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第13話
ストーカー男に負わされたひっかき傷の手当てを終え熱いコーヒーで一息つくと、光彦は大分落ち着いたように見えた。
不愉快な話題を意識的に避け、ひとしきり雑談で笑わせてやった後、光彦が唐突に海に行きたいと言い出した。
超インドア派の文系色白美青年である遠野光彦先輩の口から出たとは思えない、仰天もののアウトドアなお誘いに颯太は面食らったが、本人はいつにないハイテンションだ。
「夏と言えばやっぱり海だよね? もう9月も終わっちゃうけど、まだかろうじて秋ではないし」
「って、待ってよ。あなたそういうの嫌いじゃなかった? 潮風とか日射しとか、すごい嫌がるでしょうが」
「今日は曇りだから平気。夏の終わりに、ベタな思い出作りも悪くないじゃない。ほら、行こう行こう」
異常なほどのはしゃぎっぷりがやや不安でもあったが、さっきまでの沈んだ表情から比べれば明るく笑ってくれる彼を見るのはやはり嬉しかった。それに考えてみれば、二人で海などというベタなデート気分を味わえる機会は滅多にないかもしれない。
幸い海沿いの県なので、近くの海水浴場までは歩いて30分もかからない距離だ。浮き浮きと部屋を飛び出していく光彦を、颯太はあわてて追いかけた。
9月の終わりにしては肌寒さすら感じさせる曇天の海辺は、全く人気がなく閑散としていた。2人は波打ち際から少し下がった砂浜に並んで座って、打ち寄せる波をしばしみつめていた。大自然の景色と言うのはどんな場所であれ、精神を沈静化させる効果を持っているらしい。
「いやぁ、やっぱり海はいいなぁ」
「どうしたことよ、一体。海とかむしろ全然興味なかったでしょうが」
「確かにこうやって、わざわざ浜辺まで来たことって初めてかも。でもさ、こうしてボーッと眺めてると、些細な悩みなんかもうどうでもいいやって気になってこない?」
「ああ、うん、それもそうだね」
「自然の前ではちっぽけだよねぇ、人間って」
「お弁当とか持ってくればよかったね。きっとバカンス気分盛り上がるよ」
颯太の気の抜けた発言に光彦は肩を落とす。
「ハチさぁ、せっかく人が雄大な自然の素晴しさについて語ってるのに」
「だってデカイもの見ると腹減ってこない? 次は忘れず作ってこようよ。ご主人様、おメニュー何にします? 子牛のフィレ肉ロレーヌ風フォアグラ添えと、ン十年ものの赤ワインでいい?」
「僕ねぇ、おにぎりとタコさんウィンナー。あと伊藤園のお茶。濃い方」
「チープな人だなぁ。ホントイメージ狂うよ」
「いいじゃない。守るべきイメージも、どうやらもう不要になっちゃいそうだし」
杉本が『商売』のことを大学側に密告した以上、このままではいられないことを当然光彦もわかっているのだろう。これから我が身に降りかかるだろう事態に、さぞ不安になっているに違いないのに、その横顔はあくまで淡々と内面を窺わせない。
「そうだ、次回はハチの作ってくれたおにぎりを食べてから、一緒にフリスビーで遊ぼう。うん、そうしよう」
それが画期的な名案ででもあるかのように目を輝かせる、無邪気な想い人がたまらなく愛しくなった。その細い肩を抱き寄せたい衝動を、颯太はギリギリの理性で押し留めた。
「フリスビーってさぁ、まさか俺口でくわえんの?」
「当たり前だろ? 前のハチはちゃんとそうしてたよ」
「手ぇ使ったら、おまえは犬なんだから口使えよって、あなたが靴先で頭グリグリしてくれちゃうんだ。善良な一般市民の皆さんが見てたら仰天しない? 通報されて、虐待で逮捕されちゃっても知らないよ」
「ご心配なく皆さん、これはペットですからって僕が言うから、そしたらおまえは一声ワンって。それでみんな納得するでしょう」
「ああそうか、確かにこいつ犬だな……って、んなワケねぇだろっ」
笑って肩を小突くと、光彦もおかしそうにアハハと笑った。
森村から聞かされた悲惨な過去についての話は、ずっと頭の中を渦巻いていたが、今は口に出すことはできない。勝手に真実を聞いてしまったことを知ったら、光彦は怒り悲しむだろう。それにそれを一言でも持ち出したら、今二人の間にあるこの穏やかな空気が壊れてしまいそうな気がするのだ。
「ハチ」
心地よい沈黙を、光彦の聞き慣れない真剣な声が破った。
「はいな」
「聞いたんだよね、僕のこと」
「え……」
鼓動が高鳴る。心を読まれたのだろうか。
「高志から、聞いたでしょ。僕のうちの事情とか、商売の理由とか。彼おしゃべりだから」
そう言って探るようにこちらを見上げた光彦の顔は、いつもと変わらぬ淡い微笑だった。
「や、何のこと……?」
思い切り声が震えてしまう。これでは白状しているのも同じだ。
「おまえってさ、ホント嘘つけないね」
なぜか嬉しそうに笑って、光彦は再び海の方へ視線を馳せる。
「あの日高志におまえのこと送らせたのは、きっとその話バラしてくれるだろうって確信があったからだよ。僕からはちょっと、言いづらかったからね」
「な、何で? 俺……俺は、あなたから直接聞きたかったぜ?」
「話せないよ。だって、うざいもんねぇ、そんなの聞かされちゃ。困るでしょ、そんなヘビーな話されても。それにおまえは優しいから、僕が直接話したら同情して、突き放すことができなくなると思ったんだ」
思いがけない言葉に、打ち寄せる波よりももっと遥か遠くの水平線をみつめている静かな横顔を思わず見返す。何か言わなくてはと思っても、うまい言葉が出てこない。
「はじめからわかってた。おまえをずっと縛り付けておくわけには行かないだろうって。3ヶ月もいい夢を見せてもらったんだから、もう十分。解放してあげたかった。本当のことを知れば、きっと僕から離れて行くだろうって思ったんだよ」
『今までどうもありがとう』と小さな頭を下げたときの、どこか寂しげな瞳が甦る。やはりあのとき、彼は別れを告げていたのだ。
「でも、俺は今ここにいるよ」
まっすぐ相手を見据え、颯太は言った。
「戻ってきて、あなたのそばにいる」
光彦は颯太を見返し、少しだけ目を細める。微かに切なくて、その切なさを必死で堪えるような不思議な色がにじんでいた。
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