169 / 347

向き合う2

side 蒼牙 昨夜の騒動から一夜明け、今日は早番で夕方には仕事が終わった。 『大丈夫、明日ちゃんと話すから。』 その言葉の通り朝にはメールがあり、仕事が終わったら悠さんのアパートにお邪魔することになっていて、途中で晩御飯の材料を買い出ししてから向かった。 アパートの鍵を取り出しながら顔が弛む。 色々あったけど、やっとゆっくり一緒に過ごせる。 こうやって鍵を開けるのも久しぶりだ。 ところが鍵穴に差し込もうとしたその瞬間、中から鍵を回す音がして扉が開いた。 びっくりして固まる俺の前に現れたのは篠崎さんで、俺を確認して向こうも固まっていた。 「···あぁ、びっくりした。いらっしゃい。」 そう言ってニコリと笑うのに、俺の眉が寄る。 まだ悠さんから何も聞いていない。 警戒してしまうのは仕方ないと思う。 「そんなに怖い顔しなくても、何もしないよ。」 クスッと笑うと篠崎さんは手を担げて見せた。 「ほら、もう帰るところだしね。兄さんから何も聞いてない?」 「···はい。」 その手には大きなカバンがあって、ちょうど帰ろうとしていたところだったことが分かる。 「そっか、とりあえず入りなよ。俺ももう帰るから。」 そう言って体を横にずらし、中に入るように促してくる。 部屋に入ると彼の香水の香りが充満していて、やっぱり不快な気分になってしまう。 そんな俺に篠崎さんは笑顔のまま声を掛けてきた。 「昨日はごめんね。」 「はい?」 突然に謝られて、ソファーに座りながら篠崎さんを見上げた。 そこにはからかっているのでも、バカにしているのでもない、すっきりとした笑顔の篠崎さんが立っていて。 昨夜、悠さんと何かがあったのだと察知できた。 「兄さんから聞くだろうけど、俺からもちゃんと謝っておきたくて。昨日はごめんね。」 そう繰り返し謝ると、彼は昨夜の出来事を話始めた。 ずっと好きだったこと。 ちゃんと想いを伝えて振られたこと。 それらを話す篠崎さんはとても穏やかな表情をしていて、彼の中で悠さんへの想いが綺麗に消化できているのだと感じさせた。 黙って話を聞いていた俺に篠崎さんが笑いかける。 「···兄さんのこと、よろしくね。」 「···はい。」 そう綺麗に笑うのに、俺はそれだけしか答えられなかった。 もし、反対の立場だったら俺は同じことが言えただろうか。 悠さんを諦められただろうか···。 そう考えると、俺は自然と篠崎さんに頭を下げていた。 「ありがとうございます、話してくれて。」 そう言って俺は初めて心から笑った顔を見せた。 この人は強い。 同じ男として俺はこの人が嫌いではないと、そう思った。 「うん。じゃあ、俺は帰るね。···あ、そうだ。一つだけ聞いていい?」 「何ですか?」 立ち上がり帰ろうとした篠崎さんは、俺を見下ろしながら聞いてきた。 「俺は君の腕時計で気付いたけど、秋山くんはどうして俺が『篠崎』だって分かったの?」 首を傾げる仕草はなんだか可愛くて、俺はフッと笑いが溢れた。 「篠崎さんの香水で。以前、悠さんから貴方の香水の香りがしたから。···香りが移るなんて、かなり妬きました。」 少し恥ずかしく思いながら答えると、篠崎さんは呆気にとられた顔を見せた後で大きな声で笑い出した。 「ハハハ! そっか、匂いか、アハハ!!」 「···そんなに笑わなくても良いでしょう。」 笑い続けられ俺が憮然とした声で言うと、目尻を指で拭いながら謝る。 「ごめんごめん。だって、香水って。番犬みたいだとは思ったけど···本当に犬みたいなんだもの。」 楽しそうに笑いながらそう言うと、手を差し出してきた。 「···じゃあね。また会うこともあるだろうから、それまで元気で。」 すっきりとした顔で差し出された手を握り返す。 「はい。篠崎さんも...お元気で。」 握り返した手が離れるのと同時に、踵を返して部屋を出ていく篠崎さんを見送った。 一人になり悠さんの部屋をぐるりと見回すと、大きく息を吸い込み、そして吐き出す。 ここに来たときのあの不快な気分は綺麗に消えていて···あるのは、ただ早く悠さんに会いたいという強い思いだけだったー。

ともだちにシェアしよう!