220 / 347
悠と蓮華と那緒
side 悠
残業中。
もう少しで仕事も片付くかと一息ついていると携帯にメールが入った。
蒼牙からかと確認して、一瞬で心拍数が上がった。
『これから蒼牙の勤め先に向かうよ。』
雛森さんからの短いメール。
だけど言わんとするところはすぐに理解できる。
「悪い、急用ができた!今日はもう上がります。」
残りの仕事を急いで片付け、同僚逹に一言告げる。
バタバタと机の上を整理していると、隣から声を掛けられた。
「···篠崎、頑張れよ。」
妙に勘の良い木内が指を立ててニッと笑う。
たったそれだけのことが俺に力を分けてくれる。
「ありがとう。」
大きく頷き、鞄を掴んだ。
歓迎されるとは思わないが、それでも今会いに行かないと後悔する。
向き合って、顔を見て話をしたい。
電話では伝えられなかった思いをきちんと伝えたい。
走って乗り込んだ電車の中で大きく息を吐く。
流れる風景を見つめ祈るような気持ちで電車に揺られたー。
「姉さん!」
雛森さんが呼び止めた女性に視線を向ける。
····正直、戸惑った。
こんなにも美しい人を見たのは初めてで。
そして、あまりにも若くて。
この人が蒼牙のお母さん?
とてもそんな年には見えない。
それでも、そんな戸惑いはすぐに消えた。
「···ええ、蒼牙の母親です。貴方が『悠くん』ね。」
醸し出す雰囲気は蒼牙とよく似ていた。
自信に満ち、俺を翻弄するあの蒼牙に。
そして···微笑みながら俺を見つめるその瞳は蒼牙と同じ色で。
まるで海のように深い蒼。
満月の夜に広がる晴れ渡った空のような···そんな色。
「篠崎悠です。先日は電話で失礼致しました。」
軽く一礼して挨拶を交わし、真っ直ぐに瞳を見つめ返した。
争いに来たのではない。
お互いを知るために、話し合いに来たのだ。
そんな気持ちを込める。
「···うん、まずは合格ね。」
微笑みを崩さずに小さく呟くと秋山さんは「お茶でも飲みながら話しましょ。」とホテルに入っていく。
「ほら、行こう。」
雛森さんにポンッと背中を叩かれ促される。
その隣には長身の綺麗な女性が立っていて、俺に会釈をしてきた。
彼女が『ナオさん』だ。
背筋を冷や汗が流れた。
いざ蒼牙に紹介されるという女性を目の当たりにすると、一気に不安が襲ってくる。
俺とは違い、蒼牙の子供を身籠ることができる··吸血鬼の女性。
蒼牙の為を思ったら、本当は俺が身を引くべきなのだろう。
だけど····
『俺が必要なのは貴方です。』
蒼牙の言葉が俺に勇気をくれたから。
俺はアイツの側にいて良いのだと自信をくれたから。
俺も彼女に会釈を返すと、雛森さんの後を着いていったー。
ホテルロビーの隣にあるカフェに入ると、秋山さんは俺の向かいでニッコリと笑った。
「来てくれてありがとう。···それで、何かご用があるのかしら?」
敬遠されているとしか思えない態度でそう言うと、運ばれてきたコーヒーに口をつける。
まるで映画の一場面のような優雅なその様子に一瞬息が詰まった。
「突然に来てすみません。今日は俺のことを知ってもらいたくて来ました。···ご存じの通り、俺は蒼牙と付き合っています。」
「ええ、蒼牙ったらすごく嬉しそうに話してくれたわ。」
まるで子供のように···と綺麗に微笑む秋山さんに思わず顔が赤らむ。
「ちゃんとご挨拶ができていなくて、申し訳ありませんでした。」
深く頭を下げる。
ゆっくりと頭を上げ、秋山さんの隣に座っているナオさんに視線を向けた。
俺と秋山さんのやり取りを見つめていた彼女は、俺と目が合うと困ったように微笑んだ。
···可愛い女性だな。
素直にそう思う。
切れ長な瞳にスッとした鼻筋。
綺麗な顔立ちだが、フワリと笑うとその表情が少し幼くなる。
「貴女がナオさんですよね?」
「え、はい。」
そう声を掛けると少し戸惑ったような表情になる。
「今日は蒼牙に会いに来たのでしょう?」
「ええ、そうよ。ナオさんを紹介しようと思って。」
「はい?」
ナオさんより早く、秋山さんが答える。
それに驚いたような声を出したナオさんが、慌てて手で口を塞いだ。
