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3.ここにいて-2

  小野塚はよく見かけるチェーン店の前で足を止めた。 「こんなところですけど」  ちょっと恥ずかしげに言う。彼のことだから小洒落た店に行くのかなと水澤は勝手に想像していたので、なんだか拍子抜けした。よく考えればデートではないし、職場の同僚なのだからこの程度が気兼ねなくて良いだろう。  「いいじゃない、入ろうよ」  小野塚はほっとしたようで、引き戸を開けて中に入った。半個室でも何でもない、すこし距離を空けてテーブルが並んでいるような店内には、週末のせいかそれなりに混雑している。  二人席に通され、小野塚は中ジョッキを頼んだ。ふたつ、と言いかけたところを水澤は遮り、烏龍茶を注文する。ベテラン風の定員が「ウーロンハイですか」と聞き返すのを、「烏龍茶です」とチャに力を込めて答えた。 「すみません」  店員がいなくなると、小野塚が申し訳なさそうに言った。 「気にしないで。ほら、海鮮食べたいんだろ」  メニューを渡すと、小野塚は熱心に読んでいる。 「炉端焼き食いたいんで……蛤と帆立とホッキ貝と……イカにホッケ……あーごめんなさい、俺の好きなものばかりで。水澤さんなにか食べたいものあります?」 「じゃあ、冷やしトマトとたこわさ……」 「遠慮しないでくださいよ。刺身食べます?」  別にケチるわけでもないが、どうせ割り勘か水澤がすこし多く出すのだから、遠慮もなにもない。  生ビールと烏龍茶が運ばれてきた。 「お疲れさまでーす」  小野塚に促されてグラスを打ちつける。美味そうに喉を鳴らす様子に、水澤はうっかり見とれてしまった。  コンロと海鮮が置かれると、小野塚は腕まくりして慣れた手つきでトングを使って焼き始める。 「そういえば君、胃の調子は大丈夫なの」  小野塚は歯を見せて笑った。 「あー、販売が始まったらスッキリ良くなりました。もう揚げ物だろうが激辛だろうがどんと来いですよ」  メニューに目をやってアジフライもいっちゃおうかなと呟いている。 「そういえば、(たから)フィーユ、俺もさっそく食べたよ。コクがあって美味しかった」 「限定で定番商品との詰め合わせをやってくれてるんです。この前夕方の情報番組でも紹介してもらえましたし」  ヒビノの商品の中でも最高級ラインである「秀寳」は原材料を国産品にこだわり昔ながらの製法で作った味醂(みりん)で、老舗洋菓子店花梨堂の人気商品「チョコフィール」とコラボレーションしたものが、寳フィーユなのだ。それから、以前からあった糖質ゼロのみりん風調味料を改良した商品も、先週からスーパーに並んでいる。  どちらの企画も、かつて水澤が関わっていたものだったから思い入れもあり、無事に世に出すことができてほっとしている。その一方で、自分が居なくても商品企画課は回ることが証明されてしまったようで、すこし寂しくもあった。  当たり前だ。自分は組織の交換可能な歯車のひとつに過ぎない。唯一無二などというものはそうそうない。家庭における父親や母親といった立場は交換が難しいかもかもしれないが、水澤にとってはそれすらも否定されつつある。  焼けた貝を小野塚がトングで皿に載せてくれた。 「次は日本酒にするかなあ」  小野塚はドリンクのメニューを眺めている。中ジョッキはあっという間に空になっていた。 「とりあえず、転職してから初の大仕事を終えたって気分ですね」 「はは……それなのに、こんな安い店でいいの」  それに飲む相手が自分なんかでいいのかと言いかけて、さすがにそれはやめた。 「まー、気合い入れて行く店も嫌いじゃないですけとね。そういうのって、落としたい相手と行くものじゃないですか?ちょっと緊張感あるっていうか……」  小野塚がゲイなのを思い出すと、自分を見る目も普通の男とは違うのかなと水澤は気になったが、こんな大衆的な店に連れてくるのだから、きっと下心は無いのだろう。 「打ち上げなら、これくらいの店の方がいいですよ」  冷えた四合瓶とグラスが運ばれてくる。