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第15話

***  光彦が大学に顔を出さなくなって1週間が過ぎた。  基本講義には真面目に出席していた彼がそれほど長く休むというのは異常で、冷たい海に浸かって風邪でもこじらせたのではと颯太は気が気ではなかった。携帯には何度も連絡を入れているが、電源を切っているのか全く通じない。    数日前には仕事場のマンションまで足を運んでみたのだが、驚いたことにそこはすでにもぬけの殻、家具など一切が引き上げられただの空間になってしまっていた。契約が解除されていたのだ。  大学側に商売の件を知られたからには、根城は引き払った方が安全だと判断したのかもしれない。ビジネス・パートナーなんて上等なものではなく、ただのペットに過ぎないのだから仕方ないのかもしれないが、その部屋で2人で過ごした時間の長さを思うと、解約について自分に一言もなかったことに颯太はそこはかとない寂しさを感じた。    密告の件がきっかけとなって、光彦が自分の体を酷使する商売をついにやめる気になったのなら、それは喜ばしいことだと思う。でもそれイコール森村高志の愛人になるという決断の表れだとすると、心穏やかではいられなくなる。光彦も森村のことが好きだというのならそれは祝福すべきことなのだろうが、颯太としては正直痛い。  本心を今すぐ確かめたくとも、颯太には光彦の居所がわからなかった。  学内で彼と親しそうな人間に自宅を知らないかと聞いて回ったが、皆一様に首を傾げるばかり。所属ゼミの教授に至っては光彦の名を出しただけで顔を引きつらせ、彼と仲がいいのならもう関わるな、とまで言い切られた。その腫れ物に触るような言い方が、妙に嫌な感じに引っかかった。  方々聞きまくってははずし、あと確実に知っていそうな人間は一人しか残っていなかった。  客とは学内で接触するなと光彦に厳しく言われていたし、颯太自身もその人物とはなるべく顔を合わせたくはなかったのだが、どうにも八方塞がりな今他に当てがなかった。    誰かに聞かれるとまずいと思い人伝に呼び出した空き教室に、せっかちな森村高志は指定時間どおりに現れた。目が合えば「よぉジョン」と気さくに片手を上げるいつものフレンドリーな挨拶はなく、眉間に皺を寄せなんだかやけに周囲を気にする様子だった。 「おまえ何だよ。呼び出すなっつぅの」  いきなり怒られた。お坊ちゃまはどうやらご機嫌斜めのようだ。 「ねぇ、みっちゃん休んでんだよ。もう1週間だよ? 携帯出てくんねぇしさ。森村さんならどうしてるか知ってる?」 「知るわけねぇだろ、会ってねぇんだから」  言い捨てられて違和感を覚えた。これまでの森村だったら光彦が1週間も大学に来ないと聞けば、それこそ世界の終わりみたいに大騒ぎしたはずだ。 「なんか冷たくね? ケンカでもした?」 「や、つぅか……もう俺実際関わり合いたくないんだわ」 「えっ? 何て言ったの今?」  森村は思わず声を上げた颯太に向かって、人差し指を唇に当てシーッとやると、もう一度周囲を見回してから声を潜める。 「おまえ、マジで光彦が休んでる理由知らないのか?」 「風邪こじらしたんじゃないかって心配してんだけど」 「バカ、違ぇよ。自主的に休んでるわけじゃなくて、謹慎くらってるんだ。例の商売の件で」  ザッと血の気が引いた。 「嘘……」 「客だったヤツはもうみんな知ってるよ。全員が口ぬぐってばっくれてる。巻き添えはごめんってとこだろ」 「そんな……」  颯太の見ていた限りでは、客達は皆光彦に熱を上げ、相当入れ上げていた。それが自分に火の粉が降りかかりそうになると、そうもあっさりと切り捨てられるものだとは。必要なときだけ欲望を満たして、危なくなったらポイ捨てなのか。 「俺もヤバイ。その話、どっかからオヤジの耳に入って、バレてな。そりゃもう勘当もんの大騒ぎだよ。そういうけしからん輩とはきっぱり手を切れって、証文まで書かせられてさ。だからもう、光彦とはちょっと……」    勝手な言い草に呆然とした。開いた口が塞がらなかった。  頭の中に一気に怒りが押し寄せ、颯太は思わず森村の胸倉を掴み上げた。 「そういう輩って何。みっちゃんだよ? あんなにベタ惚れで、一生めんどう見るとかほざいてたじゃねぇかよ! 森村さんさぁ、自分で何言ってんのかわかってんの?」    いつもの自信満々で傲慢な態度は今や見る影もなく、森村は一瞬泣きそうに顔を歪め目を逸らす。 「好きだったのはマジだって。俺なりに本気で惚れてたんだよ。けど、これだけ大事になっちゃ、俺にはもうどうしようも……。勘弁してくれ!」  呆れるほど潔く頭を下げるヘタレ男を殴りつけようと、思わず振り上げた拳がギリギリで止まった。うなだれ微動だにしない森村は殴られるのを覚悟している様子だったが、こんな奴殴る価値もない、手が痛くなるだけ損だと思い直し腕を下ろした。  掴み上げた胸倉を突き飛ばすように放す。 「最低野郎! 俺絶対許さねぇから。誰が……誰があんたなんかに渡すかよ。あの人のことは俺が守る! いいか、もう二度とあの人に近付くなよな!」  それ以上顔も見ていたくなくて、決然と背を向ける。 「待てよ、颯太」  切迫した声に仕方なく振り向くと、森村はメモにあわただしく何かを書き付け破り、 「あいつの住所。それと……」  ポケットから少し厚みのある白い封筒を取り出し、破ったメモと一緒に差し出してきた。 「これも渡してくれ。少しだけど」  カッとなった。その『手切金』の札束で綺麗な顔を往復ビンタしてからブッちぎってやりたかった。なんとか思い止まったのは、どんな金でも金である限り少しは光彦の役に立つだろうと思ったからだ。  突き上げる怒りを必死で抑え、メモごと封筒をひったくり踵を返す。 「なぁ、あいつのこと……」 「うるせぇよ!」  遮り、そのまま駆け出す。「よろしく」だの「頼むぞ」だの、調子がいいだけの裏切り者に言われたくなかった。  走りながら、最後犬の名前で呼ばれなかったことに気付く。森村がちゃんと自分の本名を覚えていたとは意外だった。  犬ではなく一人の男として彼が負けを認めたということなら、それは遅すぎたくらいだ。誰よりも光彦のそばにいて、誰よりも想っていたのはいつでも颯太だったのだから。

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