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蛹の展翅

 壁に叩きつけられた手のひらには渾身の力が込められていたので、隣の部屋から「ファックユー」と野太い罵声が浴びせられる。壁の薄さを知ることが出来て良かった。奴はこれからもっとカッカする羽目になるだろう。日付も変わって一時間、こちらの部屋だと、夜はこれからなのだから。  「やった」とフィンレイが漏らした呟きは舌足らずでおぼつかない。本人の望み通り、口元から歯磨き粉を垂らすことは阻止が出来たらしい。便器に跨がり直し、再び握り直した歯ブラシで力任せに奥歯を擦っている姿を、ロッドは鏡越しに逐一眺めていた。  キスするとき無精髭がざらついて痛いと言われたので、剃刀を頬に滑らせている。一方、フィンレイの衛生活動は自主的なものだった。最近煙草を日に何本か吸うようになったので(たった数本だけなのに!)息の匂いが気になると、ここのところ夜は、特にセックスの前は必ず歯を磨いている。別に一晩中顔へ息を吐きつけ続けられていても、ロッドは頓着したことがなかったし、そんなことへ気を回すくらいならもっと風呂へ入った方が良いと思う。一生懸命取り組んでいる姿は好もしいので、やりたいようにやらせているが。  大体、面倒ごとをルーティンへ加えてまで煙草を吸い続けるその姿勢は、いじらしくて堪らなかった。フィンレイが嗜むのはマルボロの赤。コンビニエンス・ストアで買ったことすらなかったに違いない、ロッドが吸っている姿へ日常で接するようになるまでは。 「やっつけた、いい気味だ、くそったれ」 「何だって」 「蛾をさ。さっきからずっと、飛び回ってたんだ。もう潰してやったから、すっきりした」  ものぐさな摺り足で歩み寄り、立ちはだかる裸の背を押し退けると、口の中一杯に溜まっていた粘液を洗面台へ吐き捨てる。屈めた身と入れ替わりに掲げられた手には、裸電球を反射してぎらぎら視神経を痛めつける鱗粉と、砕けた羽の欠片がこびりついていた。 「ベッドまで付いてこられたら、とてもじゃないけど眠れない」 「こりゃ蛾じゃないな」  手を取り上げ、掌紋に乗った薄青と茶色、そして数本の脚らしきものを眺め渡しながら、ロッドは言った。 「多分蝶だ。オナガセセリじゃないか。ふわふわ羽ばたいてたんじゃなくて、戦闘機みたいに勢いよく飛び回ってただろう」 「どっちにしても鬱陶しいことに変わりないじゃないか」  引ったくるように取り返された手は、白く迸る蛇口の水に晒された。 「汚い羽の色だし」  コップの中に投げ込まれた歯ブラシは数回使われただけで毛が開いている。こんな安モーテルのアメニティを期待してはいけない。そもそも備え付けてあっただけ僥倖と見なすべきだった。 「それにしても、詳しいじゃん」  ロッドが目地の荒いタオルで顔を拭いている間、フィンレイはその場で待っていた。振り返りざま、濡れた洗面台に乗せられた尻が、水滴を拭くかの如くもぞりと小さくくねる。ほんの少し低い位置から見せつける上目遣いは、甘えより挑発の色が勝った。 「意外」 「俺や、お前の親父がガキの頃には、まだ辛うじて蝶の標本を作るなんて流行が残ってたからな。男の子なら誰でも一度は、あの網を振り回した経験があるはずさ」  両腕で細い体躯を囲うように、洗面台の縁へ手のひらをつく。冷たく濡れた唇を啄んだとき味わったミント香料は安っぽく人工的で、正直ニコチンよりも余程手に負えなかった。 「お前はそんな遊び、したことないだろう。Z世代だもんな」 「虫を怖がる人間が、蝶を素手で叩き潰せると思う?」  軽く小首を傾げ、フィンレイは柔く口を開けた。積極的なキスの中から何か、刷新されることのない彼本来の何かを探そうとする。けれど探り当てたのはミント、ミント、ミント。磨き残された下の前歯の裏のざらつきを擦り取るよう、執拗に舌を這わせていたら、時折ぶよついた付け根の歯肉をぐっと圧されて、感じ入るのだろう。掠める腕にぶわりと鳥肌が浮かぶ。  流されるまま、ここでやってしまいそうになった。必死に目を合わせようと焦点を絞る、潤んだ飴色の瞳をこんな間近で見つめてしまったら。誘惑を跳ね除けるのは至難の業だったが、ロッドはやり遂げた。