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第7話

 犬になってから颯太は光彦の今まで知らなかった、そして客の誰も知らない意外な面をいろいろと見ることができた。  一見隙のない優等生に見える彼が、実は結構ボンヤリしたところのあるうっかり屋であることとか。読書とクラシック音楽鑑賞が趣味というのも嘘ではないが、読んだり聴いたりの最中にしょっちゅうコトッと子猫みたいに眠ってしまうこととか。オフのときはチープな部屋着で床にペタンと座り込み、いつまでもボーッとしていることとか。  こうして傍らに侍る前は、颯太も遠野光彦という人間に対して周囲の持つ、どこか常人離れした不思議さをにじませる高嶺の花的イメージそのものに、熱を上げている部分が確かにあった。しかし今目の前にいる彼は、飾り気のない素のままの、そして誰も知らない本当の遠野光彦だ。    遠くから崇めるだけの存在だった手の届かない人が、今はこうして完全無防備な姿をすぐ前で披露してくれている。その事実は颯太の優越感を頂点まで押し上げ、もっともっと近くなりたいという欲求を高めていく。  要するに颯太としてはイメージが狂って落胆するどころか、繰り返し惚れ直してしまう毎日なのだ。 「ねぇ、俺といると楽ちん?」 「楽ちんだねぇ」 「俺のこと可愛い?」 「可愛いよ。前のハチも可愛くてすごい仲良しだったけど、今の僕にはおまえがいるからいいや」 「前のハチと俺、どっちが可愛い?」 「前のハチ」 「こいつぅ!」 「あ、ウソウソ! 両方同じくらい可愛い!」  軽くぶつまねをするのを片手を掲げてよける無邪気な笑顔に、ついつい見惚れてしまう。 「お昼ご飯終了。お片付けよろしく」 「はいはい。俺もごちそうさまでした」  空になった器と箸をキッチンへ運びながら、そう言えば本物のハチ公はどうしたのだろうとふと思う。『昔飼っていた』ということは、今は当然いないのだろう。気にはなったが、それ以上はなんとなく突っ込んで聞きづらかった。 「ねぇ、ハチ」  心地よい沈黙を破って、いつものちょっと気だるげな声が背中で聞こえた。 「うん?」 「僕に飼われてからどのくらいになる?」 「3ヶ月半だよ。俺達の歴史はまだまだこれからですよ」 「ふぅん、もうそんなになるのかぁ」  感慨深げな声に水道を止めて振り向くと、光彦はポワンとした焦点の定まらない目で宙をみつめている。例の遠くを見る空虚な瞳ではないが、意識はどこかに飛んでいるようだ。 「みっちゃん?」 「ハチさぁ」  戻ってきた目線が颯太に向けられ「今までどうもありがとう」ペコリと小さな頭が下がる。  光彦がいつも予想外に唐突なのはよく知っていたが、これはあまり心臓によくないふい打ちだ。 「ちょっとぉ、何よそれ。なんか別れの挨拶みたいじゃない? やめてやめて」  眉をひそめる颯太に、本人もその何の脈絡もない唐突さに気付いたようで、微かに照れ笑いめいた表情を浮かべた。 「あ、しまった。高志が来るまであと15分しかないや。シャワー浴びて着替えなきゃ」  颯太がさらに突っ込もうとする前に、光彦はそそくさと時計を覗くと立ち上がり、シャワールームに飛び込んでいってしまう。  結局その言葉の真意はわからないままで、いつもの気まぐれだろうとは思いながらも一抹のひっかかりが胸に残る。  自称恋人である森村高志の唯一の長所は、とにかく時間に正確なことだ。逆に言えば、せっかちな性格なのかもしれない。  月に2度の頻度で光彦を抱けるだけの遊興費は、代議士の息子という立場でははした金にすぎないのだろうか。がんばっても日に数千円しか稼げない颯太には、もはや住む世界が違いすぎてわからない。  森村と光彦が会う日は、どうにも気分が塞ぐ。ただの客だと割り切ろうとしてもできない何かが、二人の間にはある気がするからだ。 「ねぇ、あのさぁ」  シャワールームの前に立ち声をかける。顔を見なければ思い切って聞けるかもしれない。 「んー?」  水音と共に微かに声が届いてきた。 「森村さんのことさぁ。す、好きなの……?」  水が止まる気配。次の瞬間いきなりドアがバンと開いて、颯太はのけぞった。 「何? 何か言った?」  髪を拭きながら、もったいなくも白い肌にタオル1枚腰に巻いただけの姿で出てきた光彦から、颯太はぎゃっと叫んでキッチンの方まですっ飛んで逃げ去る。 「あ、あなた無防備過ぎますよっ?」  ほとんど全裸を見られても、ご本人はハハハとのん気に笑っているだけだ。 「いいじゃないかハチと僕の仲なんだから。それより、高志がどうとか言ってなかった?」 「やっぱいい」 「何すねてるんだよ。おかしな奴だなぁ」  どうせ犬だけど俺だって一応男だぞ? 限界切って襲っちゃっても知らないぞ? いいんだなっ?――などと、心の中でひたすらぶつくさ文句を垂れるが、口には出せない。  

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