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2.秘密-4
水澤は30歳のときに、2年間交際していたひとつ年下の佐希子と結婚した。結婚してすぐに佐希子は妊娠した。水澤は手放しで喜んだが、仕事が波に乗っていた佐希子には予想外だったらしい。胎動を感じるようになるまでは残業したり出張も引き受けて、水澤をひやひやさせた。
水澤のほうも企画課で新規プロジェクトに加わって順風満帆であった。同期のなかでも出世グループのひとりと言われ、そんなつもりはなかったがやはり誇らしく感じた。
そのうちに山崎が商品企画部長として支社から異動してきた。若いころから様々なヒット商品の開発に携わってきた凄腕という評判で、水澤も密かに尊敬していた人物だった。その下で働けるなんて光栄だとそのときは思っていた。年上の同僚たちがなんとなく暗い顔をしているのが不思議でならなかった。
山崎部長は完璧主義で、自分が満足するまで企画書に判を押さなかった。その頃、水澤は課内の数人とあるイベントを開催するために準備をしていたが、その内容に山崎の気に入らない点があるらしく、修正を求められた。はじめは山崎の指摘をすべてこなそうと、何度も修正に応じて遅くまで残業した水澤だったが、次第に辛くなってきてどこまでやればいいのかわからなくなってきた。自分が何日もかけて作り上げたものをチラ見だけで全否定されてしまい、終電近くまでかけて直すの作業は虚しさしかない。
課長はあまり無理するなと声をかけてきた。部長の言うとおりにすれば通るんだからと。しかし、水澤はどうにかして自分の案を認めてもらいたかった。同僚たちは良いと言ってくれているのだから、すこし修正すれば許可が出ると思っていた。しかし実際は何度直しで部長は首を縦に振らず、企画書は最初とはまったく別のものになりかけていた。
八度目の修正案を持って水澤が部長室に行くと、山崎はまたお前かと言わんばかりに彼を睨み、書類の束に目を通した。
「12ページ目のところ……前に削れと言ったはすだが?」
「しかし、そこはこの案の肝なんです。削ってしまったら、ほかの部分まで意味が無くなります」
「そんなことないだろう。こだわってるんじゃねえよ。俺が無しといったら無いんだ」
山崎はペンを取って12ページの大部分に大きなバツをつけた。水澤は背中がざわざわして、思わず書類をひったくった。
「おい、変な思い入れしてるんじゃねえよ。お前は俺の言うとおりに企画書を作ればいいんだ」
「でも、これは私たちが作ってきたもので……」
バシッと乾いた音が部屋に響く。水澤はしばらくなにが起きたかわからず、ただ立ち尽くしていた。次第に頬骨のあたりに鈍い痛みが広がり、やがて口の中に鉄の味がした。
「生意気言ってんじゃねえよ。イベントやりたいならさっさと直せ。担当降ろしてやるぞ!てめえの代わりなんかいくらでもいるんだからな」
頬が腫れてうまく言葉が出ず、曖昧に答えて水澤は逃げるように部屋を出た。
部長の声はオフィス内に響いていたようで、部屋から出てきた水澤はたくさんの視線を浴びた。恥ずかしさで隠れたくなりながらも平静を装い、水澤は自席に座った。パソコンを開き、企画書のファイルから12ページの大半を削除した。次のページが繰り上がり、彼が同僚たちと作り上げたものは跡形もなく消滅した。
それからも水澤のやることに山崎はいちいちケチをつけるようになった。係長はほとんど嫌がらせじゃないかと憤慨し、課長も困ったねと言ってくれたが、部長に意見することはなかった。山崎は多くの功績から役員にも一目置かれており、ほかの管理職なら問題になる行為も大目に見られていた。休職になった部下もいて、管理職としての資質を疑問視する声もあったが、だからといってクビにすることもできず、彼を可愛がる幹部がいるために閑職に回すこともできない状況だった。
毎日のように否定的な言葉を浴びせられ、水澤は疲弊していった。その頃佐希子が里帰り出産したが、残業と疲労のせいで立ち会いもできず、見舞いも一度しか行かなかった。佐希子は2ヶ月実家で過ごしてから帰宅したが、家の中があまりに散らかっているのであきれ果てていた。
水澤は佐希子に自分が置かれている状況を説明できずにいた。産休直前までバリバリ働いていた妻に、仕事ができない人間と思われたくなかったのだ。それに、毎日会社へ行くので精一杯で、話をする気力もなかった。赤ん坊の寝顔を見るとすこし癒やされたが、その脇で佐希子があれこれ喋っていることはまったく頭に入ってこなかった。
それでも、同じように仕事をしている妻なら自分の窮状をわかってくれるだろうと、ある晩話し続ける妻を遮って、部長と関係が悪くなっていることや係長や
課長は心配してくれているがそれ以上なにもしてくれないことを話した。佐希子はしばらく夫の訴えを聴いてくれた。水澤がひととおり話し終えると、彼女は神妙な顔で言った。
「ヒロくん、上司にはっきり言いなよ。いい大人なんだから、話せばわかってくれる。こっちは言葉が全然通じない赤ちゃんの世話してるんだからさ、それよりずっとマシだよ?」
佐希子の言葉はまったくの正論だった。しかし正論が必ずしも人を救うわけではない。赤ん坊が泣き出すと佐希子は慌てて抱き上げた。
「ベッドに置くとすぐに目を覚ましちゃうのよ、ヒロくんのいない間もずっと抱っこしてるんだから」
水澤はぼんやり頷いてリビングを後にした。寝室に行き、頭から布団をかぶる。泣き声がしばらく聞こえていたが、やがて静かになった。
