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3.ここにいて-1

 休憩スペースの改装工事が始まると、水澤は仕事終わりに様子を見に行った。職人が帰った後で部屋を覗くと、前の日よりも確実に内装が出来上がっている。壁には大きな絵を掛けることにしているが、有名な画家だとリトグラフでも値段が張るので、アマチュア画家の絵をは販売するサイトでいくつか候補を探し、課内で人気投票をして深い湖の底のような色合いの前衛絵画を購入した。一時的に倉庫に保管してあるが、早く壁に飾りたい。なにかを一から作り上げていくのはやり甲斐があって、大変だけど楽しい。  ガラス張りで最新型の換気装置を備えた喫煙ブースがおおむねできたところで、水澤は日比野を現場に案内した。水澤は煙草を吸わないので、喫煙者の日比野に見てもらい、意見を求めたかったのだ。 「カウンターとハイタイプの椅子を置こうと思ってるんですが、意外に狭くなってしまって」  日比野は塗料のにおいが残る3畳ほどのスペースに視線を巡らして、 「椅子は要らないんじゃないかな」 と言った。 「社員のなかに喫煙者はだいぶ減っているし、煙草は手短にして、喫煙スペースの外でくつろいで貰えればいい」 「手厳しいですね」 「世の流れだからね。喫煙者は肩身が狭いよ。俺なんて、家の中では吸うな、ベランダも近所迷惑だから駄目だと妻に言われてる。いい加減に禁煙すればいいんだけど、なかなか止められないんだなあ」  日比野課長も俺なんて言葉を使うんだなと、水澤は不思議な気分になった。  日比野が前社長の長男であることは、社員も皆知っていた。その割に不惑近くなっても課長職に留まっている。おっとりして特に能力も高くない御曹司なのかと水澤は思っていたが、部下になってみるとまったく正反対で、英語のほかにフランス語もビジネスに耐えうるレベルで話せるし、自社の取るべき戦略について明確なビジョンを持っている。しかも部下には強い言葉ひとつ使わず、常に穏やかに接して的確なアドバイスができる。人望もあるのになぜだろうと思っていたが、どうやら社内の派閥争いが絡んでいるらしい。要するに、父親と対立するグループによって日陰の立場に追いやられたということか。  それでも日比野は社内で一定の影響力を持っているようだ。商品企画課で世話になっていた先輩があるときそっと耳打ちしてくれたのだが、水澤が総務課に異動になったのは日比野が引っ張ったためらしい。普段は権威を振りかざす真似は一切しない日比野課長が、人事課にかなり強く言ったんだってと、その先輩は話していた。  もしも、日比野が自分のために切り札を出したのだとしたら、嬉しい反面申し訳なさもあった。だからこそ、このひとの下で精一杯頑張ろうという気になるのだ。  水澤は日比野と取り留めのない話をしながらオフィスに戻った。日比野はゴルフをやるが、あれはなにかと気を遣って面倒だねと言った。無心になれるから、皇居の周りをひたすらジョギングするのが良いらしい。余計なことを考えずに済むなら、初期費用も安いし自分もやってみようかと水澤は思った。  自席のパソコンのロックを解除すると、小野塚からインスタントメッセージが届いていた。 〈今夜、お暇でしたら飲みに行きませんか?〉  いつか言われた飲みに行きましょうは社交辞令だと思っていたから、水澤はちょっと驚いた。確かに新商品の店頭販売も始まり、新しいプロジェクトもまだメンバーを選定している時期だから、商品企画課は少し余裕があるのだろう。  すこし悩んでから、水澤はキーボードを叩いた。 〈いいよ〉  すぐに返事が来る。 〈じゃあ、18時に1階のエントランスで〉  物好きな奴だなと水澤は思った。商品企画課でうまくやっているようだし、同じ課の仲間と飲む方が楽しいのではないか。自分のような人間と何を話したいのだろう。自慢話でもして自己顕示欲を満たしたいのか。まあそれでも構わない。不愉快になったら、なにか理由をつけて帰ってしまえばいい。  それでも何となく落ち着かず、ふだんなら我慢する安定剤を飲んでみたものの仕事があまりはかどらないまま終業時間を迎えた。  18時すこし前にエレベーターで1階に降りる。金曜日だからか、待ち合わせとおぼしきグループがいくつか散らばっている。 「水澤さん」  小野塚が手を振ってる。背が高くて目をひく風貌だ。若い社員の中にはビジネスリュックを背負っている者も増えたが、小野塚は革製の鞄を手にしていて、それがまたしっくりくる。  ふたりは社屋を出て横断歩道を渡った。 「どこにいきますか?苦手なものとかあります?」  小野塚は気さくに話しかけてくる。 「いや、特に……」  強いて言えば酒は飲まないのだが、最近の居酒屋はソフトドリンクも豊富だから何処へ行ってもあまり気にならない。……薬を飲むようになってからは、居酒屋そのものにほとんど行かないのだが、それを言ってしまったら始まらない。 「じゃあ、俺海鮮食べたいんで、そんな店でもいいですか?」 「うん」  多少は小野塚と時間を共にしたいと思っている自分に、水澤は気がついた。もともとひとりで行動するのが苦にならないタイプで、結婚前はバーのひとり飲みもよくしていた。だから、佐希子が出て行ってもそこまで苦痛には感じていなかったのだが、やはり物足りないなにかがあるのだろうか。

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