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何でもない日おめでとう
最近の若い奴は分かんねえなと定型文を言い放ち笑ってやれば、予想よりも虚ろな視線が返ってくる。鈍い動きで瞬く瞼の下、瞳は透明なガラス瓶に詰められた泥水を思わせた。
「確かに意味分かんないよね、そう言えば」
それでもフィンレイは撮影した写真を消さずに、そのままスマートフォンをポケットに戻す。
「頼むからフェイスブックに載せるなよ」
「せめてインスタグラムって言って欲しかった」
写っている人物の片方がもう少し若ければ、さぞSNS受けすることだろう。カスタムしたシボレーのボンネットへ寄りかかり、頬を寄せ合うようにして撮ったツーショット。すっかり興が乗り、取っときの澄まし顔を見せつけた己と違い、疎ましさと面食らいの中間に位置していた名付け親の間抜け面は、あまり映えるものではないと、フィンレイは判断したらしい。全世界に恥が晒されなくて良かった。警察へ手掛かりの渡る可能性が潰されて本当に良かった。
このガキも流石にそこまで馬鹿ではない。そもそも、この頃の若者にしては写真や動画で自己を顕示する執着が薄い性質のようだった。ほんの数分時間が出来ればスマートフォンを触っているが、それもゲームか、見知ったり見知らなかったりする誰かの投稿にいいねをすることへ費やされる。もういい加減猫の動画は見飽きたと何度も切り捨てているのに、しつこく液晶画面を突きつけ、時にテキストでURLを送ってくるのをかわすのはうんざりだった。「俺は犬派なんだよ」「猫の方が絶対可愛い」もまたお決まりのやりとりになりつつある。
「何で撮るんだろう……記録かな」
「この世に写真が誕生して以来、最もありふれてつまらん理由だな」
手の中のスリムジムを弄び、ロッドは片眉を持ち上げた。
「記録ってのはせめて1回や2回は見返すもんだ。お前、撮ったら撮りっぱなしだろう」
「別にそんな……あ、記録って言うより、記念かも」
「言い直したって駄目だ。寧ろもっと悪くなったぞ、額縁に入れて飾らなきゃならない」
今度こそ哄笑は隠すことが出来ず、立体駐車場の籠った空気にぼわんと響く。
大体何の記念だと言うのだ。カスタムした愛車を捨てて乗り換える記念? 或いは初めて車を盗む記念とでも言うのだろうか?
「タイヤとかフィルターとか、部品はパクったことあるけど、車丸ごとはやったことない」
全財産を詰めたダッフルバッグを担ぎ、ひよこのように後をついてくるフィンレイの足取りは軽い。
あれだけ可愛がってやった車だ。この青年と旅に出るまでは、恐らくこの世で一番価値のある存在だった。下取りに出そうかギリギリまで迷ったが、足が付く恐れが上回った。せめてもの情けで、このまま入ったこともないショッピングモールの駐車スペースへ置いていく。盗まれた相手が乗って行ってくれたら良いのにね、とフィンレイが呑気極まりない口調で抜かした時には流石に少し苛ついた。が、今や愛情は移行している。感謝しろとまでは言わないが。
ウィンドウショッピングでもしているつもりなのか、派手な青いブガッティのシロンへふらふら近付いていこうとしたフィンレイの身体は、腕を掴んで押しとどめる(あんな車に乗っている人間も、ギャップで服を買ったりするらしい)暴れる猫を連行するのと同じ労力で引きずりながら、ロッドは隅の方に停められた車を顎でしゃくった。駐車場へ乗り入れた時から目星を付けていた、型落ちのビュイック・リーガルだった。灰色の車体は汚れておらず、バンパーに傷はないし、覗き込んだ車内もちゃんと整頓されている。
「もっと格好いいのにしようよ」
「目立つのはまずい。それにこれから、少なくとも週に一度は乗り換えるようにする」
投げ渡した薄っぺらい鉄の棒を、フィンレイはくるくる回してみせる。果たして器用さは実践にも適用されるだろうか。そうやって窓の隙間に差し込んで、上手く引っ掛けて──筋がいい。ロックは10秒足らずで解除される。けれど、甘やかすのは禁物だ。日当たりなんて言葉が存在しない駐車場で、向けられた輝くような笑顔に、ロッドは「3秒で出来るようにしろ」と言い捨てた。結局唇が尖るより早くわしわしと、犬へでもするように頭を撫でてやってしまったが。
