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警鐘
「失礼致します。」
カチャ....
「えっ...」
言葉と共にテーブルに置かれたコーヒーカップ。
視線を上げればそこには微笑む美波さんの姿があり、心臓が一瞬冷えたのを感じた。
お礼だと言われて連れてこられた店内でいつの間にか仕事の話になり、知らずと熱が入っていたらしい。
彼が声を掛けるまでその気配に気づかなかった。
ほぼ食べ終えたパスタ皿の横に置かれたコーヒーからは、香ばしく上品な香りが立ち上り鼻を擽る。
だけど...
「...コーヒーは注文していませんが。」
頼んだ覚えのないコーヒーに戸惑い、見上げた彼にそう伝えると真っ直ぐに見つめ返された。
「こちら、当店からのサービスでございます。」
「サービス?」
繰り返した俺の言葉に「はい。」と答えると、美波さんは山下の方を向いた。
「お客様、よく当店をご利用くださっていますよね。」
「え、あ、はい!覚えていてくれたんですか!?」
思わぬ言葉にすっかり舞い上がったのか、山下は顔を赤らめながら大きな声で返事をする。
その様子にクスクスと笑うと美波さんは優雅に一礼した。
「いつもありがとうございます。ほんのお礼ですので、食後にごゆっくりとお召し上がりください。」
「あ、ありがとうございます!」
「どうも...ありがとうございます。」
嬉しそうにお礼を言う山下の向かいで軽く頭を下げる。
できればこれ以上彼と接点を持ちたくはない。
サービスだと言うのなら素直にこれを受け取った方が良いだろう。
そうして「それでは...」とキッチンへと戻っていく彼の後ろ姿を見つめていると「はあ...」とため息が聞こえてきた。
「俺、ここに通ってて良かった~。」
「.....良かったな、覚えててもらえて。」
そう言って嬉しそうにコーヒーに口をつける山下に、なんとも言えない気持ちになる。
「これからも通いますよ!いつか名前も覚えてもらうんす!」
まるで学生のように言い放つ山下に、ハハハ....と渇いた笑いを返す。
美波さんが実は『男』で『吸血鬼』だと言えるはずもなく「まぁ頑張れよ...」とだけ伝えると、俺も置かれたコーヒーに手を伸ばした。
スンッと軽く息を吸いコーヒーの芳しさを楽しむ。
癒される香りに、自分が思ったよりも緊張していたことを知ったー。
「それじゃあ、俺んち向こうなんで。本当にありがとうございました!」
「こちらこそ、ご馳走さま。...また来週な。」
「はい!」
山下が深々と頭を下げるのに手をあげて応える。
そうして店の横で別れると、もう一度蒼牙に連絡を入れようとポケットからスマホを取り出した。
その時...
「....ッ、!」
目の前がグニャリと歪む。
何が起きたのか分からず、よろめく身体を支えるように壁に手をついた。
「くっ、はぁ...」
大きく息を吐き出し頭を押さえる。
なんだ、これ...力が、抜ける....
持っていたスマホが手から滑り落ち、コンクリートの上で嫌な音を立てる。
あまりにも急に襲ってきた目眩。
「なんだよ...これ...」
スマホを拾おうにも身体を支えるのがやっとで、思うように動けない。
「あ、効いてきた?」
「え...」
聞き覚えのある声。
ゆっくりと視線を向ければ、そこにはニッコリと綺麗に微笑む美波さんが立っていて。
「な、にを....」
背中を冷や汗が流れる。
頭の中で警鐘が鳴り響く。
「ちょっとね。コーヒーに細工させてもらっちゃった。」
悪びれることなくそう言うと、彼は俺の側まで歩いてきた。
白く細い手が俺の顔に伸びてくる。
「はじめまして、『悠さん』」
「...なっ..!」
ゾワリと悪寒が走る。
どうして名前を知っているのかとか、どうして俺のことが分かったのかとか...そんなことよりも、笑っているはずの彼の目が怖いと感じた。
「さわるな...!」
咄嗟に手を払い除け、縺れる足でその場から逃げようと踏み出した。
ガチャ、ガチャン....!!
「ツッ...!」
大きく身体がよろめき、店の横に置いてあったケースに倒れ込む。
右腕に鋭い痛みが走り、鉄の臭いが広がった。
「ほら...急に走るから。大丈夫?」
側に座り込んできた彼が膝に頬杖をついて見つめてくる。
その姿を睨み返せば、クスクスと愉しそうな笑い声が聞こえてきた。
「そんなに睨まなくても。ちょっと話がしたいだけだよ。」
「.......」
「あなたさ、秋山くんの『特別』でしょう?だから気になってたんだよね。まさか男だとは思わなかったけど。」
「な、んで...」
声が震える。
目眩は続き、バクバクと心臓の音が煩い。
「あーあ...怪我してるじゃん。俺の家、すぐそこだから。手当てしてあげるからおいでよ。」
血の流れる右腕を捕みそう言う彼に「ふざけん、な...」と声を絞り出す。
力が入らない。
逃げたいのに、身体が動かない。
「ふふっ、良いね。けっこう気が強いんだ。」
ブワッと身体が浮く感覚。
女性のような見た目からは想像もつかない力で抱き上げられる。
暴れる力も、罵る声も出ない。
視界が揺れ、聞こえる音もだんだんと遠退いていく。
蒼牙..ごめん...
心の中で謝り...そこで俺の意識は途絶えたー。
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