319 / 347

戸惑い

久しぶりの連休。 家事も済ませ、持ち帰った仕事も切りのよいところまで終わらせた。 時計を見れば3時を過ぎていて。 今から昼食を作るのも面倒くさくて、財布をつかんで外に出た。 そうして向かった駅で電車を待ちながら昨夜のことを思い出していた。 「お帰り、蒼牙...どうした?」 「.......悠、」 いつもより帰りが遅くなった蒼牙を玄関で出迎えた。 靴も脱がず、玄関先で佇む蒼牙。 様子がおかしくて腕を伸ばせば、手が触れそうになった瞬間に体を引かれた。 「...蒼牙?」 その少しの動きに心臓がドクッと音をたてる。 初めてだった。 蒼牙が俺を避けたのは... 「あ…、ただいま」 俯き、俺を見ないまま蒼牙が口を開く。 その態度や雰囲気に違和感が広がる。 蒼牙のその口調、呼び方...それはスイッチが入っているときのものだ。 「...とにかく入れよ。」 なんとも言えない気持ちのまま踵を返せば、グッと腕を掴まれた。 「え、うわっ...!」 そうして力任せに引っ張られ体がよろめいた。 バランスを崩した身体は蒼牙の胸に抱き止められ、そのまま強く抱き締められる。 「.............」 「蒼牙?.....っ!!」 どうしたのかと顔を見ようと体をずらせば、首筋に熱い吐息と熱が触れた。 ついで僅かに走った痛み。 あまりにも突然で訳が分からない。 でも蒼牙の牙が肌に立てられている事だけは理解できて。 何度も繰り返されてきた吸血行為。 でもこんな風にいきなり吸われることは一度もなかった。 咄嗟に目をギュッと瞑り、蒼牙の服を掴んだ。 心臓が激しく鳴っている。 「...........?」 訪れるであろう感覚に備えていたが、蒼牙がそれ以上力を入れることはなくて。 耐えるように、俺の首筋に咬みついたまま蒼牙は動かなかった。 「...どうした?」 服を掴んでいた手を離し優しく後頭部を撫でる。 その動きと俺の声に蒼牙がピクッと体を震わせたのが分かった。 首筋にかかるどこか熱い吐息と僅かに立てられている牙の感覚に俺の体も熱を持つようだ。 「....ごめん」 やがてゆっくりと顔を上げると俺の顔を見つめてきた。 揺れる蒼い瞳の中には、苦しそうな...でも明らかな欲望の色が灯っていて。 その瞳に見つめられ、ゾクッ...と体に震えが走った。 「...っ、怖がらせて...ほんと、ごめん。」 瞼に口付けながら蒼牙が囁く。 優しく触れてくるその温もりにホッと息を吐いた。 謝る蒼牙の口調はどこか情けなくて。 知らずと緊張していた体から力を抜き、蒼牙の顔を両手で挟んだ。 「勘違いするな。」 「悠?」 真っ直ぐに瞳を見つめ少し強めの口調で言えば、戸惑ったように名前を呼ばれた。 「ビックリしただけだ。怖かったんじゃない。」 「.........」 「お前に血を吸われるのを『怖い』と感じたことなんか一度もない。だから、勘違いするな。」 「........ん、」 情けない顔でフニャッと顔を歪める蒼牙に、口を寄せる。 チュッ...と唇を触れ合わせ、抱き締めた。 「何かあったんだろ?話したくないなら今は聞かないから...だからそんな顔するな。」 耳元で囁けばきつく抱き締め返される。 「ありがとう、悠...」 「ン....」 言葉と共に降ってきた口付けを受け止める。 触れては離れまた重なってくる唇。 慈しむように繰り返される口付けに、俺から舌を差し出すことで応えていったー。 電車を下り休日の賑やかな街の中を歩く。 昨日の様子が嘘のように、今朝の蒼牙はいつもと同じ態度だった。 「今日は木内さんと飲みに行くんですよね?迎えに行きますから、電話下さいね。」 見送る俺に笑いかけながらそう言う蒼牙に「分かった。」と返した。 『飲みすぎないように』と念を押すのについ苦笑してしまうが、いつもと変わらない態度にどこかホッとした。 今までの経験で、話し合うことの大切さは痛いほど分かってはいるが。 昨日の蒼牙にはそれを聞くことが出来なかった。 何があったのかを聞くよりも、蒼牙の心を軽くしたくて繰り返される口付けに想いを込めた。 腕時計を確認し、小さく息を吐く。 まだ木内との待ち合わせまで時間がある。 何か見たい物があるでもなく、カフェに入りコーヒーを注文した。 窓際に座り、行き交う人々を見つめる。 仲の良さそうなファミリーやカップル。 休日に関係なく仕事に追われるサラリーマン。 塾に通うのか、大きな鞄を背負った子供。 色々な人を眺めながらコーヒーを飲んでいれば。 「.......っ、」 カップを置こうとしていた手が止まる。 通り過ぎていった後ろ姿を視線で追う。 色が白く、柔らかそうな髪を無造作に束ねた女性。 驚くほど綺麗なその女性は嬉しそうに笑っていて。 甘えるように腕を絡め、隣の男に話しかけていた。 「今の...」 見間違えるはずが無い。 俺がアイツを間違える訳がない。 女性の隣に並んで歩いていたのは、間違いなく蒼牙だったー。

ともだちにシェアしよう!