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4.ランチ仲間-4

 祝日の動物園は家族連れで混雑している。久々の晴天でひどく暑くて、水澤は上着を脱いでシャツを腕まくりしている。佐希子もしきりに汗を拭っているが、日焼けが気になるのか薄手のパーカーは羽織ったままである。 「まま!わんわん、わんわん!」  幼い息子が駆けてきて、佐希子の手を掴みしきりに指を指している先には、「スマトラトラ」と看板の掛かった柵がある。その向こうに、大きな獣が悠然と寝そべり、食物連鎖の頂点にいる者に相応しい風格で子供たちを眺めている。 「わんわんじゃなくて、ト、ラ、だよ」  佐希子がゆっくりと噛み締めるように言葉を教える。 「とら……」  額に汗を浮かべてトラを見つめる朝陽の面差しは、結婚式でも使った自分の幼い頃の写真にそっくりだと水澤は思った。1年ほどろくに顔を合わせていなかったから、朝陽はもちろん水澤を父親と認識してはいないし、水澤のほうもどう接してよいかわからない。だが、こんなにもよく似ているとやはり自分の子だと認めざるを得ないのだ。 「全然動かないのに、面白いのかしら」  確かにトラは尻尾をかすかに動かしているだけで、起き上がる気配はない。それでも朝陽は脣の間からほんの少し舌を出して、トラに見とれている。水澤には息子の気持ちがなんとなくわかるような気がする。巨大で高貴な抗えそうもない存在の前では、弱い生き物は金縛りにあうしかないのだ。 「引っ越し、終わったのか?」 「なんとかね。部屋の中段ボール箱だらけだけど、まあ生活できるくらいには荷解きできた」  実家の厄介になつていた佐希子は、孫に振り回されて疲弊した両親の視線に耐えられなくなり、企業内保育所に朝陽を入れて仕事を続けるために、会社から数駅のところにあるアパートを借りたのだ 「いざ家具を置いてみると意外に狭くって……まあ、徒歩5分のところに保育園とスーパーがあるし、広い公園も近いし、環境はいいんだよね」 「保育園?」 「会社の保育所は2歳児クラスまでなのよ。年長まで預かってくれる保育園に入れないと」  狭いと言いながらも、佐希子は今住んでいるところに根を下ろそうとしているようだ。  さすがにトラにも飽きたのか、朝陽が戻ってきた。 「今度はキリン見よっか」  佐希子は朝陽の手を引いて歩き出す。水澤は隣を歩いてよいものか迷い、数歩あとを追いかける形になった。不思議なことに、まだ2歳にもなっていない朝陽が、ちらちら振り返っては水澤の顔を見上げている。父親だと思っているわけではあるまい。母親と親しげに会話している男が気になるのか。親しげといっても、佐希子とは10年近く付き合いがあるから、今更よそよそしく振る舞うのも不自然だからなのだが。  キリンは10頭ほどいたが、餌の時間だったようで見物客で混雑している。佐希子は朝陽を抱き上げたが、よく見えないようだ。 「佐希子がよければ朝陽を肩車するよ」  水澤はちょっと遠慮がちに言った。 「なによ、あたしがよければって」  佐希子は腕の中の息子に話しかけた。 「朝陽、パパが肩車してくれるって。高いよ」  パパか……。朝陽が生まれた頃は幾度となく口にしていた単語だが、いつの間にか忘れていた。「父親」は義務の匂いがする硬くて強い言葉だが、「パパ」にはとろけるような響きがある。 「怖がったら降ろすからね」  屈んだ水澤の肩に、佐希子が朝陽の体を支えながら座らせる。ゆっくりと立ち上がると、視界がひらけたのか、頭上から「おー」と声が聞こえた。 「きりん!」 「はは……キリンって言葉は知ってるんだ」 「保育園ではキリンさんマークだもんね」  キリンの背より高いポールの先から、干し草の入った籠がぶら下がっている。キリンは首を伸ばして干し草を舌で絡め取り食べている。 「まま、キリン、ごはん!」 「そうだねえ、キリンさんごはんたべてるねえ」  妊娠中はその事実を受け入れられないかのように、無理ばかりして水澤に注意されていた佐希子は、すっかり母親の顔になっている。電話では愚痴ばかり言っていたが、やはり可愛いのだろう。  肩から降ろされてベビーカーに乗せられた朝陽は、興奮したようにしばらく言葉にならない声を上げていたが、やがて眠ってしまった。 「そろそろ引き上げようかな」  佐希子が呟いた。せっかく3人で出掛けたのに、随分あっさりしていて、水澤は物足りなく感じた。 「どこかでお茶でもしない?」 「……ごめん、仕事持って帰ってるの」  佐希子がだんだん早足になるので、水澤もムキになて合わせる。 「わかったよ。でもさ、こんな生活ずっと続けるのか?佐希子だって大変だろ?」 「大変?どういうこと」 「ひとりで子供を育てることだよ……」 「まー、大変だけどさ。