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キャッチボール

 どさくさに紛れて、野球のグローブを2つと、硬式ボールを一つ盗ってきた。別に欲しい訳ではなかった。今回はシグのコピーガンを持って現場へ突入したこともあり、分前はきっちり貰っていたから、その気になれば幾らでも新品を買う事が出来る。  余計なショッピングを、ロッドは咎め立てることがなかった。そもそも気付いてすらいなかったかも知れない。今こうしてフィンレイが手に嵌めて、ベッドへぶらぶら近付いて来ても、碌に反応を寄越さなかった。そう言えば親父も、家にいた時はテレビ中継されるナ・リーグへ見入るばかりで、子供達なんかまともに構いもしなかった。 「暇なら何か食うもの買って来てくれや」  彼にはでも、同情の余地がある。小さくて体も心も未熟で、自らを無条件に慕ってくる存在へどう接したら良いか分からなかっただけの話なのだから。証拠にこちらから何かを提示したら、それなりにこなそうと努力はしていた。  片や目の前の男は確信犯だった。最近はスマートフォンでも賭博は出来るから、金はそこから賭けているらしいが、精査するのは今朝近くのスーパーで買って来たデイリー・レーシング・フォーム。呆れるほど熱心に紙面を睨んでいる。アホみたいだと思った。馬なんて何が面白いのかフィンレイにはさっぱり分からないから、余計に。 「キャッチボールしよう」  身を預けていたベッドヘッドから背中を外そうともせず、首を軽く傾けるだけで、ロッドは窓の外を確認した。 「この土砂降りに? ちょっとおかしい事言ってるって自覚してるか」  目の前30センチの所に鉄筋コンクリートの壁が聳えているから、ガラスはほとんど濡れていない。時折ピアノ線のように細い縦筋が、刻まれる丸く白っぽい埃の斑模様を切り裂く。  辛うじて聞こえてくる、と言うことはやはり、かなりの勢いで降っているのだろう通り雨に合いの手を入れるよう、ロッドは新聞を1ページ捲った。 「あんまりラリるのはやめとけよ」  気軽なレクリエーションとしてマリファナ煙草を吸ってみたりする事を非難しているならば、全くお門違いだ。葉っぱなら彼も少々は嗜むし、大体、そんな状況に相棒を追いやる方が悪い。確かに今フィンレイは死ぬ程退屈していたが、同時に己でもうんざりするほど正気だった。 「部屋の中でも出来るよ、ここ結構広いし」  自らですら信じていない台詞は軽く浅く、湿気た空気へ場当たりに溶け込む。乱れたシーツの上へもう一つのグローブを投げ落としてやったが、今度はロッドも視線を寄越さなかった。 「飯って何。さっき食ったばっかりだろ。今まだ10時だぜ」  気が狂っているのはどっちだろう。もうこのホテルへ泊まり込んで一週間になる。そのうち外へ出かける機会と言えば飯を食う時か、酒を調達する時、或いは……とにかく、取るに足らないことを理由に提示できる機会は極端に減っていた。別に禁じられていた訳ではないのだが、一度籠り始めると、段々億劫になってくる。  何も動物園へ連れて行けとか、海岸沿いをドライブしてデートの真似事をしようとまでは言っていない。ただ怠け疲れにも限界がある。傷だらけのフローリングでプッシュアップして、体を押し下げるたびベッドの下でひっくり返っているゴキブリへ挨拶するのはもううんざりだった。 「そんなダラダラしてたら太るぜ。妊婦みたいな腹をベルトに乗せて、ふうふう汗掻きながら歩いてるおっさんになりたいの」 「これまでが頑張り過ぎたのさ。40超えたらそれまで履いてたジーンズが入らなくなるもんなんだよ、普通は」 「あんまりみっともない身体になったら寝てやんないから」 「言うねえ……でもまあ、抱き心地が良さそうだとは思わないか?」  埒があかない。とうとうフィンレイは、手にしていた野球ボールを投げつけた。曲がりきらなかったスローカーブ。昨日の晩も散々撫で回した、硬い鎧のような腹筋へぶつけてやろうと思っていたが、結局手加減してしまう。  身体の側に沈み込んだボールは取り上げられ、しげしげと眺め回される。手首のスナップを上手く使って一度真上へと投げ、それから片手で掴むと、ロッドは空いた手で投げ出されていた自らの太腿を叩いた。  「はあ?」と一言切り捨てやっても良かったのだが、結局そのままベッドへ乗り上がってしまった。雨のせいで少し肌寒いし、と内心のぼやきは、言い訳としてそこまで悪いものでもないだろう。  ころりと膝枕で横たわったフィンレイの頭を撫でる手つきは、さながら猫を甘やかすかのようだった。新聞の細かい文字を目で追いながら、幾らもしないうちにロッドの口は開かれる。 「キャッチボール……キャッチボールな。親父とした事ないとか言うなよ」 「あるけど……頻度は他の家庭より少ないと思うよ。