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第10話

 簡易トイレと水飲み場が設置されただけの裏通りの公園は侘しい印象だった。 「はい」  中央に配置された錆びたベンチに腰掛ける俺にコーラを差し出したのは二之宮だ。 礼を言い、受け取った後、一口飲んだ。炭酸が舌の上で弾ける。  野田に殴られた後、俺はスタートに飛ばされた。どうやら気絶するとスタートに飛ばされるらしい。この手のジャンル作品は主人公が死ぬとスタートに戻る設定が用意されていたりする。気を失うとスタートに戻るのも無理な話ではない気がした。  リプレイ直後の俺に連絡を寄越したのが二之宮だ。スマホの画面に裏通りの公園で待ち合わせしようとあった。 「最低だね、君」  俺の隣に座ると、二之宮は感情を欠いた横顔を向けたまま続ける。 「野田を煽った。それに、白井が悪い、気にしなければいいか。最低だ。人のプライバシーを本人の同意なしに話した。誰が聞いているか分からない教室でだ。気にする気にしないのは本人が決めることだ。それを君は気にしなければいいと主張する。虫唾が走る」  俺は居た堪れない気分のまま掌の中でペットボトルを転がした。自分の迂闊さに臍を噛む。 「……お前の言う通りだよ」 「分かっているなら何故やった」 「分かるだろ?」  ベンチにもたれ掛かり空を仰いだ。茜色の空には青みが混じり、夜の気配が漂っていた。 「能瀬に惚れている」 「そうだ。他の男とセックスするって考えたら冷静でいられなかった。あとは、買い言葉に売り言葉」  一つため息をついた後、短い髪をバリバリと掻き毟った。 「二人に合わせる顔がねぇっ」  俺は背を丸め、頭を抱えた。能瀬の顔を思い出そうとしたが、脳裏に浮かぶ微笑みはペンキを塗ったように白く潰されていた。もう一人の自分が思い出したくない、罪悪感に圧し潰されそうだと叫ぶ。 「二之宮」 「嫌だ」 「まだ、なんも言ってねぇよ」 「僕に任せる気だろう?」  身を起こして、二之宮を見ると、黒い瞳と視線がかち合った。氷の膜が張られたような冷たい瞳だった。 「後ろめたいことから逃げるな」  声は平坦だったが、短い言葉は短剣のような鋭さで俺を切りつける。  痛みに俺は顔を顰めた。 「中村、分かった気がするんだ。何故、僕達がこの現象に巻き込まれたか」  ぐぅの音も出ない俺を気に留めずに、二之宮は事務的な口調で続ける。 「二人の仲を裂いたから罰が下った。君は暴露し、白井は吹聴した上に嘲笑した」 「え、二之宮はなにもしていないだろ?」  重たい癖毛を揺らしながら二之宮は首を横に振るう。 「傍観は無実ではない。僕達が間違えた。僕達の手で正すべきだ」  黒い瞳がこちらを真っ直ぐに見据える。瞳には鋼に似た強固さがあり、彼の意志の強さを物語っていた。  自分を見つめる瞳から俺は視線を逸らした。 決断できずにいる俺に二之宮は冷たい声で追撃を食らわせる。 「好きなら相手の幸せを考えるべきだろう」  完膚なきまでに叩きのめされ、俺は言葉に詰まった。  言い返すことができず、俺は二之宮に従うしかなかった。二人を引き合わせようと、俺達は裏通りを出ると、俺は能瀬のもとへ、二之宮は野田のもとへ、それぞれ向かうため途中で別れた。  能瀬の待つ喫茶店へ向かう足取りは重い。自分達の過ちは自分達で正すこと、大切な人を思いやること、二之宮の言い分は正しい。正しいと思うが、そう簡単に気持ちは切り替えられない。  後ろめたいことから逃げたいし、能瀬が野田とくっつくのは耐え難い。 では、どうしたいのか。俺の失態を水に流して欲しい。それから能瀬と付き合いたい。 最低だ。そんな自分に嫌気がするが、それが正直な気持ちだった。  逡巡する俺の意識を現実へ引き戻したのは、駄々を捏ねる声だった。