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第14話

「最初、まだ1年生のときはね」  海に視線を戻し、天気の話でもするように何気なく光彦は口を開いた。  それがどんな話でも聞きたいと思う。聞いてあげたいと思う。おそらく彼が誰かにそれを話すのは、初めてなのだろうから。その相手に、自分を選んでくれたのだから。 「普通のバイトやってたんだよ。コンビニとかファミレスとか家庭教師とか。新聞配達や、運送屋さんなんかもね。すごいでしょ?」 「うわっ、似合わねぇ。ポーッとしてるうちに、荷物と間違われて運ばれちゃったりして?」  少しでも光彦が話しやすいように、いつもの調子でふざけた合いの手を入れる。強張っていた表情がほんの少しほぐれ、笑みがこぼれる。 「ちゃんと真面目に頑張ってたんだよ。職場の人にも重宝されてたんだから。でもさ、働いても働いても稼げるお金は雀の涙。借金は少しずつしか返せなくて……ついにがんばりすぎて、倒れちゃったんだよね」 「ちょっ……マジで?」 「マジで。過労で1週間くらい入院しちゃってね。おまけにバイトばかりやってて、大事な単位を落としそうになっちゃったんだ。それを落としたら、奨学金打ち切られるっていうときに その教授がね、言ったの」  深刻になりたくはなかったが、茶化すことすらできなくなった。  その先はもう聞きたくなくても、聞かなくてはいけない。彼の痛みを、半分分けてもらいたいのなら。 「口で達かせてくれたら、単位をくれるって。それに、それとは別におこづかいも10万円くれるって」  どこのクソジジィがそんなことを言ったのか知らないが、目の前にいたら確実にブッ飛ばしている。  颯太は浜についた手で、ざらついた砂をギュッと握った。 「それ聞いたとき、僕どう感じたと思う? なんだ、そんなのでよかったんだって思った」 「え……」 「10万円稼ぐのってね、他のバイトじゃ本当に大変なんだよ。一日中ぶっ通しで働いたって、月にそれだけ稼げるかどうか。それが、そんなことくらいでもらえちゃうんだって」 「そ、そんなことって……運送屋よりも大変な仕事じゃん! みっちゃんだって、ホントは嫌だったんだろ?」 「う~ん……なんかもう、どうでもよかったんだよね」  投げやりに吐かれた言葉は、漂い、遠い目がみつめる波間に消えていく。 「誤解しないでね。もちろん僕、それまでそういう経験とかは全くなかったよ。自分がゲイなんじゃないかっていう自覚はあったけど、うちの、工場の方ずっと手伝ってたから、誰かに恋をする時間も余裕もなかった。だから、そういうふうに求められたこともなかったし、自分にそういった価値があるなんて、考えもしなかったんだ」    彼自身が気付かなかったその計り知れない価値は、残念ながら周囲にとってはあまりにも魅力的な餌だったのだ。 「使えるものは使っちゃえばいいって思ったよ。毎日必死で働いて、ボロボロになって倒れるよりも、持ってるものうまく使って、楽に稼いだ方がいいじゃないかって。本当に、何の抵抗もなく受け入れられたんだ。それが、この商売始めた理由」  淡々と語られる言葉の一つ一つが、胸に刺さってズキズキする。  なぜそのとき、彼の隣にいてやれなかったのだろう。タイムマシンでその日に戻れるのなら、絶対にそんな真似はさせないのに。  読めないモナリザスマイルが、おもむろに颯太に向けられる。表情を取り繕う間もなく悲しげに顔を歪めた颯太に、光彦はいつものとおり夢の世界にたゆたうような霞みがかった笑みを向けた。 「嫌な話しちゃってごめんね」  いつもと変わらないように見えて、颯太にだけはわかる。その悲しい笑みは、果てしなく空虚な内面をストレートに表しているのだ。 「嫌な話だなんて思わない」  きっぱり否定すると、光彦はほんの少し目を見開いた。 「でも、すげぇつらい。俺も悲しくなる」  たまらず視線を逸らし、立てた膝に顔を埋める。  フワッと頭に乗せられる手の感触。優しく撫でられても、胸の痛みは治まらない。 「ハチが悲しがることないよ。僕自身は何とも思ってないんだから。いろいろ失うことには慣れちゃって、もう何とも感じなかったんだ。だから、全然大丈夫」  それは『大丈夫』というのとは違うのだということを、どうやったらわかってもらえるのだろう。 「ねぇ……どっちが本当なんだろうね……」  少し間を空けてそう言った光彦の声は、いつになく虚ろでトーンが低かった。思わず顔を上げる。遠い視線はもう颯太ではなく、水平線の向こうを見ている。 「え……どっち、って……」 「連れていくのと、置いていくの。どっちが本当の、親の愛なんだろう」 「っ……」  絶句する颯太にニコッと笑いかけてから、光彦はフワリと立ち上がると波打ち際まで足早に進んでいく。