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2.秘密-1

 診察室のドアを開けると、いつもと同じように電子カルテを操作している医師の姿があった。 「水澤さん、こんにちは」 「……こんにちは」  髪の半分くらいが白くなっている医師は、穏やかな声であるがあまり水澤の方を見ない。 「最近はどうですか」 「安定剤はできるだけ飲まないようにしています」 「環境が良くなっているということですか」 「それはあまり変わっていません」  医師はキーボードを叩いている。 「水澤さんのものの考え方が少しずつ変わってきているということならいいですね」  それはどうだろうか。自分はなにも変わっていない、と水澤は思っている。ただ、薬を飲む気になれないから、我慢しているだけだ。 「夜は眠れますか?」 「いえ……あまり。薬を飲んだらすぐに横になるようにしているんですが」  医師はカルテを確認しているようだった。 「睡眠導入剤は……処方できる最大量まで出してますねえ」 「はあ」 「薬を変えてみますか?でも、環境を整えることも大事ですよ」 「部屋は暗くして、スマホも見ないようにしています」 「それはいいことです。音は大丈夫ですか?」 「静かすぎるくらいです」  医師は色々なことを察したようで、言葉を選ぼうとしているのかすこしの間があってから、特に面白味のない提案をした。 「……逆に多少の音があってもいいのかもしれませんね。リラックス効果のある音が聴けるアプリを試してみたらどうですかね」  スマホをいじるなと言っているのに矛盾してるなと水澤は思ったが、黙っていた。 「なかなか眠れないときに、不安になるようでしたら安定剤を頓服で飲んだら眠れるかもしれませんよ」 「……考えてみます」  1ヶ月前とあまり変わらない問答を終えて、水澤は診察室を出た。平日遅くまで開いているクリニックのせいか、ミントグリーンのソファにはサラリーマンやOLとおぼしき男女がぽつぽつと座っている。  このクリニックに通い始めてから半年以上経つ。はじめは医師の言われるがままに薬を飲んで、感情を半ば麻痺させながら会社に通い続けた。最近になって、突然不安に駆られることは少なくなったが、負けず嫌いで熱意に満ちていた自分はまだ戻ってこない。  会計を済ませて渡された処方箋を確認すると1ヶ月前と同じままで、自分が良くも悪くもなっていないのだなと実感した。  これから薬局に行って、また30分近くは待たなければいけない。面倒臭いが、睡眠導入剤の手持ちがないので、貰わないといけない。物思いに耽っていたせいか、自動ドアをくぐったところで通行人にぶつかりそうになった。 「あっ、ごめんなさい」  聞き覚えのある声に、水澤は顔を上げた。  そこにいたのは小野塚だった。 「あ……どうも」  小野塚はちょっと驚いた顔をしている。それはそうだろう、水澤が出てきたドアには、「メンタルクリニック」と表示されている。精神科だの心療内科だのより字面は軽いが、実質はほとんど変わらない。 「偶然ですね。俺、2階の内科に行ったところです」  ふたりが居るのは会社から1kmほど離れたところにある医療モールで、数種のクリニックと調剤薬局がひとつのビルで開業している。会社の近くではあるが中途半端な距離なので、結局地元の診療所や病院を使う社員が多いようで、これまで知り合いに遭遇することはなかった。 「薬、貰いますよね?俺はじめてで、よくわからなくて。ついていっていいですか?」  いい歳こいた社会人が、調剤薬局の勝手がわからないなんて理由にならないが、小野塚は「こういう新しいトコロっていきなりタブレット渡されたりしてビビるんですよね~」などと言いながら水澤の後ろをぴったりつけている。  薬局の中はかなり混んでいて、ソファもほとんど埋まっている。小野塚は長い体を折り曲げるようにして水澤の隣に座り、顔を寄せて囁いた。 「時間かかりそうですね」 「うん……」  これまでの「親切な先輩」の仮面をうまく被ることができない水澤は居心地が悪いのだが、小野塚はまったく気づかない様子で自分のことを話し始めた。 「俺、何日か前から胃が痛いんです。明後日役員プレゼンなんですけど、資料がイマイチまとまらなくて。そのストレスかなあ」 「……それは大変だね」  そんなタイプには見えないが、意外に気が小さいのかと水澤は思った。 「食品の話するのに、胃が痛くて飯食えないなんて最悪ですよ。ゼリー飲料で命繋いでます」  確かによく見ると顔色があまり良くない。端整な横顔を盗み見ていて、小野塚の耳朶にピアスの穴が開いていることに水澤は気がついた。遊んでいた時期があるのだろうか。彼なら今つけていても似合いそうだが、さすがにサラリーマンとしてはまずいだろう。プライベートではつけているのだろうか……と水澤はあれこれと想像してしまった。 「胃カメラ飲んだ方がいいって勧められたんですけど、そんな暇ないし、プレゼン終わったら治るかもしれないから、断っちゃいました」 「落ち着いたら胃カメラやってみれば?胃潰瘍の痕があるかもしれないよ」 「やめてください、怖いなあ」  小野塚は怯えているようには見えない笑顔を向けた。  ふたりはほぼ同時に名前を呼ばれ、それぞれ薬剤師の待つカウンターに向かった。水澤は前回と同じ処方だから、特に薬の説明はないが、定期的に通院している者はここでまた「最近どうですか?眠れますか?」と薬剤師の尋問を受ける。適当に流すつもりが、つい眠れない日が多いと話してしまい、服薬したらすぐ布団に入っているかとか、別の薬を試してみたいと医師に伝えたらなどとうるさく「アドバイス」された。ようやく会計を終えて出ようすると、入口で小野塚が待っている。なんだこいつ、と面倒臭くなった。 「水澤さん、帰りますか?」 「もちろん」  よそよそしく答えるが、小野塚は気にする様子も無く絡んでくる。 「じゃあ、そこまで一緒に行きましょう。俺は会社に戻ります」  まだ、プレゼンの準備が終わっていないのか。きっと部長のチェックがあるのだろう。水澤は途端に小野塚が気の毒になり、自分の感情の振れ幅に驚いた。かつての職場にいる後輩だからといって、あまり思い入れない方が良い。  オフィス街の並木道は、昼間は残暑が厳しいものの日が暮れてくると途端に涼しくなる。冷房の効きすぎた薬局の中より心地よいかもしれない。 「遅くなっちゃったなあ」  腕時計をみながら小野塚は呟いた。長い指だなと思いながら、水澤はつい手元に見とれていた。薬指に指輪ははまっていないが、まだ若いし恋人くらいはいるだろうとぼんやり考える。 「俺、家が結構遠いんで終電早いんですよ。ハル食品に居たときは近かったんだけどな」 「ハル食品の本社は埼玉だっけ」 「そうです。K**市」 「そこから都内に通勤じゃ、キツいだろう」 「うちはさすがにもっと都心に近いですが。引っ越したいけど、暇がなくて」  遅くなったと言いながら、小野塚はぶらぶら歩いている。大丈夫なのかと思いつつ、水澤は特に用事もなかったから付き合っていた。  15分以上かけてようやく薄暮の中に社屋が浮かび上がる。 「じゃあ、あまり無理するなよ」 「はい」  返事をした小野塚は水澤から離れて歩き出したが、すぐに振り返ると、 「そのうち飲みに行きましょうよ」と言った。  胃が痛いくせになに考えてるんだと思ったが、曖昧に頷くと小野塚は手を振って、自動ドアの中に消えて行った。

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