「···秋山さんが電話でおっしゃったことを、俺もあの後考えました。本来ならちゃんと女性と結婚して子供を残すことが正しいのだと思います。」
「········」
「だから···秋山さんが母親としてナオさんを紹介しようとしていることも、俺が蒼牙と付き合っていることを反対されることも、当たり前のことで仕方のないことだと思っています。」
「····そう。理解してもらえて嬉しいわ。それで?貴方は身を引いてくれるのかしら?」
コーヒーカップをテーブルに置き、俺を見つめてくる。
カチャン···と響く音がやけに大きく感じるのは俺が緊張しているからだろうか。
「それは出来ません。」
「····どういうこと?」
ハッキリと答えると、秋山さんの眉が寄せられた。
そんな表情は蒼牙とよく似ていて、やっぱり親子なんだなと···と頭の片隅で考えてしまう。
「俺には蒼牙が必要なんです。蒼牙は俺を強くしてくれます。苦しい時には側に寄り添ってくれる。一緒に笑い、考えて、見守ってくれる。こんなにも側にいてほしい、側にいたいと思えたのは蒼牙が初めてなんです。」
「·········」
何も言わず聞いてくれる秋山さんに心の中で感謝をしつつ、俺は言葉を続けた。
「蒼牙といると心が穏やかになれる。安心していられるんです。····だから、俺から蒼牙と離れることは出来ません。」
「····そう。」
秋山さんの表情がフワリと優しくなったように感じた。
それがどうしてなのかは分からないが···
「だけど···秋山さんがナオさんを紹介することを止める権利は俺にはありません。そしてこれから先、例え蒼牙がナオさんや他の女性を選んだとしても、俺は仕方ないことだと思っています。」
どんなに抗っても俺が男である以上蒼牙の子供を産むことはできない。
逆に言えば、俺の子供も残すことはできないのだ。
それでも俺は蒼牙と生きていきたい。
それだけの覚悟をして付き合っていることを、この人に分かってもらいたい。
慎重に言葉を選びながら話していった。
秋山さんも、そしてナオさんも黙って俺を見ている。
隣に座っている雛森さんがどんな顔をしているのかは見えないが、きっと同じような表情をしているのだろう。
時間をかけて自分の想いを、考えを、覚悟を伝える。
そうして一通り話すと、大きく息を吐いた。
「自分のことばかりを話して申し訳ありません。でも、これが俺の嘘偽りのない正直な気持ちです。」
真っ直ぐに秋山さんを見据え微笑んだ。
気持ちは晴れやかだった。
例えこれで分かってもらえなくても、あとは蒼牙に託そう。
『俺達の問題』だと、蒼牙も言ってくれたのだから。
「·······」
「·······」
沈黙が続く。
けどその沈黙は決して険悪なものではなく、お互いを理解しようとする穏やかな空気。
やかて口を開いたのは秋山さんだった。
「·····良かった。」
「はい?」
ポツリと呟かれた言葉を聞き返すと、秋山さんはテーブルに肘をついて顔を隠した。
僅かに肩が震えている。
もしかして····泣いてるのか?
一瞬で緊張が走る。
どうしよう、泣かせてしまった···!
「あの、秋山さん」
「ありがとう、悠くん。」
「···え?」
おそるおそる声を掛けると、顔を上げた秋山さんが満面の笑みで俺にそう言った。
「ほんと蒼牙にはもったいないくらいね。ありがとう、あの子を選んでくれて。」
······どういうことだ?
「はぁ····姉さん、あんまり悠くんを苛めないでくれる?状況が読めなくて困ってるじゃないか。」
それまで黙っていた雛森さんが口を開く。
一気に空気が和らいで、何が起きたのか分からず戸惑ってしまう。
「···あの、すみません。母がご迷惑をお掛けして。」
ナオさんが頭を下げ申し訳なさそうにそう言うのに、頭がついていかない。
「え···母?」
「はい。私、『秋山那緒』です。蒼牙が···兄がいつもお世話になっています。」
「え、えぇ!?」
丁寧に自己紹介をするナオさんの言葉に、思わず大きな声が出てしまう。
照れたように笑うナオさんと、クスクスと面白がり笑っている秋山さん。
助けを求めるように雛森さんに視線を向けると、彼もまた人の悪い笑顔を浮かべていたー。
ともだちにシェアしよう!