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第11話
僕は頬杖をついたまま黄昏を眺めていた。ガラス張りの壁から喫茶店に面した細い路地が見える。赤々とした夕日が地面にわだかまる電柱の影を濃くさせた。
テーブルに置いたスマホの液晶画面に映る時刻は午後七時ちょうどたった。約束の時刻だが健ちゃんが現れる様子はなかった。
僕と彼が話すようになったのは二年に進学してすぐのことだった。クラスの座席は五十音順の出席番号で座るため、必然と健ちゃんは僕の後ろの席となった。
「すげぇ、女顔」
「悪人面」
最初に交わした台詞だ。今でも覚えている。遠慮も配慮もなく言ってきたから、僕も遠慮も配慮もせずに言い返した。「お前、大人しいタイプかと思ってた」と悪びれる様子のない彼に「本人に言い返さないと気が済まない性格だよ」と返答した。健ちゃんは口角を上げて笑った。
健ちゃんはラグビー部に所属していた。朝練に疲れ果て、授業中はいつも居眠りをしていた。僕のノートをよく借りるのだが、あるとき、返却するノートと一緒にお菓子をくれた。それは僕が好きだと話したお菓子メーカーのグミだった。覚えていたらしい。律儀なところがあるようだ。
時間を共有していくうちに健ちゃんの存在が僕の中でかけがえのない存在となっていた。
「この映画、気にならない? ジーンズに悪霊が乗り移って人を殺しまくるの」
「観るぞ」
誘うといつも即答してくれるところ。
「僕が道に迷ってるって、気が付いているなら教えてよ」
「ははは。どこまで行くか面白いから見てた。まさか、ラブホ街まで行くとは」
たまに意地悪になるところ。
彼と一緒に過ごすと心が満たされている。だが、すぐに渇きを覚えるようになった。
逞しい身体に腕を絡めたい、その腕に抱きすくめられたいと渇望するようになり、ああ、彼が好きなのだと僕は自覚した。
健ちゃんはどうなのだろうかと彼の心中を知りたいと思うようになったが、同時にこの関係を壊したくないと臆病にもなり、一歩も踏み出せないでいた。
そんな僕に事件が起きたのは今から一ヶ月前の事だった。
委員会が長引き、終わったのは最終下校直前だった。
教室に戻ると紅い夕日を背景に健ちゃんは机の上に腰掛けていた。
「俺も部活が終わったところ。お前の鞄がまだあったから」
足を大きく広げ、机に後ろ手をついたままそう答えた。
待っていてくれたのが嬉しかった。毎日顔を合わせているが、少しでも一緒にいたい。教室には僕達しかおらず、放課後の教室に二人きりというシチュエーションがさらに僕の心音を高鳴らせた。
「お前これ好きそう。アメリカゾンビとロシアゾンビが大決闘すんの」
帰る準備をし終えた僕に健ちゃんは映画のチケットを渡してきた。大量のゾンビが牙を剥いている。
「やばいだろ、これ」
「うん、やばい。設定からして最高だね」
僕達の笑い声が教室に反響した。
「七月三日から十日まで一週間限定公開するらしい。十日なら部活が早く終わるから学校帰りに行かないか?」
僕は頷いた。
「上映は一日一回だけ。夜の八時からだ」
「じゃあ、七月十日の夜七時に映画館の目の前にある喫茶店で待ち合わせしよう」
短く返事をした後、健ちゃんは机から降りた。広い背中を見せて「行くぞ」と続ける。
「ねぇ、健ちゃん」
呼び止めると健ちゃんが振り返った。僕は一瞬、躊躇したが、心に留めていたことを口にした。
「好きな子はいないの」
ずっと聞きたかった。いや、質問することで僕を意識して欲しかった。
唐突な質問に健ちゃんは一時停止した後、気丈夫な彼らしくもなく顔を伏せてしまった。僕も視線を伏せ、黙って答えを待った。沈黙が降りてきた。
迷惑だったのだろうか。不安に煽られ、視線を上げた。僕は呼吸を止めた。
情熱に燃える瞳が真正面から僕を捉える。あまりの熱量に僕は瞬きを忘れ、情熱的な視線を見つめ返した。
武骨な手がガラス細工を扱うような繊細な手つきで僕の頬をそっと包んだ。熱い吐息を漏らす唇が戸惑うように寄せられる。僕は静かに瞼を閉じた。
熱が触れたと思えば、すぐに唇は離れた。
健ちゃんは「行くぞ」と背を翻した。
心臓の音が鼓膜に直接聞こえてきた。顔から火を噴く程、恥ずかしかった。
その日のことは記憶にない。その後、一緒に帰ったが、どんな顔をして、どんな会話をしたのか覚えていない。
触れ合うだけのキスだったが、吐息の熱がいつまでも唇にじんと残っていた。
健ちゃんも同じ気持ちだと思うと、充実感が胸の奥から波状に広がり、頭の頂から足先まで熱く満ちる。これが幸せというものかと僕は幸福感を胸に抱いたまま眠った。
だが、その日を境に健ちゃんは話し掛けて来なくなった。
同じクラスの中村が僕達のキスを目撃していたのだ。それを聞きつけた白井が「あいつらはホモ」とクラス中どころか隣のクラスにまで言い回った。蔑称を連呼されるのは不快だったが、僕は無視をした。相手を理解する気が無い奴に何を言っても無駄だ。こちらに非はないと僕は毅然としていたが、健ちゃんは違った。
「見間違いだ。黙れ」
下卑た声で騒ぐ白井を睨みつけながら恫喝するように言い捨てた。人一倍プライドが高い彼のことだから耐え難い屈辱だったのだろうか。キスを無かったことにされ、悲しかったが、悪いのは白井だと自分を納得させた。
後ろの席から聞こえてくる健ちゃんとクラスメイトの会話は僕を虚しい気持ちにさせたが、話し掛けてくるなとオーラを飛ばされ、僕は健ちゃんと距離を置かざるを得なかった。
いつも隣にいてくれたのに、遠く手の届かない存在になってしまったようで辛かった。
数日すると健ちゃんから連絡があった。
スマホの画面に短い文が届いていた。
『休日は会おう。ただ学校では話し掛けるな』
自分勝手な言い分に僕は唇を噛んだ。
『僕を恥じているんだね。君からキスしておいて、それはないだろう』
返信はなかった。僕のことが面倒になったのか。涙が零れ落ちた。こんな終わり方は嫌だった。
『安心して。話し掛けないよ。休日は付き合っている人と過ごすよ』
恋人はいない。ただの強がりだった。
僕はそっと離れる決意をした。嫌われたくないし、この恋を後悔したくなかった。
冷やかされたら「能瀬は恋人がいる。俺とはデキていない」と言い逃れするのだろうか。
無関係だと主張する彼を想像すると、落涙が頬を濡らした。
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