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第9話

 膝を抱え突っ伏していたら、そのままうたた寝してしまったらしい。肩を揺さぶられてハッと顔を上げた。 「おう、起きたか」  森村高志の男前な顔が上から覗き込んでいる。腕時計を見ると、もう規定の2時間をとうに過ぎていた。 「光彦今日ここ泊まるから、おまえはもう帰っていいと。駅まで送ってくように言われたんだ。行くぞ」  満ち足りた表情がムカつくしできれば一緒にいたくない相手だったが、ご主人様の言い付けなら仕方ない。立ち上がり、車のキーをチャラチャラ言わせながら先立って行く背を追いかける。  地下駐車場で一番目立つ、真っ赤なポルシェの前で森村は止まる。車までが典型的な金持の坊ちゃま仕様だ。促すように顎をしゃくられ、仕方なく助手席にお邪魔する。さすがに高級車だけあって、ほとんど振動もせず外車はスムーズにスタートした。  森村はバカだが嫌な奴ではない。基本的に気さくで社交的だ。これまでもちょっと行動がトロい光彦を待つ間、場繋ぎ的に二人きりにさせられたことはあったが、互いに黙りこくって嫌な雰囲気になることはなかった。それも相手が颯太のことを恋敵ではなく、しょせん飼い犬と認識しているからなのだろう。 「おまえってさぁ、今は犬やってっけどマジなとこは惚れてんだろ? 光彦に」  と、今もフランクリーに、いきなり核心をついた話題を遠慮なく振ってきた。 「ん。ですね」 「犬つらくねぇ? ああやって光彦が俺とか他の男としてる間、外で膝抱えて待ってて」 「つらいよ。でも自分で志願したんだから」 「俺にはちょっと我慢できねぇな。素直におまえすごいと思うね。でもまぁあの商売な、 あれももうやめさせるつもりだから。犬の役目もそれまでだぞ」 「え、どういうこと?」 「俺もさ、いくらあいつが家の借金で首が回らないとはいえ、ああいうのはしてほしくないわけ。もう俺だけのものにしちゃって、一生楽させてやりたいわけよ」 「家の、借金?」  思わず聞き返した。初めて聞く商売の理由は、あまりに生々しい不吉な現実感を伴って颯太の耳を打った。  意外だった。俗世離れした光彦に手垢の付いた『借金』の二文字は、全くと言っていいほど不似合いだった。 「あれ、知らねぇんだ。ふぅん」  森村は優越感をあらわにした視線をチラッと颯太にくれる。話したくてうずうずしているのがわかる。  お調子者で考えなしの森村は口が軽い。光彦本人が話してくれるまでは聞いてはいけないと思いながらも、颯太も目先の好奇心には勝てず耳を傾けてしまう。 「俺あいつと中学・高校と一緒だから知ってんだけどな。あいつんちってその頃ちょっとでかい工場やってたんだよ。でも不景気で経営うまく行かなくてさ。親戚とか知人とかにかなりの借金作っちまったらしい。で、一昨年だったかな、ついに倒産して両親が首くくっちゃったんだよな、あいつ残して」    全身がゾッと冷えていく。これはきっと、森村の作り話だ。語りつくした挙句「なぁんちゃって、冗談」で終わって、真っ青になった颯太を大笑いするつもりに決まっている。 「それからあいつ、親が残した借金一人で払い始めたわけだけどな。何しろ相当な額みたいで、なかなか返しきれないらしいぞ」 「嘘……」  絶句するしかなかった。霞んだ瞳が常にみつめていたのは美しい夢の中ではなく、悲惨なリアルそのものだったのか。 「そんな借金、俺のものになれば全部払ってやるって言ってんのに、なかなかうんって言ってくれなくてな。でももう俺らも3年だから、もう就活だろ? このへんで一発けじめつけたいんだよな。つまり、もう商売はやめて、俺の愛人にならないかって」    衝撃のあまり、延々と続く森村の一人よがりなバカ話はあまり耳に届いてこなかった。  借金というのは、一体どのくらいの額なのだろう。この就職難の昨今、大学を卒業し無事に勤め口がみつかったとしても、その給料だけで果たして払いきれるものなのだろうか。  それに彼には奨学金の返済だってある。賄えない分は今までどおり割のいいバイトで、と、夜はその方面の店でウリをやるなんて選択に流れないとも限らない。  いやそれよりいっそ、森村の囲われ者になって負債を一掃してしまおうという、安易な決断に走ることだってあり得るのではないか。  のん気なお坊ちゃまは、颯太の動揺には全く気付かないご機嫌な様子で語り続ける。 「さっきもその話してみてさ。ほら、あいつって遠慮深いから一応は断ってっけど、まぁそのうち落ちると見たね。真実の愛は最後には勝つんだよな……って、おい、何だよ、そう睨むなよ」  苦笑され、自慢げな笑いを隠せない隣の男を、自分が無自覚に睨み付けていたことに気付いた。 「そんなわけで、おまえや他の連中には悪いけど、あいつは俺がいただくから。俺こう見えてマジだし、あいつとのことは一生レベルで考えてるつもりなわけよ」  胸の奥がイガイガし始めた。わけもなくただ、わーっと大声で叫び出したくなる衝動。 「でもまぁジョン、おまえのことはあいつも気に入ってるみたいだし、よかったらそのままペットとして込みで引き取ってやってもいいんだぜ? 俺がいないときに光彦が浮気しないか、見張ってる番犬としてな」 「車停めて」 「駅までまだあるぞ」 「ここでいい。ここで降りるから」  これ以上このご自慢バカと一緒にいたら、運転中だろうがなんだろうが構わずぶん殴ってしまいそうだった。  停車するなり滅多に乗れない高級車から飛び降りた颯太に、空気の読めないお坊ちゃまはにこやかに手を振りそのまま退場していく。  ぶつけてバンパーへこませろと遠ざかって行く車影に念じた後、思い切り脱力してその場に座り込んでしまった。これではどこからどう見ても不審な酔っ払いだ。駅から離れた裏通りなので、人が少ないのがせめてもの救いだった。    ずっと知りたかった秘密。みつめていた瞳の先の、残酷な真実。聞いてしまった以上、知らなかったことにはできなかった。  親の残した借金のために体を売って金を作るなんて、時代錯誤的に最悪の事態だ。でも、それを聞いても自分にはどうしてやることもできない。森村高志のように、借金を丸抱えしてやれる財力なんかない。    彼と同じ景色を自分も覗いてみたいなどと胸躍らせていたことが、とんでもない不謹慎な思い上がりだったことを颯太は思い知った。おそらく彼がその短い人生の中で失ってきたものは、自分などが推し量ることはできないほど大きいのだ。  激しい自己嫌悪に打ちのめされ、颯太はそのまま両手で頭を抱えた。

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