癪に障るその声に聞き覚えがあった。  喫茶店と同じエリアに構えるホテル前で黄色いキャップを被った男が喚き散らしていた。 「いいから、いいから、いいからっ」  白井は華奢な腕を引っ張り、相手を強引にホテルに連れ込もうとしていた。 「離せよっ」  二の腕を掴まれていた能瀬は腕を大きく振るい、白井の手を払った。 「店で騒ぐわ、ホテルに連れ込もうとするわ、なんだよっ」 「彼女が浮気してたんだ。小汚いおっさんとホテルに入るのを見た」  俺は絶句した。 白井の彼女が他の男と歩いていた目撃情報は二之宮が咄嗟についたデマカセだ。まさか真実になるとは。 「傷ついてるんだよぉ。ちょっとくらい優しくしてくれたっていいじゃん」 「知らないよっ」 「冷たいっ、冷たいっ」  白井は唾を飛ばしながら能瀬に不当な非難を浴びせた。 身勝手すぎる言い分に俺は空いた口が塞がらなかった。 「お願いです。ヤらせてください」 「白井っ、なにやってんだよ。お前っ」  路面に額を擦り付け土下座する白井の襟首を掴むと、力任せに後ろへ引っ張った。  反動で、白井は鈍い音を立てて尻餅をついたが、すぐに獣の姿勢で地面を這いつくばり、能瀬にしがみついた。膝立ちの状態でスラックスをひしと握り、能瀬の腹に顔を埋める。プライドは捨てているようだ。 「オレ、修哉のことが好きだったんだよ。な、一回だけ。頼むよぉ」 「嫌だよ」  冷酷に言い捨てられた白井はさらに泣きじゃくった。 「そんなふうに言うなよぉ。本当に好きなんだよぉ。優しくて、綺麗で。ずっと、いいなぁって思ってたんだよぉ」 「無理」 「好きなんだよぉ。お前といると癒されるんだよぉ」 「無理」 「無理、無理、じゃなくて、どうやったら付き合えるか方法を考えろよぉ」 「無理」 「うわぁぁぁぁん」  無慈悲な言葉で打ちのめされ、白井は顔を歪めて大号泣した。泣き声が道路に響き渡る。 「いい加減にしろよっ」  俺は渾身の力を込め、泣いて縋る白井を突き飛ばした。強引に引き剥がされ、白井は路面に寝転ぶ。仰向けになった白井の胸倉を掴み、泣きっ面を怒りに滾る瞳で睨みつけた。  好きだと言いながら、相手の気持ちを無視して、自分の気持ちを一方的に押しつける。そんな輩に人を好きになる資格はない。 胸倉を掴む拳が戦慄いた。 「好きなら相手の幸せを考えろっ」  憤慨する俺の脳裏に蘇ったのはメリハリのない冷たい声だった。 『好きなら相手の幸せを考えろ』  悔しいが二之宮の言う通りだ。今なら心からそう思う。心からそう言える。 「そいつを笑顔にして、その笑顔を守りたいと思わないのかっ」 「だったら、オレと付き合ってみればいい。オレの良さが分かる」 「……っ、お前」  ニヤリと不敵に笑う白井に俺は拳を震わせた。馬鹿は死ななきゃ治らないとは、こいつのことを言うのだ。 「修哉っ」  呼び声に振り向くと、筋骨逞しい大男がこちらに駆け寄る。大男を追うのは二之宮だ。 「……健ちゃん?」  能瀬は驚愕に目を瞠った。瞬きを忘れ、薄茶色の瞳が信じられないといった表情を浮かべる。 「どうしてここに?」 「映画を観る約束してただろ。二之宮がここにいると教えてくれた」  息せき切りながら野田は背後を指差した。二之宮は膝に手をつき、肩を弾ませている。 「来るのが遅いよ」 「待ち合わせ場所を間違えたのはお前だ」  怒りの口調の能瀬に野田は苦笑を返した。 能瀬は慌てる手つきでポケットを探った。チケットに記載された劇場名を目にした途端、あっ、と声を上げた。 「ごめん」  両手を合わせ恥ずかしそうに詫びる能瀬に野田は首を振った。 「いや、謝るのは俺だ。揶揄われるのが嫌でお前を突き放した。俺が馬鹿だった」  慎み深い声色は尊大な野田に似つかわしくないものだった。 「許してくれるか」  謙虚と真摯な視線を能瀬へ注ぐ。 