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K is Keen
「で、あれは俺の親父」と顎でしゃくったら、そのまま通ってしまった。ついでに短く刈り上げた髪と、セルライトでぷるぷる揺れる白頭鷲のタトゥーがいかにもらしいバーテンダーに「身分証を見せないなら酒は売れない」と突っぱねられる。仕方なくカウンターに沿ってにじり寄り、バドの瓶を煽けるロッドへ耳打ちした。「俺にもビールくれよ、父さん」
まだ店は開いたばかりで客も少なく、BGMと言えば絞られた音量で流れる有線放送のみ。オルタナティブ系と言うのか、古い神経質そうなロックへ耳を傾けていた訳でもないのだろう。ロッドはそのまま何も面白いことを言わず、もう一本ビールを頼んだ。バーテンダーが黙って瓶を滑らせたのを確認すると、自分用にバーボンを追加する。そう言うところがどうしようもなくおっさん臭いぜ、とおちょくったりはしない。何せこちらは恵んで頂く身なのだから。
受け取るものを受け取ると、フィンレイは再びすうっと元いたテーブルへと戻った。恐らく先住民の血が少し混じっている切り立ったような面立ちが、もう少し後頭部へ向けられているとは気付いていたが、無視する。
待っていた女の子は母親と一緒に来ているのだという。こんな汚い店に相応しくない、若くて可愛い、まるで生まれたての子羊みたいな子だった。胸も尻も何もかも肉付きが良く、デニムのホットパンツから伸びる脚はすべすべした自然の日焼け色をしている。隣のテーブルで潰れているおばさんとは似ても似つかなかった。
半開きの唇から垂れた涎で、天板のささくれを埋めようとしている母親の姿を見て、フランシーンだかフェブルワリーだか言うその子は思いきり顔をしかめて見せた。「40になったら人間終わりって、本当みたい」
「みたいだね」
「あんたのパパはハンサムだけど」
「いや、でも40越えてるぜ、とっくの昔に」
「それがどうしたっての」
俺酔ってるのかな、全然会話が出来ない。少し恐怖すら覚えながら、フィンレイは生温いビールを一口含んだ。と言うか、そもそも最初から、己が彼女と何か有意義なコミュニケーションを取るつもりだったのかすら定かではなかった。ただ何となく人恋しくなって、一番目立っていた子の席へ腰を下ろしただけ。彼女も突然の闖入者を邪険に扱う真似はしなかった。何か飲むか聞いてもいらないと言うし、ただ狂った動物を思わせる表情の読めない眼で、じっと値踏みしてくる。
「仲がいいね、あんたら」
「うん」
「さっきからパパ、チラチラこっち見てるよ。キュー握ってるとき以外は……ううん、玉撞いてる時も、見張ってた。もしかして、お巡りじゃないよね」
思い切り眇められると、その眼はまるで豚のよう!──これは褒めたつもり。昔父親が、本物の父親が寝る前に読んでくれた『シャーロットの贈り物』が、フィンレイは大好きだった。そんなことを白状すれば、名付け親はきっと散々からかいのネタにするに違いない。
あの男が人を小馬鹿にするときやってみせそうな、ワーオ、と大仰な感嘆符混じりの笑いが、嘘を少しは誠っぽく見せてくれれば良いと思う。
「それは絶対ないない。あの人に限って」
「そう? この前もいたんだよ。いかにもヒルビリーって感じの見かけなのに、トイレまで行ってからいきなり手錠をちらつかせてくるんだから」
「それって、そう言う趣味の奴じゃなく?」
「でもバッジだって見せられたもの」
「俺は違うよ、絶対違う」
きっぱりと首を振って見せてやっても、店の薄暗がりへすっかり同期している、平坦な眼に光は戻らない。
「そんなの分かってる……まあ、あり得ないよね。親子役で覆面捜査なんて、聞いたことない」
緩慢な仕草で首を捻り、フィンレイもカウンターへ向き直った。間が悪いのか、仕切り板の隅を陣取るあの男と視線が噛み合うことは、先程から一度もない。
急に、宙空へ放り出されたような寂しさを覚えた。それを紛らわす為、誰かと話をしに来たのに。これならカウンターで飲んでいる方が良かったかも知れない。一々酒を頼む為にお伺いを立てに行く必要もないし、あの男は多分、フィンレイのこう言う感情を紛らわすのが上手かった。普遍的な技能というより、多分自らに対してのみ発揮される、何か特殊な方法によって。
あからさまにそわそわし出したフィンレイの様子を、彼女は機敏に察してくれる。汚れた髪を掻き上げながら「そろそろしようよ」とトイレを顎でしゃくった。「今日はやめとく」と首を振った後、フィンレイは「何か持ってる?」と言い足した。彼女を買う男ではなく、さながら商売仲間のような口ぶりで。