お母さんにあれこれ言われるの、嫌になっちゃったから。今の方が気楽」  水澤の質問の意図がわからないのか、わかっていてはぐらかしているのか。はぐらかしているとしたら、さらに突っ込んでも水澤にとっては絶望的な答えしか返ってこないだろう。  何を言えば良いのか水澤が迷っているうちに、駅についてしまった。 「送るよ、荷物あるし大変だろ」 「慣れてるから大丈夫」  鞄の中から財布を探すのに手こずっている夫を尻目に、佐希子はスマートフォンを自動改札機にさっとかざして、ゲートの中に進んでしまった。 「じゃあ……また連絡するね」  ベビーカーのタイヤがタイル敷きの床に跳ねる音が、昼下がりの閑散とした構内に響いた。  後を追う勇気もなく、しばらく立ちすくんでいた水澤は、佐希子と朝陽が乗ったであろう電車が発車する轟音を頭上に感じてから、ようやく改札をくぐった。西日の差し込むホームで10分近く待って、ようやく電車に乗り込んだ。部活の試合帰りなのか、ジャージ姿の高校生が座席を埋め尽くし、騒がしい。車両を替えようかとも考えたが、親子連れの近くに座ってしまうよりマシかもしれないと、水澤はそのまま吊革に掴まった。  電車が動き出す。  久々に会ってくれたのに、佐希子の態度はあまり変化がない気がした。あんなによそよそしくして、朝陽がかわいそうではないか……とはいえ、そのことを口にしたら、過去に水澤が取った態度をやんわりとなじるに違いない。水澤自身、反省すべき点はあったと思うが、あの頃は自分も危機的な状況だったのだ──と説明はしたもののなかなかわかってもらえない。結局、佐希子の主張も水澤の主張も平行線のままで、交わることもなくむしろ少しずつ離れていっている。  たぶん、水澤のほうがまだ未練がある。それがどこまで愛情によるものなのか、わからない。佐希子とは学生の頃からずっと一緒にいたから、そばにいないのが不思議なくらいで、今でも帰宅すると彼女がいるような錯覚をおぼえてしまう。  その一方で朝陽に対しては、まだ赤ん坊のときに離れてしまったせいか、水澤の方もまだ他人行儀な感覚がある。しかしやはり血を分けた子だからなのかとても可愛くて、また会いたいと思うし一緒に暮らせば愛情がわくと思う。  だが、ふたりは水澤の家に戻ってきてくれるのだろうか。朝陽が生まれてからは、別居している期間の方が長いのだ。  水澤が佐希子に対して考えているほど、佐希子は彼を必要としていないのかもしれない。佐希子からほかの男の匂いはしなかった。学生時代から見た目よりもずっとサバサバしていて、体の関係もあっさりしていて、そこまで性欲の強くない水澤ですら不満に思うときがあるくらいだった。たぶん、仕事が面白くてならないのだろう。異性は、息子だけで十分なのかもしれない。  もう諦めた方がいいのだろうか。婚姻関係という呪縛を切ったほうが……  手の中のスマートフォンが震えた。佐希子からのメッセージだろうかと画面を見ると、「小野塚 要」の文字が浮かんでいた。 ◆ 〈お休み中すみません。明日の夜、空いてますか?〉  明日は金曜日で出勤ではあるが、とくに繁忙期ではない。また、飲みに誘おうというのか。いや、水澤が飲酒できないのはわかっているはずだ。それに、金曜日は林原とは飲みに行くのではなかったのか?  返信すべきか、無視するか。あの調子の良い男にいつも付き合ってやる必要はない。 〈内容による〉  つい返してしまった。それでも、諸手を挙げて歓迎しているつもりでないとは伝えている。あり得ないことだが、林原さんと3人で飲みましょうなどと書いてきたら、速攻で断るつもりだった。 〈水澤さんお酒NGなのわかってますが、付き合ってもらえませんか?〉 〈ほかに誰が行くんだ?〉  林原ではなくて、商品企画課の同僚なら、考えなくもない。水澤に同情的だし、人脈は維持しておきたいのだ。 〈いません。俺と水澤さんだけ〉  電車が止まり、高校生たちが次々と降りていく。学校がある駅なのか。車内が急にがらんとした。 〈林原と飲みに行くんじゃなかったのか?〉 〈ふられちゃいました〉  泣いているトラ猫のイラスト。  どういうことだろう?林原とは水曜日(つまり祝前日)の晩に飲みに行って、早々にアタックした挙げ句振られてしまったのか。もっと慎重にやるかと思っていたのに、意外に馬鹿なのか。  どう返信したものかと悩んでいるうちに、降りる駅を乗り過ごしそうになり水澤は慌てて閉じかけたドアからホームに出た。危険な行為を注意するアナウンスが流れるのを聞き流しながら、3回ほど書き直してどうにか飲みに行ってもよいという意味のメッセージを返し、どっと疲れてしまった。

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