あのとき、もっと感情をあらわにして佐希子にぶつかっていたら、違う状況になっていたかもしれないと水澤は思っている。しかし現実にはできなかった。水澤は疲れ果てていて、佐希子の感情を受け入れる余裕も自分の胸の奥にわだかまるものを言語化する力も残っていなかった。
1ヶ月後、終わらない仕事にどうにか見切りをつけて水澤が帰宅すると、寝ているはずの佐希子と子供が家にいなかった。
佐希子はこのところ保育園探しに奔走していて、水澤にも意見を求め、見学に同行するように求めてきた。さすがに平日は無理だったが、土曜日くらいは父親の勤めだと思い付き合ったが、ほとんどうわの空であったのことは否めない。佐希子にしてみれば、それも不満だったのだろう。次第に口数が減り、一緒に出掛けようと言わなくなった。佐希子と会話をしなくて済むので、水澤がホッとした矢先のことだった。
リビングのテーブルには手紙が残されていて、このまま一緒に生活する自信がないから、実家に戻って頭を冷やすというようなことが書いてあった。佐希子の番号に電話をかけてみたが、留守番電話に切り替わってしまう。
水澤は電話が繋がらないことにむしろ安堵した。久しぶりに部屋の中が静寂に満たされている。緊張の糸が切れてしまったのか、彼は体調不良と称して会社を2日間休んだ。
不思議なことに水澤はやはり眠れなかった。眠いのに布団に入ると頭の中で部長に罵られ、佐希子が愚痴を言う。焦りで心臓がバクバクと高鳴り、吐き気がした。1日中横になっていたが、すこし微睡んだだけであとは嵐の中で怯えているような状態だった。
2日目の午後、水澤は重い体をどうにか奮い立たせ、心療内科を受診した。医師はとにかく眠れるようにと強い薬を処方してくれた。
「薬だけでなく環境を整えるようにしてくださいね。できればしばらく休職したほうがいい。診断書を書きますよ」
休職などしたら、部長に負けたことになると水澤は考えていた。それだけは嫌だった。薬だけを貰い、彼はクリニックを後にした。
翌日、どうにか出社すると、課長に呼ばれ応接室へ連れて行かれた。
「不本意だと思うけど、異動してほしい」
いきなり切り出され、水澤は面喰らった。
「君のためだ。部長に毎日難癖つけられて、辛いだろう」
「僕は大丈夫です」
「君だけじゃない。まわりの士気も下がるんだよ」
「……」
お人好しの課長は慌てて付け加えた。
「水澤くんが悪いわけじゃないんだ。でもね……わかるだろう。組織なんだから……」
組織だから、自分が引き下がるしかないのか。もしかしたら遠回しに辞表を書くように言われたのかもしれないなと水澤は思った。
水澤は同僚が帰ったあと自席を片付け、荷物をまとめた。異動先は総務課である。年度途中の異動は珍しくはないが、行き先か行き先なだけに社内で噂が立つことは確実だった。
翌日、水澤は3階の総務課に出勤した。水澤とあまり歳の変わらない総務課長がわざわざ出迎えてくれた。彼とはこれまで関わりはなかったが、女性社員の間ではよく話題になっていて、水澤も色々と耳にしていた。というのも、彼は前社長の息子なのだ。つまり、将来社長になる可能性もある。それにしても日比野なんて会社と同じ名前、口にするだけで緊張する。
大変だったねと言われ、水澤は日比野が全てを承知していると悟った。
「君にとって不本意な異動なのはわかる。でも、あのままあそこに居て本当に病んでしまったら、会社は貴重な人材を失うことになるからね」
要するに根っこは営業企画課長の言葉と同じく「組織の事情」ではあるのだが、日比野の言葉は説得力があるように感じた。
すこし休暇を取ってもいいよと言われたが、水澤は断った。どうせ病休だし、家に居たってどうせひとりだ。それなら日比野の下で初心に帰って働こうと決意した。水澤は出勤を続けた。
異動して山崎の怒声から逃れたからといって、不眠はあまり良くならず、不安や焦燥感に駆られて薬を飲むこともしばしばだった。半ば意地のように勤め続けていたが、いっそ辞めてしまった方が楽になるのではと思うこともあった。長いトンネルのような日々はそれでも確実に過ぎていき、水澤は総務課の仕事にも慣れて人並みにこなせるようになっていた。
佐希子は家を出て3ヶ月目にようやく電話を掛けてきた。
「ごめんね、なにも言わずに出ていって」
「いいよ、俺も悪かったし……」
連絡をしてきたからには、戻ってくるのだろうと水澤は期待し、次の言葉を待った。
「ヒロくんが大変なときに、私も要求しすぎたなって思ってる。そこは反省してるよ」
「うん」
「でも……やっぱりヒロくんの態度、許せなくて。色々考えたけど、今また一緒に暮らしても同じことの繰り返しになりそうだし、朝陽にも悪影響だし」
「……」
許せないなんてきつい言葉を投げつけられるのは心外だった。自分はそこまでのことをしたのだろうか、佐希子は反省してると言いながら、歩み寄ろうとしていないじゃないかと水澤は怒りを感じたが、反論する気力は無く黙っていた。
「ヒロくんの方はどうなの?」
「……異動した」
「異動?」
佐希子の声は意外そうな響きだった。ああ、やっぱり俺の話を聴いてないんだなと水澤は思った。
「まあ色々あってさ。今の職場も楽しいよ、課長はいいひとだし」
面倒臭くなって、詳しく話すのはやめてしまったが、佐希子もそれ以上追及しなかった。お互いに心が離れてしまっている感じがして、修復できるのか、その覚悟があるのか水澤は自分の気持ちがわからなかったし、佐希子がなにを考えているかもわからなかった。
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