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競の前

 あらかじめフィンレイには、良い子にしてないと殺すぞと言い含めてあった。大袈裟に脅したつもりはない。少しニュアンスが違うだけの話だ。これでも自らは選り好みするたちなので、必然的に周りもそう言う人間ばかり集まってくる。連中は素人が嫌いだ。本来は自らも……けれどこのガキは案外腹が据わっているし、車の運転も人並みにこなす。つまりまともな人間のふりをしてハンドルを操ることが出来る──逃走の際必要なのはミハエル・シューマッハじみたドライビング・テクニックではなく、お巡りに目をつけられず、ネズミ捕りに引っかからず、ひたすら冷静に道路を走り続けることが出来る肝っ玉なのだから。 「最初が肝心だ。舐められたら終わりだからな」 「あんたになら舐められてもいいけど」 「フィン」  先程までぶらついていたコンビニはこんな田舎の店に珍しく、冷房が利き過ぎていた。ロッドの荷物から掠奪したパーカーの中で、フィンレイは肩を竦める。2人の背丈はほぼ同じだが、肉付きが違うので、二の腕も胴もだぶつきが顕著に現れるし、青白い肌の上を滑るポリエステルがやたらとエロく見える。 「あんたは俺を殺せないよ」  そうかもしれない、と言ってやるのが情けなのだろう。見つめた飴色の瞳は自信に満ち溢れている。常ならばこんな青臭い生意気さへ対峙した時、ロッドが一番に感じるのは嘲りと征服欲だった。けれどつんと突き上げられた鼻先は、憐れみを催す。分かったよ、と肩に腕を回して引き寄せ、そのままベッドへと連れて行き、失神するほど可愛がってやりたい。  或いは気を失うまで首を絞めて、血の気の引いた顔を撫で回し、青ざめた唇へキスをする。  これは征服欲と言うのだろうか? まあ、別に何でもいい。どんな形であれ、これは愛の、少なくとも類似物ではあるはず。 「俺が殺さなくても、お前を殺そうとする奴は幾らでもいる。真面目な奴ほど、馬鹿を排除しようとするもんだ」 「俺のこと馬鹿って言いたい訳?」 「ああ。碌に場数も踏んでない、いつ足を引っ張ってもおかしくないような、小便臭いジャリタレだよ」  駐車場のひび割れたアスファルトを蹴ろうとしたアディダスは、結局爪先が食い込んで終わる。或いはわざとなのかも知れない、この頑是ない仕草は。途切れなくガムを噛む合間に尖る唇は唾液で濡れ、夕暮れに悪あがきの如く強まる日差しにてらてら下品な輝きを放っていた。 「それでも、これまで俺、失敗したことないよね」 「これまではな」  いい加減黙らないと引っぱたくぞ、という代わりに、ロッドはシボレーの傍らで足を止めた。うっかり背中へぶつかろうとしてきた勢いもそのままに、骨張った肩へ腕を回して引き寄せる。ちっと口から音が漏れたのは、粘り気を増した増したチューイングガムが本人の予想を外れた弾み方をしたせいだろう。毛細血管が透けて見える赤い粘膜に、緑色のつるっとした人工物が張り付いている様を、ロッドは容易に想像することが出来た。さっきまで助手席から身を乗り出し、父親程の歳の男のものを熱心に舐めしゃぶる為丸められた背中に、すっと手のひらを滑らせる。微かに胸を前へと突き出し、フィンレイは言った。 「ビビんなって」 「それはお前だろ」  乾いた空気へ放たれたロッドの呟きを追いかけるようにして、フィンレイの視線がどろりと動く。 「あんたが嫌なら車で待ってるけど」 「駄々を捏ねるなら、いつでも家に帰っていいんだぞ」  今度は明確な意志を持って舌打ちはこなされた。その癖まるで媚を売るように、こめかみが間近の耳元へ押し付けられる。ミントの匂いと汗臭さ。「口の中が気持ち悪いから店に寄って」助手席から投げかけられる、あの惨めな、なすすべない子供の嗄れ声で、もう一度己の鼓膜を震わせたくなった。 「今夜はショーン・モイニハンが顔を出す。俺やお前の親父とは同じ部隊だった。奴はお前を知ってるし、きっと話の間中、値踏みしてるぞ」 「俺が父さんと同じ位優秀かって?」  