10 / 33

3.ここにいて-4

 パタンと何かが倒れるような音で水澤は目を覚ました。うつ伏せのまま熟睡していたらしく、首や腰が痛い。二日酔いの頭痛を抱えながら起き上がると、造り付けのクローゼットの扉が開いているのに気がついた。トレンチコートの後ろ姿が視界に飛び込む。もう1年近く顔を合わせていなかったが、妻の背中だとすぐにわかった。 「起きた?」  振り返った佐希子は一緒に暮らしていたときとまったく変わらない声で話しかけた。 「やだあ、帰ってそのまま寝ちゃったの」  顔をしかめて、また背を向けると棚の中を漁っている。 「どうしたんだ、急に」 「昨日の夜と今朝、何度もメッセージ送ったよ」  スマートフォンはどこにあるのだろう。たぶん鞄の中に入れっぱなしだ。 「ごめん、見てない」 「そうだろうね」  佐希子は別に不満そうでもないが、もともと水澤に期待もしていないのだろう。 「ねえ、私の実印どこにあるか知ってる」 「ハンコ?」 「そう。急に必要になっちゃって。こっちに置いたままのはずなんだけど」 「リビングじゃないのか?」  佐希子は慌ただしく部屋を出て行ったが、すぐにキャッという小さな悲鳴と、すみませんと謝る小野塚の声が聞こえた。水澤は頭痛も忘れてベッドから飛び降り、リビングに向かった。小野塚はジャケットとネクタイだけ脱いだ姿で、ソファの横に立っていた。どうやらソファで寝ていたらしく、癖っ毛がはねたりうねったりして、美形が台無しである。 「ヒロくん、お友達?」 「ああ、うん」 「驚かせちゃいましたね」  小野塚は申し訳そうに微笑む。 「水澤さんの職場の後輩で、小野塚といいます」 「あ……主人がお世話になってます」  ずっと別居してる癖にこんなときだけ妻として振る舞うのかと、水澤は面白くなかった。 「早く探したら」 「あ、そうだった」  佐希子はリビングの隅にある棚を開けて中を引っかき回していたが、 「あった」 と呟くと、淡いピンク色の印鑑ケースを水澤に見せた。 「これがあればいいの」  ハンドバッグにさっとしまうと、コートをひるがえして足早に玄関へ行ってしまった。水澤も裸足のまま後を追う。 「コーヒーでも淹れるよ」 「これから約束があるの」  佐希子は詳しく語ろうとしないが、実印を使うのならそこそこ重要な事に違いない。 「朝陽は」 「元気よ。今日は託児所に預けてるの。お母さんに休日くらいゆっくりさせてくれって言われちゃって。だから、急いで用事済ませて、迎えにいくつもり」  ヒールのすり減ったパンプスを履いて、佐希子は名残惜しそうな様子もなく出て行った。  水澤がリビングに戻ると、ジャケットを着込んだ小野塚がやりにくそうに短い髪を束ねてゴムでくくっていた。 「髪がもの凄いことになってて、外歩けません。そろそろ切らなきゃと思ってたんだけど」  「寝癖直し用のミストあるよ」 「いやー、その辺で売っているのじゃダメなんですよ。剛毛なんで」  髪を結ぶと遊び人風になって、ピアスがとても似合いそうな気がする。すらりと背が高い自分のスタイルを自覚していてしっかり選んだのがよくわかるくらい、スーツが体に馴染んでいる。水澤も身長は170cmを超えているが、腕や脚の長さがまったく違う。 「さっきの、奥さんですよね」  いちばん答えづらい質問だ。水澤は口の中で曖昧に返事をした。 「綺麗なひとじゃないですか」 「別居してるけど」  それはそれ以上の質問を拒絶するの強い言葉だった。期待どおり小野塚は口を噤んだが、左手に視線がそそがれるのを水澤は感じた。薬指にはまだ指輪が収まっている。プラチナのシンプルなデザインだが、内側には水澤と佐希子のイニシャルが刻印されている、今となっては呪縛のようなものだ。  佐希子は指輪をしていただろうか。慌ただしくいなくなってしまったから、手元を眺める余裕もなかった。 「それより君、泊まったのか」  あれからすぐに眠ったはずなのに。 「だって、水澤さん大変だったじゃないですか。急に泣き出したり、ラーメン食べるって言い出してリビングに行こうとしたり。ラーメンは俺が阻止しましたけど」 「……覚えてない」  安定剤と酒で健忘を起こしてしまったのだ。羞恥で体中が熱くなった。  小野塚はすこし困ったような笑みを浮かべた。 「まあ、そういうこともありますよね。俺も飲み会の帰りに記憶が無くなって、目が覚めたら小田原城址公園の前で寝てたことがありますよ……財布取られなかったのはラッキーだったな」 「……ごめん」 「謝ることないですよ。俺も帰るの面倒臭かったし」  小野塚は鞄を手にした。 「じゃ、俺帰りますね。水澤さん二日酔いっぽいから、ゆっくり休んでください」   コーヒーを淹れようかと小野塚を引き留める言葉を水澤は飲み込んだ。もし小野塚が了解したら、この複雑な気分をしばらく引きずらなければならないし、断られたら柄にもなく落ち込んでしまいそうだ。 「送らなくていいですよ」  小野塚はそう言い残して、リビングを後にした。玄関のドアが閉まる重い音が響く。緊張の糸が切れ、水澤は頭痛をおぼえてソファに座り込んだ。枕代わりに使ったらしいクッションは真ん中がうっすらくぼんでいる。

ともだちにシェアしよう!