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1.中途採用の後輩-2

 小野塚は半月後にふたたび総務課を訪れた。 「こんどは第3会議室なんです」  会議室の申請書は総務係の誰に渡しても応対できるのだが、小野塚はもっと手前の座席に話しやすそうな若い女子がいるにもかかわらず(ちなみに入社3年目の独身だ)、わざわざ奥に入ってきて水澤に声をかけてきた。そんな風には感じないが意外に人見知りなのかなと思いながら、水澤は鍵を取ってきた。 「場所、もちろんわからないよね」 「はい」  第3会議室は、先日商品企画課が使った第1会議室に比べるとだいぶ狭く、内々の会議だけに使われているところだ。曲がりなりにも会議室の名前がついているのに、その用途ではあまり利用されず、よく一時的な荷物置き場になっている。 「もしかしたら広報課がチラシの箱を置いてるかもしれない。狭くても大丈夫?」 「平気ですよ。静かに話し合いたいだけなんで」 「じゃあ、案内するよ」  距離感がよくわからないが、たぶん年下だし多少ラフな言葉使いでもいいかなと水澤は思った。小野塚は気にしていないようだ。書類の入ったファイルをいくつか持っているだけで、台車は無い。まだ公にできない内容の打ち合わせなのだろう。ご丁寧に中身が透けないファイルである。  第3会議室は総務課の奥にあって、20畳ほどの床面積である。水澤は気持ちのコントロールができなくなったときに、誰も使っていないのを見計らってしばらく籠ることがあった。総務課長はたぶん気が付いているが黙認してくれている。小さな窓しかない倉庫のような薄暗い部屋は、オフィスの青白い照明に疲れた目を癒してくれた。  壁のスイッチを押すと、水澤にとっての優しい空間は、蛍光灯が一斉に点いてただの部屋に戻った。 「ああー、やっぱり箱が積まれてるよ」  広報課がイベントで配るというチラシの詰まった段ボール箱が、机の上に積み重なっている。 「このテーブル、耐荷重あまりないから載せるなって言ってるのに……」 「どけましょうか?」  小野塚が気前よく申し出てくれた。 「そうだね、これじゃ打ち合わせできないだろ」 「床に積んじゃって怒られません?」 「大丈夫、そんなやわなものじゃないから」  きっとカラー刷りの立派なチラシなのだろう、箱は両手で抱えられるほどの大きさだが、ずっしり重い。 テーブルには15、6箱ほど置かれていたので、ふたりでどんどん床に移動させていく。 「あ、このイベント前にいた会社も参加してますよ」  箱の表面に貼られていたチラシのサンプルを見て小野塚が言った。 「転職前も食品メーカーなの」 「そうなんです。ハル食品」 「うちのお得意様だね」  水澤が何気なく言うと、小野塚は頷き、 「イベントで会ったら気まずいなあ」 と呟いた。  湾岸の展示場で開催される「調味料・漬物博覧会」というユニークなイベントには、水澤もかつて広報課や第一営業課の連中とブースに入ったものだ。小野塚は人目を引く風貌だから、是非とも積極的に参加してほしい。 「そんなの気にしなくていいんだよ。転職は悪いことじゃない」  つい声が大きくなってしまい水澤は気恥ずかしくなったが、ちょっと勇気出ましたと小野塚は歯を見せて笑った。 「小野塚くんはなんでうちに転職したの」  水澤はそれとなく話題を変えた。 「……実は、大学で就活してたときも、ここが第一希望だったんですが、落ちちゃって」 「へえ」  小野塚は照れたように首筋を掻いた。 「でも、やっぱりこっちで調味料の仕事してみたくて、中途採用の募集がないかホームページを毎月チェックしてたんですよ」 「熱心だな」  ハル食品も悪くないと思う……というより、条件面では向こうの方が勝っているような気が水澤はするのだが、小野塚の仕事に対する考え方は水澤とは違うのだろう。