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混沌

side 朔弥 玄関の扉が閉まる音に、身体中の力が抜けた。 階段を走り降りる音が遠ざかっていく。 兄さんは確かに足が速いが、秋山くんも速そうだし···きっとすぐに追い付くだろうな。 ソファーに座り込み顔を手で隠しながら、溜め息が出る。 ···何やってるんだろう、俺。 コンビニで兄さんの好きなビールを選んでいると、隣にやってきた客。 すぐに避けようとしたが、男が伸ばしたその腕に釘付けになった。 あまりにも見覚えがあるデザイン。 兄さんが恋人に贈った物と同じもの。 限定デザインのその腕時計を嵌めている男なんて限られている。 こいつが兄さんの··· 隣に立つ男をまじまじと見る。 こんなに顔の整った人間、俺は初めて見た。 高い身長、長い手足、小さな頭。 完璧なまでに完成された容姿に穏やかな雰囲気。 そして、兄さんのアパートに一緒に帰り、会話を続ける間に見せた俺に対する警戒心は、訓練された立派な番犬のようだった。 『恋人ですよ。』 俺の質問に何の躊躇いもなく答えた潔さ。 真っ直ぐに俺を見てくるその瞳には迷いなど一つも感じられなかった。 『悠さんと付き合うことに、恥ずかしさや後ろめたさなんかありませんから。』 その言葉にショックを受けた。 『男』だから··『弟』だからと、兄さんを諦めようとした自分となんて違うのだろうか。 ···兄さんが惹かれたわけだ。 あの言葉を聞いて、俺に勝ち目なんかない···そう思ったのは事実で。 でも、だからといってこのまま大人しく引き下がれるような、簡単な気持ちなんかでもなくて。 兄さんはたぶん気付いている。 俺が兄さんに家族とは違う感情を抱いていることに。 昨日、風呂上がりで頭を拭いている兄さんを見た瞬間、どうしようもなく触れたくなった。 濡れた髪から覗くうなじが綺麗で、気付けば抱き締めて唇を寄せていた。 吸い上げたうなじに薄い痕が残り、醜い満足感が俺を満たした。 食んだ耳朶は柔らかく、息を詰まらせた姿に愛しさが込み上げていく。 振り返った兄さんに想いを口にしようとした···その時、腕から逃げだした兄さんが俺の口を塞いだ。 その瞳はひどく悲しそうで。 欲望に突き動かされ行動した自分を恥じた。 そして今日。 こうして秋山くんと話していくうちに···色々な感情が混ざって、気付けば『邪魔する』という行動をとっていた。 兄さんが部屋に入ってくるタイミングを狙って秋山くんに口付ける。 あんなに警戒していた彼が、まさか自分にキスされるとは思っていなかったのだろう。 あっさりと触れることができた唇。 これがいつも兄さんに触れているのだと思うと、無性に腹が立った。 『あんた、いったい何考えて···!!』 唇を拭いながら睨み付けてきた秋山くんに、俺は怒りを笑顔で隠して答える。 秋山くんがグッと手を握り締めたのが分かり、あぁ殴られるかもしれないなと思ったが、彼は俺と争うことより兄さんを追いかけるほうをとった。 思い出してもう一度唇を拭う。 これでヒビが入りダメになるような間なら、早いとこ別れたほうが良い。 でも、そう思う反面で兄さんが傷付かないで欲しいとも思っている。 ほんと、思っていることも、やっていることも、全てが矛盾している。 頭の中がぐちゃぐちゃだ。 自分がどうしたいのか、どうすれば良いのか、考えがまとまらない。 それでも一つだけはっきりしていることは、俺はまだ兄さんに気持ちを伝えていないということで。 兄さんは悲しむかもしれないが、ちゃんと伝えたい。 おかしいかもしれないが、それでも俺は本気であなたが好きなのだと、愛しいのだと、言葉で伝えたい。 じゃないと、俺は諦めることも··前に進むこともできない。 大きく息を吐き出す。 今ごろ兄さんは秋山くんと一緒だろう。 だけど···なぜだろう、兄さんはもうすぐ帰ってくる気がする。 例え秋山くんが止めても、あの人は帰ってくる。 そんな確信めいた思いに襲われ、俺はもう一度大きく息を吐き出した。 帰ってきたら、今度こそ想いを伝えよう。 受け入れてもらえなくても、嫌悪されても、それでも貴方が好きなのだと伝えたい。 耳を澄ます。 コツコツと階段を登ってくる足音が聞こえてくる。 間違えようのない··何年も聞いてきた、焦がれていた足音。 「ただいま、朔弥。」 「···お帰りなさい、兄さん。」 やがて部屋に入ってきた兄さんをゆっくりと見つめる。 そこには穏やかな···でも、決心を固めた顔をした兄さんが立っていたー。

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