しゃがみこみ波に手を浸してパシャパシャやっては、子供のように笑い声を上げはしゃぐ。有名ブランドの秋の新作はもはや膝まで波に浸かってしまっていたが、全く気にする様子もない。  しばらくそうして遊び、立ち上がった光彦は無邪気に颯太に向かって両手を振ると、右手を庇のように掲げ薄暗い空を見やった。そしてそのまま、服が濡れるのも構わず足を踏み出す。  グレーの空にグレーの海。白い波頭。モノトーンの背景の中にしっくり溶け込み、それでいて霞まない圧倒的な存在感を放つ上下黒の後ろ姿。まるで1枚の名画のようだ。  完璧な構図と、完璧な静けさ。何者も邪魔に入れない神の手によるリトグラフに、颯太は陶然と見惚れる。  視界の中で、少しずつ、少しずつ、光彦は前に進んでいく。 『ここから下見てるとさぁ』  初めて言葉を交わした屋上の光景が思い出された。抜けるような青空を見上げながら微笑む彼は、まるで飛び立つ寸前の天使みたいに見えていた。 『飛び降りちゃいそうになるんだよね』  ただ立っているだけのようにも見えるのに、波はもう光彦の腰の辺りまでを隠している。きっとその足は、ほんの少しずつ、前へ、前へと進んでいるのだろう。 『そういうの、わからない?』  唐突に襲ってきた予期恐怖に、全身がゾッと震えた。  そう、彼は天使ではない。羽根なんかないのだ。飛び降りたら、落ちるしかない。  それを知っていながらあのときの彼は、今にも飛びそうになっていたのではなかったか。 「っ……!」  呪縛に飲まれていた体が動いた。  砂を蹴って立ち上がり、颯太は全力で駆け出した。すでに胸の辺りまで海に漬かってしまっている光彦に、後ろから飛び付く。 「何やってんだよっ!」  光彦は抵抗しようとはしなかった。ただ、いつも穏やかで優しい彼のものとは思えない感情のない低い声が、「放せよ」と一言、冷たく叩き付けられた。 「嫌だ、放さないっ!」  まだギリギリ夏だというのに、海の水は恨めしいほど冷たく全身を刺してくる。荒れ気味の波にともすると足を取られそうになる。  それでも必死で、人形のようにじっとしている相手の体を背中から抱いたまま引きずって、砂浜まで上がっていく。  どんなに手を伸ばしても波が届かないあたりまでやっと引っ張り上げて、その場にへたり込み息をつく。  抱き締めた腕だけは放さない。 「バカ! 死ぬ気だったのかよ!」  寄せる波で頭までびしょ濡れになった光彦は混乱する颯太を振り向き、不思議そうな瞳を向け首を傾げてみせた。その虚ろな表情のあまりの儚なさに背筋が寒くなる。 「どうして……なんでそう思う? そんなつもり、ないさ」 「だって海に入ってったじゃないか! もうちょっとで溺れちゃうとこだったぞ!」 「え……?」  小首を傾げたまま視線を移ろわせて光彦は言った。 「そうか……そうだね。ちょっとさ……どんな感じかなぁと、思ったんだよね」  再び水平線の彼方に目をやる想い人をもう二度とそちらには行かせないよう、颯太は抱き締めた腕に力を込める。  こみ上げてくるものに目の奥が熱くなってくる。 「ハチ……痛いよ」 「放さないからね! こんな危ない人だとは知らなかったよ俺……っ」 「変だなぁ。何泣いてるの」 「あなたのせいでしょ? 俺に謝ってください! もう、ホントびっくりしたんだから!」 「あぁ……そう……そうか……」  光彦は後ろから抱き締めている颯太の腕をそっと撫でた。氷みたいに冷たい指で。 「びっくりしちゃったんだね。ごめんね。ごめん……」  撫でられているうちに、昂ぶった気持ちは少しずつ落ち着いてきた。  やや平静を取り戻すとパニクってしまったことが恥ずかしくなって、泣き顔を見られないようにか細い背に頭をこすりつけた。潮の香りにも消されない、いつもの光彦のいい香りがした。 「どっちって、わかんねぇけど俺は……置いていかれんのはやだからね」  腕を撫でる手は止まったが、返事はない。 「俺、森村さんみたいに金ねぇけど、みっちゃんのために何もできないけど……でも、離れないからね。犬は飼い主にどこまでもついてくんだからさ。たとえ連れていかれる先がつらいとこでも、俺一緒に行くから。絶対置いてくなよ? なぁ、わかったのか?」    みっともなく震えが止まらない手に、光彦の手がそっと重ねられた。冷たくて細い指に小指を絡め取られる。 「うん、わかった。指切りだ」  小さく声が聞こえた。顔を伏せているので相手の表情は見えなかったが、その一言がとても優しく心に響いて、引っ込みかけた涙がまた溢れてきた。

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