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第16話

***  午後の講義をサボって家に飛んで帰り、虎の子のブタ貯金箱を風呂敷に包んで抱え、また飛び出した。おそらく15万程度は貯まっているはずだ。今自分に用意できる現金はそれだけだったが、何もないよりはましだった。  森村から受け取ったメモの住所、『霧風町夕浜通り3丁目6番地2』は大学から電車で駅5つ、そこからバスで20分の決して近いとは言えない場所だった。町名の響きは光彦が住んでいる所に相応しく海辺の別荘地みたいに綺麗だったが、そこがいわゆる朽ち果てた廃工場が立ち並ぶ、まともな人間は昼間でも近付くのが憚られる寂れた地区だということは颯太も知っていた。    そろそろ夕刻であり、普通なら学校帰りの子供や買い物に行く主婦などで町が賑う頃合だが、人間どころか野良犬1匹いそうもない廃墟だけの区画が延々と続く。こんな所に本当に人が住んでいるのだろうかと足がすくむ。  地図を片手に、入り組んだ細い路地をうねうねと歩きながら目指す住所を探す。やっとたどりついた続き番号、『3丁目6番地1』のプレートは、ほとんど瓦礫の山と化した、かつてはそれなりに立派な工場だったのだろう建物の壁にかかっていた。    ここの、隣のはずだが……。 「はい、どうもこんにちは」  聞き覚えのあるシュガーボイスに颯太はハッと顔を上げ、目の前の廃墟の横にいらない付録みたいにちんまりとくっついて建っているプレハブ小屋を見た。その建物はどう見ても物置並のひどい代物で、屋根があるので雨露がしのげるだけ公園のベンチよりはマシというレベルだった。 「今日も来てくれてありがとう。お礼に煮干ディナーにご招待。ほんのちょっとでごめんなさいね」  掃き溜めに鶴の形容が相応しい美しさの声の主は、その究極のボロプレハブの入口の所にしゃがみこんで、みすぼらしい黒猫に餌を差し出しながら優しげに話しかけていた。 「っ……」  いつものように、名前を呼ぼうとした。しかし、声が出てくれなかった。開けてはならないと言われていた扉を勝手に開いて秘密を覗き見てしまった民話の主人公のように、颯太は呼びかけようとした口を半開きにしたままその場に硬直してしまった。  それほどに、気品溢れる憧れの人の住まいは、彼本人の優雅さを持ってしてもカバーできないほど、それはそれはひどいものだった。  先に颯太の存在に気付いたのは先客の方だった。猫は金の目を油断なく颯太に向けると、もらった魚をくわえパッと駆け去っていく。  光彦が、ハッとこちらに気付き立ち上がった。そのほんの一瞬だがうろたえ、恥じ入るように視線を落とした表情に、颯太は許しもなく勝手に来てしまったことを死ぬほど後悔させられた。    光彦は1秒にも満たないその羞恥の表情をすぐにいつもの笑顔に変えて、アハハと少しだけ笑った。 「まいったなぁ。ついに知られてしまった。ハチの前では、できれば最低限のカッコはつけてたかったんだけどね」  その無理に作った笑顔がつらかったが、こちらまでが悲しい顔を見せるわけにはいかなかった。だから颯太も気合を入れて、無理矢理笑顔をこしらえてみせた。 「何よ、カッコイイじゃん。廃墟大好きだもん俺。メタルっぽくてメチャメチャイカしてるって。住みたくったってなかなか住めないぜ、こんなとこ」  フォローにも何もなっていないそのコメントに光彦は少しだけ目を見開き、そしてさっきよりも嬉しそうに笑う。 「なかなか入れないうちに上がってく? 人間のお客さんを招待するなんて初めてだよ」 「上がってくに決まってるよ、こんなクールなうち。煮干ディナー、俺にもごちそうしてよね」  ギシギシと軋む引き戸を開ける光彦の後に続いて、秘密の城にお邪魔する。  たたきを上がったところは6畳ほどの一間、すっかり黄ばんでささくれ立った畳の部屋だ。奥にドアが一つあるのは一応シャワーとトイレくらいはついているのだろうか。室内にはテーブル代わりの小さな木箱以外、家具らしいものは何もない。見事なまでに人の生活している空気がない。 