なぜかグラスはふたつあった。 「水澤さんも飲みます?」  断りかけて、まあほんの少しならよいかと思った。小野塚は小さなグラスの半分ほど酒を注いだ。 「……ムードある店で上司の愚痴なんか言えないじゃないですか。個室じゃなくても騒がしい店は、誰も他人の話なんか聞いちゃいないです」  確かにすぐ隣の4人テーブルは、男女でちょっと下品な話題で盛り上がっていて、こちらに興味を示す気遣いはない。 「水澤さん以前うちの課にいたんでしょ?課長どう思います?」 「課長?」  山崎部長の愚痴を聴かされると思っていた水澤は面喰らった。 「別に……仕事はできるし、いいひとだと思ってるけど」 「えー、そうかなあ」  小野塚は貝殻から身を外して醤油をかけた。 「いい上司ぶってるけど、口だけのことが多いし、だいいち部長の腰巾着じゃないですか」 「え」 「知らなかったんですか?」  確かに部長に対して煮え切らない態度を取っていたが、中間管理職ゆえに仕方が無いのだと思っていた……違うのか。 「部長室に入ろうとしたら、ご機嫌をうかがうような課長の台詞が聞こえてきて……俺の案が簡単にけなされてるから腹がたちましたねえ。ノックもそこそこに素知らぬ顔でドアを開けたら、ばつが悪そうな顔をしてましたけど」 「……」  水澤が山崎に嫌味を言われ続けていたときに、一緒に腹を立ててくれたのはポーズだったのか。 「……課長の立場上仕方が無いところもあるんじゃないかな。部下と上司との風通しを良くしなくてはいけないし……」  なぜ、課長を擁護するようなことを言っているのか、水澤自身もよくわからなかった。 「水澤さん、優しいですね。俺はそんな風には考えられないなあ」  酒をあおってくらっとした水澤は、たこわさびを立て続けに口の中に放り込んだ。冷たい辛みが鼻を抜ける。 「ヒビノの商品は好きだし、企画や広報の連中も一緒に仕事をしていて楽しいですけど、あの課長と部長はいただけないなあ。まあ、部長はさすがに実績があるから、それなりのものができてるけど、なんとなく古さがあるし……でもあのパワハラじゃあ、部下も冒険しなくなりますよ。俺も面倒臭くなってきたし」  ホッケの骨を外しながら、小野塚は肩をすくめた。 「……辞めたくなってきた?」  水澤がどうしてもできなかったことを、小野塚は簡単にやってしまいそうだ。 「はは、俺転職したばっかですよ」  馬鹿なことを訊いてしまったと、水澤は首の後ろを掻いた。 「せっかくヒビノに入れたんだし、いずれ異動する人間のために悩む必要はないでしょ。ホントに嫌になったら、支社に行くのもいいかなくらいは思ってますけどね」  それくらい柔軟な思考があれば、自分も病まずに済んで、佐希子が出て行くこともなかったのかもしれないと水澤は思った。しかし過去に対してあれこれ思いを巡らせても、現実が変わるわけではない。妻子に逃げられ花形部署から追い出された自分はそのままなのだから。  胸のなかにわだかまる黒い感情を洗い流したくなり、水澤はグラスの酒を一気に干した。あまり飲まない方がいいのだが、小野塚はすかさずグラスに酒を追加した。 「俺、共有フォルダの中に、水澤さんの企画書見つけたんですよ。寳フィーユの……」  水澤は狼狽し箸を床に落としそうになった。異動するときに自分が作成したファイルはすべて消したはずなのに、漏らしていたのか。 「読んだのか」 「だって共有フォルダに入ってましたから」 「……」  山崎に散々貶されて、目の前で破られた企画書だ。殴られたときよりも精神的にはきつかったかもしれない。よりによってどうしてそれが残っていたのか。日の目を見ることの無い企画だというのに。 「あれ、どうしてボツっちゃったんですか?」 「……」  答えられなかったが、小野塚ならきっと察しただろう。 「いい内容だと思いますよ。俺は好きだけどなあ……どっかで使わせて貰ってもいいですか?」 「……」  身の置き所がなくなって、水澤はまた酒を飲んでしまった。

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