平和な環境で育った訳じゃないから」 「へえ。あいつ、ちったあまともにホームドラマの主人公してるのかと思ってたが」  汚れたボールはころころ転がり、辛うじてベッドの縁に出来たシーツの起伏で留まる。縫い目の赤色も褪せる程使い込まれていた。元の持ち主は、一体どれほどの期間、誰かと親睦を深める努力をしたのだろう。 「アフガンでも、待機時間によくしてたな、そう言えば」 「父さんも?」 「ああ。随分下手くそだったよ。学生時代は野球じゃなくてアメフト三昧だったって言い訳してたけどな。確かラインバッカーやってたんだっけか」 「初めて聞いた」  確かに父の腕前は、到底上手いと言えなかった。例えフォークだとしても子供が到底取れない高さで放ったり、フォアボールをくれてやるような、自棄くそじみたストレートの豪速球だったり。  それでも、あんたとは違うんだ。違うんだぜと、何故わざわざ当たり前のことを言ってやる必要が? 乾きを増した空気に、こっそりと上目を投げかけてみた。強く結ばれたロッドの唇は、不機嫌を隠そうとしているようにも、笑いを堪えているようにも、どちらにでも取れる。前者の方がいいと、フィンレイは思った。正直言って、この男が頬を緩めるタイミングはよく分からない。世間から見て普遍的ではない理由で相好を崩すことも多々ある。怖いと言えばまた笑われるだろう。  今もまた、何がおかしいのか、口角は大ぶりな形に吊り上げられる。ぽんと頭を叩き、ロッドは適当に畳んだ新聞を傍らへ投げ捨てた。 「よっしゃ、やるか」  ツインベッドとテレビを乗せた合板のデスクを入れただけの部屋だが、対角線に立てば辛うじて球速が出るだけの距離を保つことが出来る。まずは小手調べのストレート。古く少し革のひび割れたロッドのミットへ、ボールはぱしりと小気味良い音を立てて吸い込まれた。 「上手い上手い。親父に似ず筋が良いな」  誰かを笑いものにするならば、自らはそれなりの腕前を有していなければならない。ロッドもまた変な捻りは加えず、相手の取りやすい場所へ球を返す。 「あんたは野球? それともタッチフットボール派だった?」 「何でもござれさ。助っ人であちこちに呼ばれてた」  つまり誰とも、そこまで親密な関係を築いていなかったのだろう。かと言って、いざ入ろうとの意志を持てば上手く擬態し、紛れ込んでしまう。全く彼らしい。ほんの子供の頃から、こうして自分の好き勝手に生きてきたのだろうし、そうするだけの実力を持ち得ていた。 「俺、本当はリトルリーグに入りたかったんだ。でも忙しいから世話役が出来ないって、お袋がやらせてくれなかった」 「許してやれよ。殆ど女手一つでガキを育てたようなもんなんだから」  キャッチボールは続く。いつの間にか2人は、無心にボールを目で追い、投げ返していた。この時間がずっと続くように。決して乱さないように。肩に力を入れる必要はない。  親父ともこういう風にしたかった、と少しだけ思う。ほんの少しだけ。捕球する時感じる手のひらの痺れが、胸の痛みに直結する。もうそろそろあの人も医療センターを出ただろうから、今頃きっと檻の中に戻って、時間を持て余していることだろう。そう言えば、独房に入れられた囚人が、持ち込んだグローブとボールで1人壁打ちをしている映画が無かっただろうか。役者の名前は確かそう、スティーヴ・マックィーン。父親が彼のように孤高で逞しくあって欲しいと心から願う。  そして目の前の男は、父親ではない。何度も繰り返し己へ言い聞かせている通り。  大幅に逸れたボールが窓ガラスを突き破る。咄嗟に首を竦めていなければ、ロッドはもろに破片を被っていたかも知れない。壁にぶつかって戻ってくるかと思ったが、土気色の球は雲母色の空を映し込む、きらきらした断片と共に、視界の外へ消える。 「大暴投だな、おい」  真下を見遣るロッドの肩越しに、フィンレイも同じく覗き込んだ。地面が真っ黒に濡れていることは分かるが、ボールはもう、影も形も見当たらない。 「ごめん、弁償しなきゃだね」  ロッドは溜息と共に首を振ると、ナイトテーブルへ乗せてあったスマートフォンを掴む。クローゼットに投げ込んであったダッフルバッグを担ぎ上げ、準備を整えるまでには、30秒もあれば十分だった。 「ここが前払いでよかったな」  これが父親なら。やはりガラスは粉々になっていただろうが、息子を叱りつけ、きちんとフロントで金を払っていただろう。  でもここにいない人間の話をしても仕方がないのだ。起こらなかったことについて話してもどうしようもないのだ。用心深く部屋のドアを開き、可能な限り何食わぬ顔を貫くロッドを追いかける時、フィンレイもまた、こそこそと卑屈な足取りを保ち続けた。  

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