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第7話

 ……などと決心をし、己を鼓舞していたにも関わらず、翌日の夜になるまで彼の部屋の呼び鈴を押す事が出来なかった。  部屋の鍵は渡して貰っていた。けれど、今の緊迫した関係においてそれを使って入室してしまう事は不自然に思えたし、かと言って、これから自分が成すべき事を考えると、呼び鈴を鳴らしてから彼が出て来るまでの間に感じるであろう心地に、つい二の足を踏んでしまった。 「……用があんじゃねぇの?」  そのような理想と現実が噛み合わぬ状態で来てしまったが為に、彼と向かい合って座ってもなお、行動に移す事はおろか言葉にすら出来ないでいた。 「その……課題の、いや、日頃の学習状況は、どうかと。近頃、見る事ができていなかったので……。」 「ちゃんとやってる」 「そうか。わからないところや、見直しをしたいところ、などは?」 「ない」 「そうか……。」  まずい。昴が苛立っている。日々忙しくしている彼からすれば、この不毛なやり取りをそう感じるのは当然だが──だが、そんなに冷たくしなくても良いんじゃないか? と、僅かばかり思ってしまう。  田崎の言っていた『甘えている』という表現も、泉の言っていた『素直になれていないだけ』という表現もかけ離れていると感じる程、彼は不機嫌であり、怒りを隠さなかった。 「言いたい事あんなら早く言えよ」 「あの、あれの、事なのだが。」 「どれ?」 「っだから、あれだ。……分かっているだろう。」 「分かんねぇから聞いてんだけど」  嘘だ。昴からは、お前の口から全て語られるまで許すつもりはない、と言いたげな気迫が伝わって来ている。これは、早急に成すべき事を成さねばならない。  大丈夫。「したい」「しよう」のどちらか三文字を音にし、口唇を接触させるだけだ。たかが数秒、或いは数分だけ、多くの人間が行ってきた事を再現する、それだけだ。 それだけ、なのに…………。 「用ないなら帰ってくんない?」  意気地なく逃げ回る俺を見兼ねて、彼が時間切れを告げた。けれど卑怯で、更には、部屋中に感じる彼の気配に疼くような心地を覚えてしまった浅ましいこの身は、大人しく引き下がる事を受け入れてくれない。  はぁ、と響いた低い音に対して、空回りを続ける処理が緊張を覚え、余計に焦り出す。 「もういい」  呆れた溜息と共に通学鞄から部屋の鍵を掴み取り、彼はそのまま出て行こうとする。待てくれ、と呼ぶ俺の声など意に介さず歩を進める彼を引き留める為、触れる勇気の湧かなかった手を気付けば力一杯掴んでしまっていた。 「何?」  彼が視線だけを寄越す。その渇いた眼差しが体を強張らせた。かつて仕方のないものとして受け入れていたそれは、数ヶ月で耐え切れないものへと変わっていた。 「あ、あの!」  熱い。彼に触れた掌が、顔が、この身を巡る魔力が、心臓とも言うべき核が、熱い。 「だから、何?」 熱い事への困惑が思考能力を下げる。 「そのっ……つまり、あの……。」  冷たく見下ろしていた先への興味を失い、振り切ろうと力を込めた彼の手に、必死になって縋る事しか出来ない己が恥ずかしい。  何を迷っている。醜態を晒している今の状況に比べれば、課せられたものなどどうという事もないではないか。 「……昴!」  勢いに任せて上げた視線が、再び振り返った彼を真正面から捉える。 形の良い眉。意志の強さを感じさせる瞳と、猫のように上向いた眦にかかるさらりとした前髪。まだ少年らしい笑顔を作る時のある大き目の口。対照的に、大人に手が届きつつあると示す喉仏へ色香を感じるようになったのは、そこを抜けて囁かれる音のむず痒さを知ったからか。  目の前に居る人が“誰”であるのかを強烈に意識した瞬間、自分の尾を追い回す犬の如く駆けずり回っていた処理が、ぼふんっと煙を吐いた気がした。 「────キスして。」  己の口から発せられた言葉の意味を理解するより先に、彼が乱暴にこの身を引き寄せる。抱かれた腰と掴み返された手首に対して反射的に期待が膨らんだが、獰猛な色を湛えた彼の虹彩を間近にした途端、楽観的な思考は消し飛んだ。  もとの自分から考えればまず言えない一言であっても、あくまで彼の要望は『俺が主体となって接触する事』であり、今しがたの言動との間には確かな隔たりがある。怒りを抑えるように震えた彼の声が、その事をよく表していた。 「誰にそうしろって教わった? 前の奴の好み?」 「ち、違う! そうではない! そうでは、なくて……。」  錆た歯車のようにぎこちなく回り出した処理能力を騒動員し、湧き上がる羞恥心が飛び出すより先に適切な言葉を探して紡ぐ。言わなくてはならない。恥ずかしくとも、浅ましくとも、受け入難くとも。それが、俺の選択ならば。 「“したい”という願望は……ある。しよう、と言うつもりでもいた。だが、昴の顔を見た途端……“されたい”と、思ってしまったんだ。だから──。」  その先を口にする事は叶わなかった。  待ち侘びていた熱と柔らかさが、食らい付くようにして唇に与えられる。口内を蹂躙する舌に思考を奪われ、滴り落ちる唾液に酔い、後頭部を押さえる掌が示す支配欲に溺れた。  嗚呼、彼だ。  この身ではなく俺を求める、哀れな程に物好きで、この上なく愛おしい男だ。 その男が噛み付いた唇の痛みが快感となって全身を突き抜け、立っていられなくなりそうになり、腕にしがみついた。 「ずっる……。そっちからするまで絶対許さねぇって思ってたのに」  端に僅かな悔しさは滲んでいたけれど、俺の髪を梳く昴の手からは怒りも苛立ちも消え去っていた。髪を辿って流れ着いた指に顎をすくわれ、先の強引さと、これまでの事の許しを乞うように優しく、紛れもない恋心を訴えるように口付けられる。  あるはずのない心臓がぎゅっと締め付けられた気がした。 正しい甘え方と素直である事の大切さを教えてくれた友人達を思い浮かべ、彼から与えられるだけで満足してしまいそうになった己を叱責する。  唇を解放した彼があの一言を言う前に抱き付き、まだ言えていなかった事を告げる。彼の顔を見られるだけの素直さを持ち合わせておらず、肩口に願望を吐き出す事までしか出来ない甘えを、どうか許して欲しいと願った。 「今後のルールは後で決める。だから…………今日は、やめないで欲しい。いやだと言っても。だめだと言っても。…………好き、だから。昴だから、されたいんだ。」  良かった、言えた。そう思った途端に力が抜けた体を昴が支えて……くれる事を予想していたが、何故か一緒にへたり込んでしまった。 「なんだ!? ど、どうした!?」 「いや、だって……。狡い。ほんと、ずっるい。……あーもーまじで。だからお前嫌い。怖い」 「え……?」 「いつか絶対言わせっから。今、オレがどういう風に言うか、ちゃんと覚えとけよ」  突然の“嫌い”という発言に、ひょっとしてまだ怒っていたのだろうか? と戸惑う俺を、一度離れた彼の体温と匂いがふわりと包み込む。久し振りの優しい気配に思わず緩んだ気持ちへ向かって、昴が囁きかけた。  ──遙。しよ?  意地を張り続けた俺への許しの言葉は甘く、けれど、同じだけ不甲斐さが悔しく。それでも、一気に登った熱に歯向かう事なく、俺は頷く事が出来た。

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