最終的に、発進するまで要した時間は3分にも満たなかったのだから、まあ上出来とすべきだろう。ロッドがステアリングロックを潰している間に、近くの車とナンバープレートを取り替え、指紋を拭き、フィンレイの手際は良い。
最初から自分の車であったかのような顔で助手席へ収まり、フィンレイはまたスマートフォンを取り出す。「わあ」と独りごちるのは構って欲しいと言う合図だった。結局ロッドは、アクセルを踏みざま「何だって」と尋ねてやった。
「ダチが子供出来たんだってさ。この前昇進したらしいし、計画出産って奴かな」
意味が違うんじゃないかと指摘することはせず、ロッドは話の続きを促した。先程までのわくわくした表情は霧消し、画面を眺める目は再び無機質な硬度に立ち戻っている。綺麗な色だと惹き付けられ、同時に余り継続して対峙していたくないとも思う。
「家具屋の配送係してるんだ。イケアとかじゃなくて、地元の店だけど。家宅侵入罪でマエは……いや、執行猶予。ううん、違ったやっぱり禁錮何ヶ月か。食らってからは、真面目に働いてる」
「地元の出世頭って奴だな」
「てか、俺が落ちこぼれなだけなのかも」
ははは、と空々しく笑い声を立てるのはけれど、お世辞を求めている訳では無さそうだった。飴色の虹彩に戻ってきた生気はどす黒い。一寸先も見えない程濃く立ち上る煙を引き連れ、めらめらと燃え盛る炎じみていた。
「俺、まともなこと一つもしないで、一体何やってるんだろ」
「お前はまだまだ若いよ。これから何でも出来るさ」
これぞ中身のない会話という奴だ。別にロッドとしては屁でも無い。先に根を上げてしまったのはフィンレイの方だった。まだ走り出して30分も経っていないのに、クラッチを握る手へ、やたらとふにゃふにゃした手のひらを被せる。
「どっかに停めてよ。ファックしたい」
本当に、若い奴の考えていることは理解出来ない──想像してみた結果、もし理解出来てしまったとして、それは自らが成長していない証左なのか、歳を食った結果の老獪さなのか。どちらにしても、気分の良いものでは無かった。
マクドナルドのせせこましい駐車場では、隣のスペースへ他の客が滑り込んで来ようものなら、何をしているか即座にバレてしまうだろう。
「だってファックしてたら、悪いことみんな忘れられるから」
5分前の会話を再開しながら、股間に手は伸ばされる。
「いい事だけ覚えておきたい」
「おい、本当にやるのか」
「期待してたからここに入ったんだろ。嫌なら……」
「嫌じゃないさ。ただ、お前は本当にやりたいのかと思ったんだ」
固く筋肉の張った太腿を撫でる己の手へ、じっと視線を落としたまま、フィンレイは首を振った。
「いい事だけしたい」
顔を埋めようと身を屈めた際、腰骨に突っ張ったのだろう。ジーンズのポケットからスマートフォンを引っ張り出し、ダッシュボードへ投げやる。ふわっと光った待受画面は、先程シボレーと撮影した記念写真だった。酷い、雑な写真だった。フラッシュを焚かなかったから、人も車も影に飲まれ、暗色でぼんやり縁取りされた輪郭がやたら強調される。あの何層にもコーティングされたボディが、こんな冴えないキドニービーンズみたいな色をしていたはずがない。何とも投げやりなフィンレイの笑顔と、鳩が豆鉄砲を食ったような自らの表情は、まじまじ目を凝らせばやっと判別がつく。
もっとまともな写真があるはずだ。こいつの実家へ帰れば、アルバムの1冊や2冊はきっとあるだろう。
コーヒーとクッキーでもてなされながらページを繰ることは、しかし許される訳もない。足元へ転がっていたスリムジムを拾い上げ、後部座席へ落とそうと身を捻った拍子に、勃起したペニスで青白いフィンレイの頬を突いた。笑っても良かったのに、タイミングを失した。
フィンレイも機嫌を損ねることはなかった。先程上手く車を盗んだ手は改めて眺めると指先が丸く、幼い。悪戯小僧へ無造作に掴みかかる仕草もまた、残酷で子供っぽかった。
「あんたも盛ってるじゃん」
「これが終わったらビッグマックでも頼むか」
バーガーを齧る時よりも大きく開きかけていた口の動きを止め、フィンレイはじろりと頭上を睨んだ。
「あんたのせいで、今日は最悪の記念日として記憶に残りそう」
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