その視線を薄茶色の瞳がじっと見返した。白い頬がみるみる紅潮し、熱い涙が瞳に湛えられた。そして、静かに微笑んだ。  熱を帯びた表情。それは、俺の知らない顔だった。ぐっと胸が締め付けられる。 「付き合っている奴がいるんだよな」 「そんな奴いないよ」 「え、でも、お前。付き合っている奴がいると言っていたよな」 「ただの強がりだよ」  悲観する野田に能瀬は涙目のまま腰に手を当て、少し怒った声色で言う。能瀬をしばらく見つめた後、野田は安堵の息を溢した。 「なんだよ、それ。俺、すげぇ泣いたんだぞ」  悪ふざけのように「この野郎」と能瀬の頭を大きな手でぐしゃぐしゃに掻き回す。  ああ、惚れてんだな。お互いに。  悪友のような、恋人のような。そんな特別な関係を示す二人から俺は視線を逸らした。 胸がずきずきと痛む。これでいいのだと言い聞かせるが、傷口が塞がるには時間が必要である。  余韻をぶっ壊したのは大袈裟に絶望する声だった。 「あー、やっぱり顔かよっ」  尻をついたまま頭を抱えるのは白井だ。 「やっぱり顔で選ぶんだ。修哉はそんな奴じゃないと思っていたのに、がっかりだわぁ。騙されたわぁ」  八の字にした眉の下で、傷ついたように瞳が震える。こちらの罪悪感を刺激しようとしているのだろう、まるで叱咤された子供のように、上目遣で怯えの視線を俺達に注ぐ。  被害者面を冷ややかな視線で貫いたのは能瀬だった。 「いや、性格も見ているよ」  まるで雷に打たれたかのように身体が硬直した。容赦ない残酷な言葉に打ちひしがれたようだ。目と口をあんぐりと開ける白井に能瀬は冷然と言い捨てる。 「自分が最優先。他人は自分の欲望を満たす道具。ないね、絶対」 「や、やめろっ」  顔を真っ赤にした白井が吠え猛る。が、能瀬の表情は冷ややかだった。  俺は目を丸くした。 「……言い返さないタイプかと思ってた」 「……いや、修哉は本人に言い返さないと気が済まない性格だ」  俺の呟きに答えたのは野田だった。  固い表情から少しビビっているのが伝わってくる。 「相手に気を遣える奴は、相手に致命傷を負わせることもできるんだ」  感情の篭もらない声で、そう続けたのは二之宮だ。温度のない瞳で二人を眺める。  二之宮の言葉に俺と野田は黙って頷いた。 「わぁぁぁぁぁ。優しい奴だと思ってたのに、騙したなっ。嘘つき、嘘つきっ」  追い詰められた白井は大泣きしながら路面のど真ん中で大の字になった。 「優しくないっ、優しくないっ、優しくなぁぁぁぁぁい」  涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら幼児のように手足をばたつかせる。 「すみません。静かにして貰えますか」  呆れ果てる俺達に困惑の声を投げたのは中年の女性だった。ホテルの向かい側のマンションの窓から困った面持ちでこちらを覗いている。俺が謝罪すると、女性は窓を閉めた。その弾みで、ベランダに置かれた植木鉢が大きく傾いた。無音で落下するのを俺は唖然と見ていた。危ない、と忠告するのが遅れた。  ガシャン。  不気味な物音に俺達は反射的に身を屈めていた。辺りが静まり返り、不吉な予感に胸がざわざわと騒ぐ。白井の泣き声がぴたりと止んでいる。 俺は恐る恐る目を開けた。  植木鉢は粉々に砕け、赤茶色の土が白井の頭を覆っている。気絶したのだろうか、指先一つ動かない。  風が吹いて、丸い物がコロコロと俺の足元に転がって来た。 「「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」」  俺達は一斉に叫び、腰を抜かした。  派手な黄色いキャップには血飛沫が飛び散っていた。

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