「工場やってたときに宿直室として使ってた小屋なんだ。元々住んでた家は売っちゃったからね。僕一人住むならここでも十分」 「上等だよ。雨露しのげれば人間って生きてけるもんね」 「コーヒーくらい出してあげたいんだけど、本当に何もないんだ、ごめんね。人が来ることって全くないからさ」 「森村さんは来たことあるんでしょ? ここの住所あいつに聞いたんだから」 「長い付き合いだから僕がここに住んでるのは知ってるけど、来たことはないよ。ほら、なんたってこれだけ素敵な我が家だから。彼とは文字通り住む世界が違い過ぎるし、彼の中の僕のイメージにも影響するでしょ?」    清潔なウィークリーマンションならいいが、この究極ボロ家じゃさすがに引くということか。全くあのヘタレお坊ちゃまらしい。 「ハチ、それ何? 貧乏な僕におまんじゅうでも持って来てくれたの?」  光彦が興味深げに、小脇に抱えた風呂敷包みを指した。 「そんなにおまんじゅう食べたい? 残念でした。これは今の俺の全財産です」  包みを解いて中から現れた古くからの貯金箱の定番、まん丸い目の陶器のブタを見て光彦は無邪気に顔を輝かせた。 「おお、なんとレトロな」 「みっちゃん、俺この中の使い道さっき決めたからね。三番筋の祠に置いてくんの。的は森村高志」 「なるほど、必殺仕事人に頼むのか。それほどの恨みは一体なぜに?」 「だってあいつ許せねぇだろ! あんなキモイくらいにみっちゃん命だったのにさー。パパにちょっと怒られたからもうなかったことにしてくださーい、だとよ。はいこれ、手切金」    封筒を光彦の方に放り投げると、想い人はショックを受けたふうもなく、器用に両手で受け取り中を覗く。 「おおー、百万円!」  どう言ったら光彦を傷付けないですむかとここに来る道々考えて、深刻にせず冗談ぽく、それでも真実を隠さず伝えようという結論に達した。果たしてそれでよかったのかは、札束を見ておどけた声を上げる相手を見る限りではわからないけれど。 「ありがたくいただくよ、高志」  光彦はその封筒を森村の家の方角、南の方へ掲げてからギュッと大事そうに胸に引き寄せた。茶化しながらの仕草、表情も笑ってはいるがどこか寂しげに見えるのもきっと錯覚ではない。それに気付いてしまう颯太の胸も、抑えようもなくわずかに痛む。  それでも明るく振る舞わないと、下手をすると二人して滅入ってしまう。 「ねぇねぇねぇ、今だからぶっちゃけて聞くけどさぁ、森村さんのこと好きだった?」 「う~ん、そうだね。幼馴染みだし、愛すべき人物だと好ましくは思っていたよ」 「ビミョーな言い回しだなぁ。それって愛人になってもいいと思うくらい?」 「好ましいと思ってるだけじゃ、愛人にはなれないよ。そもそもその件は高志のドリーム妄想で、実現不可能な夢物語だからさ。最初から話半分で聞いてた。僕は彼の弱さをよく知ってたから、いつかくるこの結果も見えてたのかもしれないな」 「なんかさぁ、でもちょっと、悲しいんじゃね? そんな顔してる」 「付き合い長いから、これでさよならはやっぱりちょっと寂しいかなぁ。でもね、今はむしろすっきりしてるよ。来るとわかってる別れが果たしていつ来るんだろうってしょっちゅう不安に思ってるより、いっそ来ちゃった方がいい」 「ホントに? 無理してない?」 「ホントだよ。まぁお金もらったからかばうわけじゃないけど、ハチのその大事な貯金もそんなつまらないことに使わないで。ゲームかなんか買いなさい」 「私怨を超えて、これは世のため人のためですよ。あんなヘタレが将来オヤジの世襲で議員になったりしたら、もう日本も終わりだよ? みっちゃんはそれでいいの? 一体国の未来をどう考えてるんですか、あなた」 「うーん、国の未来も大事だけどさぁ、僕には今自分の未来の方が切実」 「そりゃそうだな」  笑い声が重なる。どうにもならないつらい現実が目の前にあるから、心のどこかがいつでも悲しかったが、それでも笑うと少しだけ薄らぐ気がした。胸が楽になった。

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