腰と腿に腕を回して持ち上げれば、間抜けな悲鳴が上がる。 「ロッド!!」 「暴れたら落とすぞ。それともお姫様みたいに運んでやろうか」 「やめろよ馬鹿!!」  忠告は無視され、素足がばたばたと宙で跳ねる。支えられたところを基軸に反り返った背の曲線は、目にすればさぞ欲情を煽ることだろう。前腕に閉じ込める腰の悶えるような弾みですら、涎を垂らしてしまいそうになる程だから。鳩尾の汗が浮いたシャツを唇でくわえ、軽く引っ張ってやったら、ギャアと色気のない悲鳴が上がる。渾身の力が込められた腕で頭を突っぱねられたら、流石に痛い。 「ったく、この悪ガキめ……ほら、頭上に注意」  鴨居に頭をぶつけないよう慌てて身を丸めた事を機に、抵抗はようやく止まる。胸元を軽く蹴る膝の力までが弱々しくなってしまったのだから、なんとも可愛らしいものではないか。 「昔もこうやって抱いてやったろう。お前の親父が庭のグリルで肉を焼いてる間な……あいつ何でもかんでもウェルダンにしやがって、食えたもんじゃなかった、なあ?」  フィンレイは答えを寄越さなかった。ベッドに投げ落とされ、のし掛かられてから、僅かな睦み合いで腫れぼったくなってしまった唇がようやく開かれる。 「あんたが昆虫採取なんかしてたなんて、本当に意外。そんなガラじゃないよ」 「箱に入れて飾るのが好きだったのさ」  すべすべした頬を撫でざま、耳元に言葉を吹き込む。安物の剃刀では綺麗に当たることが出来なかったのだろう。フィンレイは微かに眉を顰めた。普段使っていたものは他の荷物と共に、前の宿に置いてきてしまった。明日辺り、もっとまともなものを買いに行くべきだ。 「本当に理想的な標本の作り方は、蝶を捕まえてくるところから始めるんじゃない。蛹を探すんだ。ガラス瓶に入れて育てて、羽化して飛べるようになったら、すぐ中の空気を抜いて殺す。一番綺麗な時期の羽根へピンを刺すのがいい」 「瓶になんか入れてたら、ぶつかって羽根が傷むんじゃない?」 「コツがあるんだよ」  欲情は理性を簡単に眩ませる。ロッドは己を宥める為の目的だけで、低く笑った。 「それに、自分の責任で傷ついたなら、諦めもつくだろう」  フィンレイは再び相手の体を押し退けた。細い見かけの腕にそぐわず、力は十分強い。こいつにもきっと、余裕はない。情人の肩を軽く押して仰向けにすると、薄ら口元を笑みで歪めてみせた。 「俺にさせてよ」  無造作に脱ぎ捨てられた服の下から現れた肢体には、うっすらと日焼け跡がある。以前の情交でつけられた鬱血や咬跡の他、脇腹の辺りには痣が。数日前、信託機構の窓口担当を威嚇する時、壁に向かってぶっ放し、銃床でどついたのだ。ジョン・ウェインの真似は止めろ、碌に扱い方も知らない癖にと後で叱れば、「それ、誰さ」と唇が尖った。だが平静は、思ったよりも素早く取り戻される。「でも、お陰でスムーズに進んだじゃないか」  奉仕もまた、落ち着き払って執り行われる。首筋を軽く食む仕草は、他ならぬロッドから盗んだのだろう。鎖骨、胸元、腹筋とゆっくり唇を落としながら、フィンレイは汗ばんだ肌の上へ吐息を滑らせた。きっともう、あれだけ熱心に作られた清涼感は、熱のせいで蒸発しきっているに違いない。 「愛してる、ロッド」  きゅっと丸められた握り拳を、興奮でかちかちになった男の筋肉へ乗せ、上目遣いを作るのは、全く反則としか言いようがない。女よりも遥かに興奮を煽る表情だった。飢えた男の顔だ。  随分育っちまったもんだな、と他人事のように考える。もう少しこまめに成長の様子を見守ってやっていたら、一層楽しむことが出来たのだろうか。  いや、この急激さこそがいい。芋虫が蛹の中でどろどろに溶け、瞬く間に別のものへ再形成される、文字通り崩れ変容していく様が。  成熟した身体は蜜を求めるのではなく、本人が甘い匂いを放っていた(シャワーは今朝浴びていたような気がする)辿り着いた先でフィンレイはジーンズのチャックを開け、熱い芯を熱心にしゃぶり始める。上下する後頭部の懸命さはまだ少し幼い、と思ったのを打ち消すため、ロッドは眼下の汗ばんだ髪を掴み、思い切り沈めさせた。

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