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5.キスしてもいいですか-3
店を後にしたふたりは、狭い路地から大通りに出た。まだ20時半を少し回ったところで、交差点にはまばらに人が行き交っている。初めての場所なので駅までの道順はよくわからず、水澤は小野塚の後をついて行くしかなかった。店では饒舌だった小野塚は何故かまったく喋らなくなり、さりとて水澤もなにを話題にして良いかわからず、居心地が悪くなりながら歩き続けた。
いつの間にか大きな公園の中にいることに水澤は気がついた。確か、画像映えする花壇があるとなにかの番組で見たことがあるが、電灯の光だけでは花壇の位置すらよくわからない。それよりも、店に行くときは公園は通り抜けなかったはずだと水澤は訝しんだ。小野塚の足取りに迷いは無いが、駅に近づく気配は感じられない。
「水澤さん」
突然、小野塚が足を止めて振り返った。ぶつかりそうになった水澤は、慌てて半歩下がる。
「キスしてもいいですか」
遠くでクラクションが響いた。
まったく想定していない言葉に、水澤は頭の中が真っ白になった。
「えっと……どういう事?」
「キスしたくなっただけです」
灯りが届かず小野塚の表情はよくわからない。その声色からひどく酩酊しているようには思えないが、いつもの人を食ったような感じもなくて、水澤は余計に混乱した。
「俺は林原の代わりにはならないと思うけど……」
誰もが認める美貌が浮かべる無邪気な笑顔を思い出す。全然違うじゃないか。俺なんかを身代わりにして済ませるなんて、林原に失礼だろう。
気の迷いでしたと謝られて終わるだろうと予想していたのに、小野塚が発した言葉はさらに考えもつかぬもので、水澤は変な夢でも見ている気分になった。
「そうじゃなくて……水澤さんにキスしたいんです」
「どういうことなのか、俺にはさっぱり……」
両肩を掴まれる。カールした前髪が額に触れる気配に我に返った水澤は、体をよじった。
「ま、待って……」
思わず周囲をうかがうが人影はなく、とりあえず安堵した。こんなところを誰かに見られたら恥ずかしいどころではない。
「やめなさい、キスなんて軽々しくするものじゃないだろ」
「いいじゃないですか、減るもんじゃないし」
やはり酔ってるのだろう。絡むタイプなのか、面倒臭いなと水澤は呆れた。
「やっぱり不倫になるんですかね」
「え?」
「キスしたら……」
キスくらいなら不倫ではないだろうと言いかけて、水澤は慌てて首を振った。不倫ではないし減るものでもないが、迫られたからといって応じなければいけないものではない。もっと、自分の感情に素直になった方がいい……断っていいのだ……断らなくても……?
自分の中で「応じる」という選択肢があることに水澤は驚いた。酒は一滴も飲んでいないが、誰にも見られていないことが妙な感覚にさせているのだろうか。
小野塚ならば、まあいいのかもしれない。理由にもなっていないが。
「いいよ」
「え?」
「キスしても……」
今度は小野塚の方が少し逡巡しているようで、水澤の頬に指先を付けたまましばらく動かなかった。目を閉じるべきかどうか水澤は迷った。目を閉じたら自分から誘っているような気がするからだ。
「水澤さん」
小野塚が囁く。水澤はぎゅっと瞼を閉じた。体温が近づく気配。一瞬だけ、脣にあたたかな感触があって、年甲斐もなく心臓が高鳴る。確かに減るものでも不倫でもないのだが、なんとも変な気分だ。
瞼を上げた水澤は、小野塚と視線が合うと慌てて目をそらしたが、あまりに露骨な態度でむしろ恥ずかしくなる。
「別に……大したことないだろ?」
動揺を隠すように言って、水澤はどうにか小野塚に顔を向けた。
小野塚は微笑んだ。薄闇のせいか寂しそうに見えた。
「そう簡単には忘れられそうにないです」
そこまで林原が好きなのか。
水澤はなぜか胸の奥が疼き、息苦しくなった。
「……気が済んだだろ。帰ろう」
本当は小野塚を置いてさっさと歩き出したかったのだが、道がわからないのだから仕方がない。逃げ出したのに迷って小野塚に追いつかれてしまったらあまりに情けない。
甲高い笑い声が響く。少し離れたところで複数の人影が揺れていた。かなり酒が入っているのだろう、お前コクっちゃえよ!何言ってるんだよ!などと大声が聞こえる。
ようやく小野塚の足が動いた。並んで歩いているだけならなんの不自然さもないだろうが、騒がしい集団に近づくにつれ水澤は変に緊張してきた。彼らが先程の一部始終を見ていたらどうしようかと考えてしまう。
たむろしていたのは学生らしいカジュアルな服装の男女5人組で、相当酔っているのか皆フラフラしている。
「カレシいてもいいじゃん~、言うだけ言いなよ~」
「バーカ、それで断られたらトモダチでも居られないだろ」
「ダイジョーブ、どうにかなるって」
「テキトーなこと言うなよ」
ぎゃははは、と笑い声。だいぶ離れてから小野塚が呟いた。
「若いから勢いで告白しちゃうかもしれないですね」
まだ引きずっているようで、小野塚の繊細さが水澤には意外だった。仕事と恋は別人ということか。
公園を出ると大通りで、すれ違うヘッドライトに照らされながらふたりは歩いた。小野塚はずっと黙っている。端整な横顔がオレンジ色の光に照らされ、闇に沈む。次第に居たたまれなくなってきて、水澤は口を開いた。
「商品企画課は最近忙しそうじゃないか」
「そうですね。イベントを控えてて……あと、“やさしさ糖質ゼロ”の売れ行きがまだ良くなくて、販促考えろって部長が吠えてます」
あんまりな表現だが的を射ているので、水澤は吹き出した。
「その割に提案を頭ごなしにボツるんだろ?」
「はい、あれこれケチつけられました。あんまりやられると、精神的にきますね。課長は相変わらず日和見だし」
小野塚は自分よりずっとポジティブ思考だと水澤は思っていたが、部長からの攻撃はそれなりにストレスがあるようだ。不謹慎だが小野塚も人の子だなと水澤は安堵した。
「あまりのめり込まないようにしろよ。俺みたいになっちゃうから」
小野塚は頷いたようだった。
会話が途切れ、ふたりはしばらく無言で歩いた。見覚えのある街並みに気がついて道路の先を見ると、地下鉄のロゴマークが光っていた。薄暗い階段を降りると、昼夜変わらず無機質に明るい空間が現れる。
改札の前で小野塚が足を止めた。
「……そうだ、水澤さんが共有フォルダに残していった企画案、すこし戴いてもいいですか?」
「俺の?」
ファイルは残していったが、正直なところ内容はあまり覚えていない。どうせ山崎に全否定されるのだからと忘れる努力をしたくらいなのだ。
「あんまり良いものではないと思うけど」
「俺は好きですよ。部長も認めると思うけどなあ」
「まさか」
いつも頭ごなしに貶されていたのだ、評価されるわけがない。
小野塚は言葉を切り、カードをかざして改札を抜け、
「それじゃ、俺こっちなんで……」
と、水澤が乗る路線とは別のホームを指差す。小野塚の自宅の最寄り駅に行くルートが、水澤にはピンと来なかった。
「おやすみなさい」
「おやすみ……あまり思い詰めるなよ」
水澤の言葉に小野塚はちょっと笑顔を見せ、早足で階段を降りていった。
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