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第6話

***  ペットの立場は、考えてみるとお客よりもずっとお得だ。  客だとまず大金を用意して、お願いしますと予約を入れて、せいぜい1時間かそこらやっと相手してもらえるだけだが、番犬は毎日そばにいられるのだ。お客のように特別な触れ合いはさせてもらえないというだけで、共に過ごす時間は家族並みに長い。    それこそ見えない尻尾をちぎれるくらい振り回して、遠野光彦にくっついて回っている颯太の姿は学内でも相当に目立っていたが、大方の反応は「あいつまた何かバカやってるな」という程度で、批判的な空気はまるでなかった。光彦はインモラルな噂に反して、その穏和で優しい性格が誰からも好かれていたし、颯太も変にこそこそせず、彼に憧れていることを隠そうともしなかったからだ。    他人にどう思われようと構わなかった。番犬の地位を思い切り利用して、颯太は光彦のそばにベッタリい続けた。光彦もそれを拒まず、まるで本当のペット並に颯太を甘やかしていた。  しかし何週間そばにいても、謎の人の『謎』は解けないままだった。  光彦が『仕事』のときは、颯太はドアの外で見張りをし、彼が出てくるのを待っている。中にはしつこく絡んで、なかなか彼を放そうとしないストーカーじみた客もいるからだ。 『仕事』を終え、ドアを開けて出てくるときの彼は、張り付いた微笑の下感情が空白になっている。 「汚いかな」と聞いてきたのは最初の1回だけだったが、その後もずっと、見上げてくる目がそう聞いてくる。そのたびに颯太も目で答える。「綺麗だよ」と。  颯太は元々うだうだ悩むよりは行動するタイプで、洞察力もある方とは言えない。しかし目の前にいる人が楽しいのか、悲しいのかだけは、そばにいるだけで不思議と感じ取ることができた。いわゆる動物的な感受性が特化しているのかもしれない。 『仕事』の後はもちろんのこと笑顔のときでも、光彦の隠した本当の顔はいつも悲しそうだった。颯太のくだらないネタに笑いころげていても、常にどこかが泣いている気がする。  その痛みをなんとか取り除いてやりたいと思っても、見かけはマシュマロみたいにフワフワしている想い人の壁は意外にも鉄壁で、どこから突き崩せばいいのか、シンプル思考の颯太にはまるでわからないのだった。 「なぁ、遠野に会わせてくれ! ちょっと顔見るだけでもいいんだ」  目を血走らせ挑みかかる勢いの上級生の前に立ち塞がり、颯太は秘かに嘆息する。想いを募らせ勝手に盛り上がってしまう哀れな客を見るのは、もうこれで何度目だろう。 「ダメダメ。杉野先輩今日予約してないでしょ? お金貯まったらまた来てください」  マネージャー、いやポン引きまがいの台詞には言っていて自分でうんざりするが、それももうすっかり慣れっ子た。 「どけって! ムカつくんだよ! てめぇは遠野の何だってんだ、この……!」  ブチ切れて殴りかかってくる手首を軽く捉え捻り上げると、見掛け倒しの相手は情けない声を上げる。とどめに軽く突き飛ばすと、軽い体は呆気なく壁にぶち当たった。 「番犬ですよー。おとといおいで」  覚えてろ、とかなんとか、定番の捨て台詞を残して退場していく後ろ姿を見送りながら改めて嘆息したとき、背後で『楽園』の扉が開いた。 「やぁやぁ、ご苦労ご苦労」  気楽なご主人様の綺麗な顔が、ニコニコと微笑んでいる。  量販店で買ったTシャツと綿パンツという、普段着姿にもやっと見慣れてきた。普段のブランド服はすべて客からのプレゼントであくまで『商売用』に着ているらしく、本当は肩が凝って嫌だという。 「ストーカーの撃退今週でもう3人目だよ? たまにはごほうびくれてもいいと思う」 「ビーフジャーキー?」  キスしての意思表示に、目を閉じ思い切り尖らせた唇を相手に寄せていくと、いい匂いのする両手でピシャリと軽く頬を挟まれた。 「キスはお預けね。でもお昼ご飯ごちそうしてあげる。入っていいよ」  笑いながら部屋に引っ込んで行くご主人様の後を、見えない尻尾を振ってあわててついていく。  犬とはいえお許しが出たときしか入れない『楽園』は、光彦が商売用に借りているウィークリーマンションの一室だ。ユニットバスにトイレ、ベッドが1台あるだけの殺風景な部屋だが、それだけで用は事足りる。  当然光彦自身の居住空間はどこか別の所にあるのだろうが、しょせん番犬に過ぎない颯太はそんなプライベートなことまでは教えてもらえない。 「はい、じゃあ、それにお湯入れて」  ご飯を「ごちそうしてあげる」はずのご主人様はペタリとフローリングの床に座り込み、読みかけの『魔の山』原語版を開くと、ミニキッチンの流し台を優雅に指差した。そこにはスーパーで格安で買ったカップラーメンが2つ。こんなことだろうと予想していたとはいえ、食いしん坊の颯太としてはちょっとガッカリする。 「えー、お昼ご飯これなの? そしてワタシに作れと」 「作って。おなかすいちゃった」  甘えたシュガーボイスでねだられると断れない。何10年も前からある一番オーソドックスなメーカーの即席ヌードルの蓋をはがし、電気ポットのお湯を注ぐ。待つこと3分。 「できたよー」  箸と共にお持ちすると、ご主人様は夢中で読んでいた独文豪の本をベッドの上に呆気なく放り出して目を輝かせた。 「お、来た来た。では、いただきまーす」  大変行儀よく両手を合わせてから蓋を開け嬉しそうに安麺をすする姿は、とても大勢の人間を魅了する癒しの天使には見えない。 「あのさぁ、みっちゃん」  そのように幼い頃の愛称で呼べと命じたのは、ご主人様ご本人だ。光彦曰く、主人とペットの関係とはそういった近さであるべきなのだとのこと。  彼独特の哲学は颯太にはよくわからないが、他の誰一人として畏れ多くも彼をそんなふうに呼べないことを考えると、相当な優越感に頬が緩んできてしまう。  ちなみに光彦の颯太に対する二人称も、最近『君』から『おまえ』に格上げした。立派なペットとして、一歩前進といったところか。 「んー、なに?」  安麺を無心に食べながら、ご主人様は顔も上げず上の空で返事をする。 「俺が今そのお姿携帯で撮って配布しちゃったら、10万から5万にお値段下がるよ」 「おまえといるときぐらい楽にさせてよ。僕だって、いつもイメージ守ってちゃ疲れちゃうから」 「イメージかぁ。ヨーロッパとかの青年貴族風な感じかね。おランチは舌平目のムニエルプロヴァンス風トリュフ添えにン十年ものの白ワインとかだって、みんなもう心から信じちゃってっからね。罪な人だよ全く」 「ただの貧乏人なのにねぇ。じゃなきゃこんな商売してないでしょう。ごちそうさま」 「うわ、しかも食うの早っ。ねぇ、じゃあさ、あなたのこういう素のお姿見れるのって、もしかして俺だけ?」 「おまえも幻滅するの?」 「いいや、しませんっ」 即答する。 「そう。よかった」  そう言って笑う顔から素直な安堵が伝わっき来て、颯太もひどく嬉しくなる。

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