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嘘と真実

side 蒼牙 昼食時、本当なら今日も仕事だったはずの悠さんが店に現れた。 驚きはしたが、どうしたのかなんて聞かなくても分かる。 そうして一人で食事をしている姿が綺麗で、思わず見つめていると手招きされた。 「カナに話がある。少しだけいいか?」 そう言われてスタッフルームに案内する。 扉を開き中に入っていく様子からは、躊躇いや迷いは一切感じられなかった。 それから少しして、想像以上の早さでスタッフルームから悠さんは戻ってきた。 「ありがとう、蒼牙。終わったら連絡してくれ。待ってるから一緒に帰ろう。」 穏やかな表情でそう言って店を出ていこうとするのを引き止め、店内からは死角になる待ち合いスペースで抱き寄せた。 「ちゃんと話せましたか?」 耳元で囁けば、クスッと笑う吐息が首筋に掛かる。 「ああ。おかげで心に引っ掛かっていたものが無くなったよ。···ありがとう。」 「なら···良かったです。」 抱き締める腕に力を込め、耳に軽くキスを落としてから身体を離した。 「···また後でな。」 「はい。」 頬を撫でながら微笑んでくれるのに俺も微笑み返し、店を出ていく後ろ姿を見送った。 昨夜、悠さんは『愛してる』と何度も囁いてキスをしてくれた。 熱を奪い合うかのような深いキス、 イタズラに戯れるようなキス、 慈しむような優しいキス、 長い時間重ねた悠さんの唇は、離れたときには紅く艶やかで。 堪らなくて強く抱き締めればまた重ねてくれた。 いつもならそのままセックスに持ち込むが、昨日はいつまでも抱き締めていたくて。 同じように感じてくれたのか、悠さんもそれ以上のことはしてこなかった。 ···今日が早出で良かった。 夕方には仕事が終わり、その後は悠さんとゆっくりと過ごせるから。 まだ愛しい人の温もりの残る手をギュッと握りしめ、俺は店内に戻っていったー。 「秋山くん、少しいいかしら。」 スタッフルームて着替えを済ませ部屋から出ると、芦屋さんが立って待っていた。 一瞬身構えてしまったが、悠さんの穏やかな顔を思いだし緊張を解いた。 「···はい。じゃあ、どうぞ。」 スタッフルームの扉を開き芦屋さんを中に招き入れる。 コツコツとヒールを鳴り響かせ入っていくと、芦屋さんはクルリと振り向き、そのまま深く頭を下げてきた。 「···ごめんなさい。」 「え···?」 あまりにも突然の謝罪に頭がついていかない。 「私、あなたに嘘を吐いた。それも···2つも。」 「嘘···ですか?」 とりあえず頭を上げてもらうように声を掛け、イスに座るように促した。 「それで、一体何が嘘···だったんですか?」 芦屋さんを見つめる。 顔をクシャッと歪めたその表情は少し幼く見えた。 「一つは···このピアス。」 そう言って、芦屋さんは自分の耳にソッと触れた。 「これは悠がくれたものよ、それは本当。けど、くれたのは別れた後なんかじゃない。···別れる直前よ。」 「え···」 「私の転勤が決まってから、とても悩んだの。悠とは離れたくない、けど夢だった仕事も簡単に諦められないって。そんな時にね、悠がこれをプレゼントしてくれたの。『名古屋に行け。応援してるから、頑張ってこい』···そう言ってくれたわ。」 「·········」 懐かしそうに、けど切なそうに話す芦屋さんから視線が反らせなかった。 「嬉しい言葉なはずなのに···悲しかった。私だけが離れたくないって思っていることが分かって。だからね、その時に言っちゃった。『ピアスじゃなくて、指輪が欲しい』って···『仕事は諦めるから、あなたと結婚がしたい』って。」 フフッと笑う芦屋さんに何も言えなかった。 夢を諦めてでも悠さんと一緒にいたいと願うその気持ちは俺にも分かる。 それだけ彼女は悠さんのことを想っていたのだ。 「だけど···その時の悠を見て、ダメなんだって気付いた。私では悠の『特別』にはなれないんだって···だから、名古屋に行った。」 「そう··だったんですね···。」 小さく呟き、胸が楽になるのを感じた。 別れた後と前とでは同じプレゼントでも全く違う。 悠さんがどういう想いを込めて贈ったものであったのか、それが分かって良かった。 けど···その時の彼女の気持ちを思うと、あからさまにホッとすることもできなかった。 「それと、もう一つ。あなたとホテルロビーにいたときのこと。」 「···はい。」 「あの日、悠があなたに向けたあの笑顔···私はあんな悠の表情を見たことがなかったわ。」 「····ッ、」 芦屋さんの言葉に喉が詰まった。 『悠のあの表情····私に見せていたものと同じだったから。』 彼女は確かにそう言った。 それが酷く嫌で、悠さんが俺だけのものではなかったのだと···そう突き付けられたような気がしていた。 「私には···あんな嬉しそうな、幸せそうな笑顔を見せたことがなかった。私だけじゃない···学生時代から悠のことを知っているけど、誰にもあんな顔を見せたことがないわ。あれは···あなただけに見せる表情なんだと思う。」 そう言って芦屋さんはもう一度頭を下げた。 「あの瞬間、私がなりたかった悠の『特別』に、あなたがなっているって分かって···悔しかった。だからあんな嘘を···本当にごめんなさい。」 その声は僅かに震えていて。 この人は悠さんに振り向いてほしくて一生懸命だったのだと、そう強く実感させた。 それは俺も同じで。 ···もし逆の立場だったら、俺もどうしていたか分からないから。 「芦屋さん、大丈夫ですから···頭を上げて下さい。」 穏やかに伝えると、ゆっくりと顔を上げた芦屋さんと目があった。 「話してくれてありがとうございます。本当に····ありがとう。」 それだけしか言えなかった。 本当に、もう十分だと思えた。 そしてそれを聞いた芦屋さんは安心したように笑った。 「帰ろうとしていたところを引き止めてごめんなさいね。それじゃあ···」 そう言って立ち上がり出ていこうとした芦屋さんは、もう一度振り返ると言葉を続けた。 「私が謝ろうと思えたのは、悠がちゃんと振ってくれたから。····それと、あなたに謝れって背中を押してくれたからよ。おかげで気持ちよく名古屋に帰れる。」 「····悠さんが?」 「ええ。ほんとに···あなたは悠に愛されてるのね。悔しいけど、認めざるを得ないわ。」 「じゃあね、悠にお礼を言っておいて。」とニコリと笑う芦屋さんは、とても綺麗に見えたー。 腕時計を確認すると約束していた時間が迫っていて。 急いでホテルの裏口から出た。 走ってたどり着いた待ち合わせ場所には、俺を待ってくれていた悠さんが立っていて。 俺を見つけてフワリと笑うその表情に胸が締め付けられた。 『あなただけに見せる表情なんだと思う』 芦屋さんの言葉が頭を過り、堪らなくなった。 「お疲れ、蒼牙····ッ!」 言葉を掛けてくれる悠さんの身体を抱き寄せる。 「蒼牙?····ンッ、」 そうして驚いている悠さんの顎を持ち上げ上向かせると、その温かい唇に自分のそれを重ねたー。

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