代わりに耳へと乗り込んで来たのは「あーっそう」と、ティーンの頃から一向に進歩していないのだろう、不貞腐れた抑揚だった。 「嫌だな。出来る親父を持つと」 「どれだけ頭がキレても、ムショにいちゃ手も足も出やしないさ」 「早く帰って来て欲しいよ。怪我のお陰で刑期短縮にならないかな」  かつて戦地へ赴いていた時は、危険な空気が頬を掠めるが早く、反射的にレッグホルスターへ手を伸ばしていたものだ。それが今や、指はジーンズのポケットへ。かつて最後の砦がシグP320だったように、情報戦へ身を投じた今ではスマートフォンこそが最も手近で頼れる武器だった。  ぬいぐるみを探す赤ん坊じみた訴求の発露が、高揚ではなく後ろめたさだと、ロッドは嫌々ながらも理解している。  これまで一体何件の着信が握り潰されたか、フィンレイはきっと知りもしない。母親は本人自ら着信拒否しているし、コレクトコールには出るなときつく言い含めてある。刑務所からの着信はリアルタイムで逆探知されていると、ロッドが大真面目に講釈を垂れれば、本気で信じてしまったのだから呆気ないものだった。そもそも逆探知の原理を理解しているのかどうか。ググる手間すら掛けていないに違いない。テレビドラマか何かで得た知識が、その深度の最大値だろう。  本来手に入れることのできる、可能ならば入れておいた方が良い武器を奪われた状態でも、フィンレイは危機感を抱いていない。肩に乗ったままの腕をつつっと、まるで屈託ない仕草で撫でながら、ガムを膨らませる。かなり大きくなってからぱちんと弾けた薄い膜を手繰り寄せる舌付きは、確信的なものだろう。視線を意識して、すっかり自惚れている横顔は、ちょっとびっくりするほど可愛かった。 「つまりさ。あんた、自分が恥を掻きたく無いんだろう。昔の仲間相手に」  だからあり得ないほど生意気な口を聞いても、今は許してやる。  腕の中の存在を罵る代わり、ロッドは向かいに停まっているヒュンダイへと向かう男に、無表情の一瞥を投げた。非難の眼差しはすぐさま逸らされ、でぶついた身体が必死に運転席へと押し込まれんとする。ホモフォビックな眼差しに対して、フィンレイはやはり無頓着なままだった。「いっそのこと……皆にあんたの恋人って紹介してよ。びっくりさせてやればいいんだ」 「それも良いかもな」 「冗談だってば。良い子にしてる」  窮屈なデニム生地の中、液晶のひび割れを一通り指の腹で辿るのは、例えるならばペニスの勃起を維持するよう、竿を手のひらで撫でさするようなもの。ようやく手を離し、預けていた背を車体から剥がす。相変わらず澄ました色を崩さない、産毛の濃い頬へ唇で触れてやろうかと思った。けれど、何となく後ろめたさを覚える。ショーン・モイニハンの、そしてこいつの父親に嘲られ、責め立てられるのが気に食わないと、未だ自らが思っていることに驚く──ここにはない視線の方が、余程ちりちりと皮膚を焦がすように感じるのは何故だろう。  それともこれは、暮れなずむ世界へ満ちた、火の玉じみた光のせいだろうか。 「ロッド」  もうとっくに味など無くなったに違いないガムは、言葉までも中へ丸め込んでしまう。すっと情人から身を離したフィンレイは、締まりの悪い口でくちゃくちゃ音を立てる合間に嘯いた。 「俺、上手くやれるぜ」  そう言われるとますます不安になる。が、もうなるようにしかならない。腕の時計へ視線を落とし、ロッドは溜息をついた。時間はもう十二分に潰せている。示し合わせた時間まであと30分。目的地のダイナーには、15分もあれば到着するだろう。  それまでにせめてガムは止めちまえ、と言えば、フィンレイは黙ってアスファルトに色の薄くなった樹脂を吐き捨てた。ロッドの目を真っ直ぐ見つめたまま。 「でもまだ3枚残ってる」  そういう意味じゃないと言うべきだったのに、結局ロッドは運転席のドアを閉めざま、シートをほんの少し倒した。

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