶店はあった。待ち合わせ場所の店と同じチェーン店だ。
「今は七時四十分。待ち合わせの七時には遅刻しているが、映画は八時からだ。まだ待っているかもしれない」
そう言いながら二之宮はガラス扉を押した。
狭い店内の角席に大柄な男はいた。
……いんのかよ。
俺は肩を落とした。
野田はソファ席に足を大きく広げて座っていた。接近する俺達に気が付くと、頬杖をついたまま視線を上げた。
「なんだ、お前ら」
短い前髪のした、研ぎ澄ました鋭い眼光で俺達を睨めつける。
猛禽類を彷彿させる鋭い目つき、特徴的な鷲鼻、引き締まった唇。顔は陽に焼けて真っ黒だが、精悍な造作は一眼で分かる。
青いワイシャツから出る、筋肉が隆起した腕には血管が浮かび、胸板はぶつかったらこちらが跳ね返りそうな程、厚く逞しい。生命力と闘志に満ちたオーラを纏う筋骨逞しい巨躯はラグビー部のエースらしかった。
「急にすまない。話がある」
「あんだよ」
静かに尋ねる二之宮に野田は険しい顔を向けた。ガタイもでかいが、態度もでかい。
「君、能瀬と待ち合わせしてるんだろう?」
「……そうだけど」
雄々しい眉を寄せ、怪訝な表情を示した。
「能瀬、待ち合わせ場所を間違えているみたいなんだ。別の場所で君を待ってる」
「はぁ?」
「さっき『シネマ・エックス』前の喫茶店で能瀬と会った。君を待っていると言っていた」
「またかよ」
野田は短く刈った黒髪を掻いた。
「あいつ、しょっちゅう間違えるんだ。この間は通り過ぎていることに気が付かないでホテル街に辿り着いた」
『この間さ、映画館に向かったんだけど、なかなか辿り着かなくてさ。すごく焦ったんだよね。……通り過ぎてた』
『一緒にいた友達が案内してくれた。そいつ、僕が道に迷ってるのに気が付いていたんだ。でも、面白いから黙ってたんだ。ホテル街前まで来ちゃって、そいつは大爆笑してた』
能瀬の笑顔が蘇る。会話に登場する相手は野田だったのだ。仲睦まじい二人の姿が俺の頭の中を独占する。
胸の底がチリっと焦げついた。ぐっと唇を固く締める。
「連絡しないの?」
「これだ」
スラックスのポケットから取り出してみせたのは、スマホだ。真っ暗な液晶画面には蜘蛛の巣が張り付いたようなヒビが入っている。
「バキバキだね」
「人身事故で駅が混んでるだろ。押されて落とした」
野田はうんざりした顔を浮かべた後、二之宮に視線を戻した。鋭い眼光が一際強く煌めいた。真剣な眼差しを無表情の二之宮に注ぎながら静かに唇を開く。
「修哉は俺を待ってるんだな」
「ああ」
短い返答に野田は口元を綻ばせた。黒い瞳から刺々しさが消え、滾る情熱が溢れ出す。
「助かった」
野田は一言礼を告げ、スクールバッグを肩に掛けた。忙しない様子に早く能瀬に会いたいのだと伝わってくる。
能瀬と会う。能瀬と会うのだ。
胸を燻っていた炎が、ぼっと音を立てて一気に燃え盛った。赤々とした火柱が火の粉をまき散らしながら俺の理性を焼き尽くす。
「情けねぇ奴」
俺は衝動的に口走っていた。挑発めいた口調に入口へ向かおうと背を見せていた野田が振り返った。
「お前は見間違いだと周りに言い訳してたよな。あれ嘘だろ。必死に隠しちゃって、情けねぇな」
やめろ。やめるんだ。警報が鼓膜の奥でけたたましく鳴り響いたが、もう一人の自分が搔き消した。
能瀬とキスをする。能瀬とセックスする。 他の男のものになる。
……嫌だっ。
それだけは嫌だ。嫉妬と独占欲が俺の理性を黒く塗り潰した。
「んだと」
野田は鋭い眼を眇めながら俺に詰め寄った。
目線が俺よりも少し高い。凄まじい威圧感に気圧されまいと俺はその場で踏ん張った。
「そもそも、お前が悪いんだろうが」
憤怒を孕んだ低い声を聞いた奴は萎縮するだろう。だが、俺はそれどころではなかった。野田の発言を咀嚼しきれず、眉間に皺を寄せ、疑問を示す。
「お前が俺達の仲をバラした」
「え?」
「なにを惚けてんだ。お前は俺達を見た。それを周りに喋っただろ。白井の耳に入って、あいつが言い回った」
「…………」
「白井が言っていたぞ。中村が見たと」
一ヵ月前、人気のない教室で確かに俺は見た。野田と能瀬がキスを交わすのを。
そして、喋った。昼休み中の生徒が大勢残る教室で。相手は仲の良い連中だった。三人程度だから問題ないかと思い、口にした。ただの話のネタのつもりだった。「それで、それで」と興味津々に話に割り込んだのが白井だった。白井は詮索好きで面倒事を起こしそうだから俺は余計な事は言わずに適当にあしらった。
面倒な奴の耳に入ってしまったのだ。頭が真っ白になる。
「俺も修哉も侮辱されたんだぞ」
「俺は仲間内にしか喋ってない。言い広めたのは白井だし、お前らを揶揄ったのも白井だ。悪いのはあいつだ」
「場所は教室で皆がいた。お前が暴露したんじゃねぇかっ」
「ほとんどの奴は気にしてなかった。お前も気にしなければいいだろ」
喉を絞って言い返すと、野田が唇を捲った。滾る憎悪と激怒が歪められた瞳から迸る。
「んだとっ」
岩のような拳が振り上げられたと認識した、次の瞬間、パキッと乾いた音が鼓膜に響いた。胸糞が悪かったが、何が起きたのか理解できないまま俺の目の前は暗闇に覆われた。
意識はそこで途切れた。
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