彼女もまるで、生理用品でも貸そうと探すかの如く、膝に乗せていたビーズのハンドバッグを開いた。「どんなの?」
「落ち着ける奴」
ラップに包まれた白い錠剤3つを放る返す手で、皺くちゃの10ドル札は引き取られ、バッグの中へ突っ込まれた。その手つきが男のズボンの履き口からペニスを弄るのと同じ動きだったから、一瞬後悔する。
この感覚がじわじわ染みを広げないうちに席を立たなければならなかった。
「ここで使えば」
彼女の間伸びした口調と、遠くから突き刺さるぎらついた視線を上手く天秤に乗せることで、フィンレイは出来る限り平静な物言いを作った。
「父さんと一緒にやってくる」
それは幾らなんでもおかしいだろうと気付いた時には、既にロッドと狭い個室の中で落ち合っていた。天秤は傾く。或いは最初から壊れている。
「エクスタシーか。誘ってるんだろ」
「違うって、多分K」
溶け出したピルの張り付く舌を突き出して見せれば、ロッドはじっと正面の顔を見つめた。彼がこんなにも慈愛に満ちた、本当の父親のじみた顔を作ることが出来るなんて思いも寄らず、一瞬たじろいでしまう。
「勃たなくなるぞ」
穏やかに言い聞かせるのと裏腹、力強い手はジーンズの前立てを掴む。元々不安定に乗っていた錠剤が一錠、ぽろりと床の上に転げ落ち、あっと小さく息を飲む。湿りくすんだタイルの床で小さく跳ねながら、硬い音は仕切り壁の向こうへ消えていく。
慌てて残りを喉の出来るだけ深い奥へ送り込んだのは、そのままロッドが口の中へ指を突っ込んで、吐き出すよう促して来そうな気がしたからだった。
「あーあ馬鹿野郎、飲むなって意味だったんだ」
勿論そんなことは起こらない。ロッドはただぼやいただけで、バーボンの甘いひりつきが残った唇を寄せ、フィンレイの口元へかぶりつく。手は下腹を通り、鳩尾から胸の中心へ。急所を撫でられ、それでもまだ足りない、からっぽだと思っていたら、割り込んできた膝に思いきり股間を擦り立てられる。
さっきの女の子はこうされることが出来ず、手錠を掛けられてしまった。なんて運が悪いんだろう。あんないい子が、酷い目に遭う謂れはない。そう思っていた矢先に、両手首を一絡げにされ、頭上で薄い合板の壁へと押しつけられた。外れた唇で思わず笑えば、「もうラリってやがる」とすっかり呆れ果てた様子で呻かれる。
「それとも、まさか酒のせいとか言うなよ」
「酔ってない。ただ、仕事中の、ウリやってる女の子になった気分だなって」
「さっきの女みたいにか」
はっきりと見える顎の裏に鬱血を刻む時、彼が間違いなく忌々しさを覚えていることへ、もっと喜ぶべきだ。けれどフィンレイの頭により大きく膨らむのは、被害者ではなく警察と言う単語だった。もしも自ら達がお巡りに遭遇する羽目へ陥ったら、彼女よりももっと酷い事態が待っているだろう。きっと銃弾で蜂の巣にされる。目の前の男の頭が散弾銃で吹き飛ばされ、鼻から上が無くなると言う強烈なイマジネーション。俺は? どう? なる? 具体的なシチュエーションは想像出来ないが、文字通り死んでしまう程痛いことは間違いない。
あのケタミンは用量が少な過ぎたのか、単に不純物が多いのか、鎮痛作用も碌にない。ぐっと腹の奥にペニスを捩じ込まれた時は、少し痛かった。広がる穴の縁と言うよりは、硬い先端で抉られる内臓が。はっはっと短くなる息を整えようとするが、喘ぎは勝手に漏れてしまう。なすすべない高く無力な声を、ロッドは塞ごうとしなかった。
「大丈夫だフィン。淋しいんだろう。俺がここにいてやるからな、大丈夫だ……」
えっ、と呟き、意識に楔を入れたことで、ようやく脳が理解する。
「ロッド。怖いよ不安だよ。ひとりにしないで。いっしょにいて」
自らの吐息に混じる泣き出さんばかりの訴えは、どれだけ努力しても封じることが出来ない。
この薬滅茶苦茶効いてるんじゃないか、と少し恐ろしくなってきたが、胃と下腹から襲い来るものにすっかりノックダウンされてしまう。あの女の子に言ってやろう、案外効いたよ、父さんも気に入ってたと。
「エクスタシーやって覚悟決めてから父親とヤろうなんてそっちの方が絶対絶対狂ってる間違いなく」
本格的な陶酔へ飲まれてしまう前にそう断じれば、ロッドは「何言ってんだ」と笑い、片脚を抱え上げてくれる。一足先に支配していた足裏の浮遊感が、内股を擦るごわついたデニムの感触で上書きされることで、フィンレイはようやく完全に理性を手放そうと腹を括った。
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