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5.キスしてもいいですか-4

 なかなか寝つけそうにないと睡眠導入剤をいつもの倍量飲んだせいか、泥のように眠ってしまった。けたたましい着信音で水澤はようやく目覚めた。頭が重い。どうにかスマートフォンを起動して画面を見ると、もう正午を過ぎているうえにメッセージが5件入っている。すべて佐希子のものだ。  電話をかけ直すと、すぐに聞き慣れた声が返ってきた。 「寝てたの?」 「まあね……」 「ひとりだと随分のんびりなのね」  嫌みのような言葉に、この前突然押し掛けてきたときといいたまたま寝坊しただけだよと弁解したかったが、口論しても仕方がないので水澤は黙っていた。 「話があるの、今いい?」  眠気を引きずっているが、断る理由にはならないだろう。佐希子の硬い声からして良い予感はしない。 「いいけど、朝陽は?」 「寝てる」 「昨日からずっと?」 「まさか。朝6時に起こされたんだよ。朝ご飯食べてから、公園3か所回って帰ってたらもうお昼ご飯で……うどん食べさせたら寝ちゃった」 「……大変だったね」  別居の夫はひとりで悠々と寝ているのだから、愚痴のひとつも聴いてやらなければいけないだろう。  ところが水澤の思いとは裏腹に、佐希子は性急に切り出した。 「……あのさ、このままじゃいけないと思うのよ」 「どういうこと」 「だって、もう1年以上別居してる」 「そうだけどさ」  佐希子は黙ってしまった。彼女が言いたいことはわかっている。しかし水澤はどうにかして言葉に出す前に思いとどまらせたかった。 「……やり直せないのかな」  佐希子はなかなか答えなかった。水澤がもう一度繰り返そうと口を開くと、それを打ち消すように早口で返してきた。 「用紙貰ってるのよ」  なんの用紙なのかは容易に想像できた。水澤はまだ1年ちょっとしか経っていないと思っているが、佐希子は違うのだ。 「佐希は、もうやり直せないのと思ってる?」 「……うん、そうね」  まだ眠気が残っている脳味噌ではすぐに理解ができなかった。いや、受け入れたくないだけなのだろう。 「なんでそう思うんだ」 「ヒロくん……」  溜息まじりの声に、水澤は苛ついた。 「もしかして、ほかに好きな男ができたのか」 「あ、それはない」  肯定されても困るが、あっさり否定されてしまうと、あとはもう自分に非があるとしか考えられない。 「俺が悪いのか?」 「そういう訳じゃないのよ」  佐希子の返答はどこまでも曖昧だ。 「ちゃんと説明してくれよ。じゃないと判は押せない」 「ごめん、朝陽が起きそう。またかける」  電話が切れた。 「都合良く起きるかよ……」  口汚く呟きながら、水澤はベッドを出た。この前と違い、帰宅してからちゃんと風呂に入って着替えたのだが、気温が高いせいか寝汗をかいて体がベタベタしている。佐希子がかけてきたら嫌だなと思いつつ、不快感に耐えられず水澤は下着を脱いで浴室に入った。熱い湯を頭から浴びるとようやく眠気が抜けて頭の中がクリアになっていく。  やっぱりダメか、ダメなのか。もうやり直せないのか。  昨夜、小野塚と話していてやり直すのは難しいのではと自分でも思っていた。佐希子の声を聞いたらそんなことは吹っ飛んで逆上してしまったが、結局は愛情よりもただの執着なのかもしれない。  浴室を出て乾いた服に着替える。洗濯機の脇に置かれた汚れ物を入れる籠は、なかなかいっぱいにならず洗濯は数日に一度になった。キッチンにある冷蔵庫は独り暮らしには大きすぎる。扉を開けると中には野菜ジュースのペットボトルが数本横たわり、ドアポケットには結婚生活の残滓のような調味料類が並んでいる。食品メーカーに勤めているだけあり、佐希子よりも水澤の方が料理が好きで、週末には凝ったメニューを作っていた。今は自分ひとりのために作る気にはなれず、ビタミン類は野菜ジュースとサプリメントで補っている。それはそれで、気楽なのだ。  ずっと傍にいた佐希子がいない生活に、慣れ始めていると気がついて、水澤は愕然とした。  着信音が鳴り響く。水澤は慌てて通話ボタンを押した。 「ごめん、どうにか寝てくれた」  ベランダにでも出たのか、風の音が佐希子の声を遮って聴き取りづらいが、せっかく寝た子を起こしたくないのだろう。 「……で?」  水澤が促すと、佐希子は何度もつかえながら続けた。 「ヒロくんが嫌いになったわけじゃないの……でも一緒に住むのはしんどいっていうか……いや、結婚したときは楽しかったんだけどね……」 「じゃあ、やり直す余地があるんじゃないか?」 「それは……自信がない」 「どうして」  佐希子は慎重に言葉を選んでいるようだった。 「薄情だって言われればそれまでだけど……赤ちゃんの朝陽と具合の悪いヒロくんと、どっちも支えるのはあたしには無理だったのよ。そうしたら、朝陽を選ぶしかないじゃない」  確かに1年前はそうだろう。しかし今は状況が違うではないか。そう言いかけたが水澤は結局言葉を飲み込んだ。離れて暮らしているうちに、心も離れてしまったのだろう。 「わかったよ。でも色々話し合わなきゃならないだろ」  佐希子がほっと息をつくのがわかった。 「養育費とか、あとマンションの名義とかさ……」  こんなことになるとは佐希子もわからなかっただろう。マンションはふたりの名義になっていて、ローンも多少水澤の方が多くはなっているが、どちらも組んでいるのだ。水澤がひとりで返すには厳しい金額だし、だいいち広すぎる。離婚するならするで、感慨に浸っている暇はない。佐希子だってローンとアパートの家賃を二重で払うのはキツいだろう。マンションはきれいなうちに売却してしまった方が良い。 「あー、そういうのやらなくちゃね。離婚するのも、色々大変」  その程度の覚悟なら、少し努力すれば夫婦としてやっていけるのではないかとまた言いそうになって、水澤は思い留まった。あまりに未練がましい。 「まあ、このマンションには住んでられないね」 「あたし、不動産屋さんに相談するわ」  やはり別れる意志だけは固いようで、佐希子はきっぱりと宣言した。 「ひとりで大丈夫?俺も行こうか」 「やだ、平気よ。だって変じゃない、これから離婚するのに、連れ立って相談に行くなんて……」  確かにそうだろう。 「なら俺が行くよ。今住んでるのは俺なんだし」 「ホント?」  佐希子の声色は、面倒な仕事を引き受けてくれるのかと安堵する感じではなく、本当にやってくれるのか少し疑っているようだった。 「それくらいできるよ。佐希は朝陽がいるから、大変だろ」 「じゃあ、お願いします」  それから少し雑談をして、電話は切れた。久々に佐希子とまともにやりとりができたような気がする。佐希子にしてみれば、自分の望む通り離婚に向けて進んでいるのだから、穏やかにもなるし夫をおだてて行動させようというところだろう。  水澤はゴミ箱に無造作に放り込まれていたチラシを手にした。「マンションの売却、ご相談ください!」と大きく書かれた不動産会社の広告である。意識してなかったが、こんな広告が毎日のようにポストに入れられているのだ。この中から近くの店舗でも探して電話してみよう。  水澤は部屋の隅に置かれたベビーベッドに気がついた。これも処分しなければいけない。まだミルクのにおいがする朝陽の柔らかい頬を思い出した。

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