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2.秘密-3

 総務の仕事は多岐にわたる。社屋の管理、役員会の調整、降ってわいた消防点検の対応など、ほかの部署の業務に属さない雑務だと言われればそれまでだ。仕事の出来ない奴が流れ着くところだと陰で言われているし、水澤もかつてそう思っていた。しかし日々の仕事に追われるうちに、少しずつプライドを持てるようになってきて、今ではそれなりにやりがいを感じている。法令の改正があれば法務部門と相談しながら対策を練るし、役員用の高級車の管理もしている。ひとつひとつは小さな仕事だが、とても「仕事のできない奴」に任せられるものではないよ、と総務課長は言っている。確かにそうだと水澤も思う。  社員の休憩室の改装も、彼の担当だった。喫煙スペースを完全に分離して換気システムも新しくし、「煙草臭い」と言われない空間を作るのが目標のひとつで、複数の業者に問い合わせ、現場を見てもらっている。 「では、見積もりができましたらお伺いします」  リフォーム会社の営業と職人を見送り、自席に戻ろうとしたところで、水澤の耳は聞き覚えのある声を敏感に察知した。声は次第に近づいてくる。水澤は立ちすくんだ。 「……とにかく、資料6と8はすぐに直して持ってこい」 「ても、開発部に数字を確認しないといけないので、時間がかかりますよ」 「至急だって言えよ。プレスリリースに間に合わなくちゃ意味ないだろ。今日の17時が期限だ」  商品企画部長の声だ。逃げ出したいと思ったが、足が動かない。  廊下の先に人影がふたつ現れた。ひとりは部長の山崎、もうひとりは小野塚だった。小野塚のほうがだいぶ背が高いが、山崎はさすがに迫力があって食い付きそうな感じである。 「いやそれはさすがに無茶じゃないですか。暫定値ならすぐに出ると思いますが」 「馬鹿、それじゃ意味ねーだろ。確定値が出なけりゃ、こんなの紙きれだ」  バシッとなにかが叩きつけられる音が響く。水澤は唾を飲み込んだ。頬に鈍い痛みが蘇る。もう1年以上前のことなのに、部長室で殴られたことを鮮明に思い出した。  山崎がこちらに歩いてくる。水澤は会釈するふりで……こんな男に頭を下げたくはないが……視線を合わせまいとした。すれ違いざまに舌打ちする音が聞こえたような気がして、心臓が跳ね上がった。  顔を上げて廊下の向こうをうかがうと、小野塚が床に散乱した紙を拾っていた。彼はすぐに水澤に気がつき、笑顔で駆け寄ってきた。 「いやー、なんであんなにへそを曲げるのがわかりません。面倒臭いオッサンですね」  水澤はなんとか頷いた。息が苦しい。なんで小野塚は話しかけてくるのだろう。さっさといなくなってほしい。ひとりになりたい。 「どうしたんですか?真っ青ですよ」 「……ちょっと、貧血みたいで……」   適当な嘘をついたが、逆効果だったようだ。まじまじと見つめられ、余計に混乱して目の周りが熱くなる。 「医務室行きましょう」  水澤は必死に首を振った。病人扱いされたくない。薬を飲めば治るのだ。せっかく今まで医務室に行かず、産業医にも保健師にも隠し通してきたのに、こんなことでバレたくない。 「でも、ホントに具合悪そうですよ」 「すこし休めば……良くなるから」  若い女性社員がふたり、連れだってこちらへやってくる。知り合いではないが、まともでないこの状態を見られたくはない。どうにか半歩後ろに下がると、壁に背中が当たった。  小野塚が立ちはだかり、水澤の視界が遮られる。楽しげな会話が横切り、遠ざかっていった。 「屋上、行きましょうか」  返事をする前に小野塚は水澤の腕を掴んで、廊下を縦断しエレベーターに連行した。運良く先客はおらず、途中の階にも停まらずに屋上へ到着した。  雲ひとつ無く空が高い。水澤はフェンスによりかかり息をついた。