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5.キスしてもいいですか-2

残っていたテーブル席に女性グループが1組入り、カウンターも埋まってしまった。やはり女性客が多い。以前もそうだったように、他の客は男ふたりが差し向かいでサラダをつまんでいても気にする様子はないし、飲みながら失恋話をするのもごく普通のことだろう。  トニックウォーターにはかすかな苦味があるせいか、料理が美味く感じる。水澤はラディッシュに何もつけずに齧っていた。兎のような気分だ。 「……結局、彼女のいるひとに近づいても、向こうにとっては浮気にしかならないんですよ。1、2回寝たら終わり……ま、俺だってそれでいいこともあるけど」  自分が恋愛対象ではないからといって、言いたい放題だなと水澤は思った。学生時代にありがちな酒の席での猥談と大差はないが、この歳になるとさすがにもう少し落ち着いた話題を聴きたい。水澤の精神状態もあるのだろうが…… 「そういえば、水澤さん指輪してるんですね」  突然何を切り出すのかと水澤は困惑したが、小野塚はもうグラスを3杯空けている。酒は強そうな印象だが、振られたことを思えば今日は酔いやすいのかもしれない。気が大きくなっているのだろう。 「結婚してるからね」 「別居してるんでしょ?」  昨日は数時間一緒にいたのに、佐希子が指輪をつけているか確認しなかった、いやできなかった。手元を見ないようにするのは、意外にやれるものだ。 「一応、やり直したいと思ってる」  声に出した途端、とても空虚な言葉に感じられた。 「まあ、相手があることだから、俺が望むだけじゃダメだけど……」  慌てて付け足すと、だんだん惨めな気分になってくる。 「でも、水澤さんは愛情があるんですね」  ナイフのような問いだ。水澤は頷いたが、果たしてそうなのか自分でもわからなくなっていた。佐希子を愛しているのなら、しつこく電話をかけて土下座をしてでも戻ってきてくれと言えるのではないか。昨日だって、佐希子が仕事だと言い張っても、ならば朝陽を見てやるとでも言ってアパートに押し掛ければよかったのだ。しかしできなかった。 「本当のところ、一緒に暮らしていけるか自信が無くなっているんだ」  探るような小野塚の視線を避けながら、水澤は独り言のように続ける。 「俺の仕事が上手く行かないときに、妻も育児で悩んでいてさ。お互いに余裕がなくなって、一緒にいるのが辛くなってしまったんだ。結婚式でカミサマに誓ったはずなのにね」 「病めるときも健やかなるときも……ですか」 「ま、結婚式場のなんちゃってチャペルだけど」  クリスチャンでもないくせにすべて雰囲気で挙げた結婚式だ。とはいえ、本当のキリスト教徒だって不倫も別居もするのだから、人間の本質などたかが知れている。 「でも、長いこと一緒にいたからね。この前久々に会ったときも、普通に話せたし……」  確かに傍目から見ればふたりは離婚しそうな夫婦とは思えないほどに、内容はともかく自然な会話をしていただろう。 「じゃあ、もう一度暮らしてみたらいいんじゃないですか?」 「そうなんだよね、でも……」  佐希子は簡単には首を縦に振らないだろう。もうアパートを契約してしまった、朝陽も会社の保育所に通っている──そんなことを言い訳にするのが容易に想像できる。 「妻の方が乗り気じゃない」  ふうん、と呟いて小野塚はジントニックを飲んだ。さっきからジンの銘柄を替えてずっとジントニックを注文し続けている。 「君と話してると、やり直すのは無理な気がしてきちゃうな」 「やめてください、俺誘導してないですよ」  確かに小野塚のせいではない。彼は助言も指摘もしていない。ただ水澤が独白しているだけだ。乱れていた思考が整理され、現実が見えてきている。愛情がまったく無くなったわけではないが、意地のような執着心が勝っているような気がする。むしろ朝陽に対しての方が、純粋に可愛く一緒に暮らしたいと考えている。しかし、子供のためだけに佐希子がやり直してくれるのだろうか。 「もう少し頑張ってみるよ」  ほとんど社交辞令のように水澤は言ったが、その台詞はむしろ自分に言い聞かせているかのようだ。 「そうですか」  小野塚の返答も挨拶のような感じだった。  もう腹はいい加減膨れて、ただ喉を潤すためにトニックウォーターを飲んでいる。小野塚がどれほど酔っているのかわからないが、アルコールに頼ることができて羨ましい。  水澤のグラスが残り少ないのに気がついたのか、小野塚はメニューを開いた。 「今度はジンジャーエールはどうです?この店のはけっこう生姜がきいてて、甘くないんです」 「それもいいね」 「俺もさすがに飲み過ぎたから、リセットしようかな」  店員を呼ぶと、ラストオーダーですと言われた。予約が詰まっているらしい。 「じゃ、コレでお開きにしますか」  小野塚は残っていたベビーリーフを行儀悪く指でつまんで口に運んだ。当たり前だが、彼の薬指に軛は無かった。  運ばれてきたジンジャーエールは、グラスの底に生姜の滓が沈殿していて、はじける泡にも強い香りを感じる。汗をかいたグラスをつかみ、水澤は半分ほどを飲み干した。喉の奥がじわじわと熱くなった。

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