──いや。つい1年ほど前までは、水澤の思考も小野塚に近かったはずだ。多少キツくても、やりたい仕事があって、それに邁進していた頃……  そのまま沈んでいきそうになり、水澤は考えるのをやめた。 「しかし、いちど落とされた会社によく再挑戦したね。面接で訊かれなかった?」 「俺、つれなくされると燃えるたちなんで」  小野塚は臆面もなく言ったが、なかなか過激な台詞というか、面接官の好みは分かれそうである。 「……それ、幹部面接で言ったんなら勇気あるなあ」 「まさか、面接ではもうちょっとオブラートに包みましたよ」  喋りながら作業をしていて気が緩んだか、水澤は箱を持ったままよろけた。すぐ脇にいた小野塚の腕が延びて、箱を支える。力強いぬくもりが、水澤の指を包む。 「大丈夫ですか?」 「あ……ありがとう」 「これ、ほかのより重いですね」  ふたりで箱を床に置く。手元を見られた気がして、水澤は慌てて手を引っ込めた。 「……俺、会議のメンバー呼んでくるんで。水澤さんもう戻って大丈夫ですよ」  小野塚はなんとなく気まずそうな声で、足早に部屋を出て行った。  ひとりになった水澤は、まだ熱を持っているような左手を思わず眺めた。  薬指にはプラチナの指輪が鈍い光を放っていた。   ***  すこし残業をして水澤は19時頃に退勤した。社屋を出て横断歩道を渡り、振り返って見上げると、商品企画部のある4階はどの窓からも煌々と灯りが漏れている。我ながら未練がましいなと思いながら、水澤は地下鉄につながる階段を降りた。  会社の最寄り駅から自宅の最寄り駅までは、地下鉄と私鉄が数年前に相互乗り入れをしたために、乗り換えをせずに通勤することができる。妻の佐希子も同じ地下鉄を使って彼女の勤め先に通っていたので、結婚するときにどの沿線で新居を探すかはあまり迷わなかった。  車内は帰宅を急ぐ客で混雑していた。吊革に掴まって正面を向くと、くたびれた自分の姿が窓に映っている。三十路になって久しいが、この1年ほどでどっと老けこんだような気がする。  列車は6駅目を発車したところで地上に出る。窓の外が夜景で明るくなり、水澤の姿は消えた。彼はほっと息をついた。  さらに5駅目で水澤は列車を降りた。多くの人々が階段に殺到する。人波に飲み込まれながら水澤は階段を昇り、改札を出る。目の前の駅ビルにはスーパーマーケットもテナントとして入っていて、19時半を過ぎると時間の経った弁当や惣菜に値引きシールが貼られる。  水澤は本来なら昼食用に作られて30%引きのシールがついた「焼きサバ弁当」を購入した。もう若いともいえない年齢だから、出来合いのものを食べるにしても気をつけている。もっとも、食欲もあまりないのだが。  自宅のマンションまでは駅から徒歩10分ほどである。あまり広い部屋ではないが、ファミリー向けの間取りで売り出されていて、水澤がエントランスに入るところで、ベビーカーを押すスーツ姿の女性に追い抜かされた。後ろからリュックサックを背負った子供が走って後を追う。  エレベーターで5階に上がり、506号室の鍵を開ける。真っ暗な玄関を灯りもつけずに突っ切り、リビングの照明をつけた。まだワックスのきいている床が眩しいくらいに反射する。静寂に耐えられずテレビをつけるが、騒がしいバラエティ番組ばかりで水澤はうんざりした。以前すこし好きだった女優が、温泉巡りに凝っていると語っているのもそれほど興味が湧かない。焼きサバ弁当は蓋を開けた途端生臭いにおいが漂い、水澤は思わず吐き気を催した。  リビングの隅には小さなベビーベッドが残っている。妻の佐希子がどうしても欲しいと言って購入したものだったが、ベビーブルーの掛け蒲団はうっすら埃をかぶっていた。

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