小野塚の気配を感じつつも、仕方なくジャケットの内ポケットから小さなピルケースを取り出し、中の錠剤をひとつ口に運んだ。本来なら水で飲むものを噛み砕いて溶かすと、プラシーボ効果もあるのだろうが少しずつ焦燥感が薄れてくる。  気分が落ち着いてくると、あらためて妙な状況になっていることを実感した。小野塚は近くの自販機で買ってきたのであろうカフェオレの缶を手に、柵にもたれて空を仰いでいる。  最初に言われたとおり医務室に行っておけばよかったと水澤は悔やんだ。なんで後輩に安定剤を噛んでいるところを見られなくてはいけないのか。これなら保健師にあれこれ訊かれて、産業医の面談に呼ばれたほうがマシだ……行かないけれど。 「水澤さんもなんか飲みます?俺買ってきますよ」 「……いらない」  拒絶してしまってから、大人げないなと水澤は思った。礼のひとつも言うべきなのに。しかし本当は放っておいてほしかった。 「君、仕事に戻らなくていいのか?部長が至急だって言ってただろ?」 「ああ、あれですか」  小野塚は鼻で笑った。 「実は確定値はもう貰ってあるんです。だからすぐに修正できるんですが……あんな風に言われると癪でしょ?どうしようかな」 「どうしようかな、じゃないよ。上司の命令なんだからきちんとやりなさい。アイツに目をつけられたら大変なんだから」 「そうなんですか?」  水澤は返答に詰まった。言い過ぎた。小野塚の視線が痛い。 「……山崎部長は仕事熱心なあまり言葉がキツくなるタイプなんだ。求めるレベルも高いから無茶だと思うだろうけど、良いものはできるから……」 「そうかなあ、頼み方ってものがあると思いますけど」 「……」 「でも、水澤さんの言うとおりです。命じられたことはやらないとね」  小野塚は伸びをして、柵から離れた。立ち去ろうとする背中を、水澤は呼び止める。 「……あのさ」 「はい」 「みんなには秘密にしておいてくれないか」 「何をです?」  わかっているはずなのにと焦れながら、水澤は声を絞り出した。 「俺が心療内科にかかってて、薬飲んでること……」 「そんなことですか?」 「知られたくないんだよ!」  感情が昂ったせいか視界がくもり、ますます恥ずかしくなる。うつむいていると、小野塚が戻ってきて隣に立ったのがわかった。 「俺、ゲイなんですよ」 「え?」  さらりと言うので、水澤は思わず顔を上げた。 「やっと俺のことちゃんと見てくれましたね」 「あ……いや……」  小野塚はにやっとした。ウエーブのかかった髪が風に揺れる。 「ゲイなのは本当です。会社の連中には言ってません」  「……」 「そんな顔しないでくださいよ。取って食いやしませんから」  よほど不安そうな顔をしてたのだろうか。 「なんで俺にそんな話をするんだ?」 「秘密だから」  まっすぐ見つめられる。ちょっといい男なうえにゲイなのだと思うと、心臓が変に高鳴る。 「これでお互いに秘密を知ってることになります。おあいこでしょ?」 「まあ……そうかもしれないけど……」  曖昧に返答すると小野塚は満足げに頷いた。 「じゃ、俺戻りますね。部長の思いどおりにはなりたくないんですが、プレス発表できなかったら広報に迷惑かけちゃいますし」  そう言い残して、小野塚はもう振り向くことなくエレベーターホールへと消えていった。  頬が熱いような気がして、水澤は何度も顔を撫でた。  おかしな奴だ。水澤が心療内科に通っているのも安定剤を飲んでいるのも、小野塚はたまたま目にしただけだというのに、同性愛者というセンシティブな秘密を打ち明けておあいこだと言うなんて。なぜそこまでしたのだろうか。  でも、小野塚にはすこし本音を漏らしても良いのかもしれない、と水澤は思った。黙っていることに慣れてしまっているけれど、やはり誰かと話をしたいときはあるのだ。

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